(この文章は2018121日に、滋賀漢方鍼医会の月例会において新春特別講演した内容を文章化したものです)

30年後の「かきくけこ教訓」』

 

 私がこの鍼灸の世界へ入って、学生時代を含めると35年になります。いわゆる経絡治療という分野へ足を踏み入れても32年になります。この3月で、開業をして30年目に入ります、随分と年を取ったものです。

 私が下積み修行をさせていただいていたときに、大量に録音カセットが蓄積されていてその中から見つけたものがありました。東洋はり医学会の第9回経絡治療大学技術講座の研究部で行われた、「営業反映の秘訣」というシンポジウムでした。その中で高知支部の塩見哲生先生が「実はこれは一度高知支部で講演したものなのだけれど、改めて発表し治す」と前置きされ、営業反映をするためにはこういう鍼灸師になるべきだということを話されました。この録音テープがあまり時間が経過していないはずなのに状態がよくなかったのですけど必死で聞いて、さらにカセットテープがおかしくなってしまいそうだったのでダビングをして何度も何度も繰り返し聞き込みました。

 ほかの先生も非常にいいお話をしていただいたのですが、特に塩見先生の「か・き・く・け・こ」で表された話が印象に残りました。それで開業をしたときに日本語ワープロ専用機でポスターを自作してさらに拡大コピーも使い、事務スペースに掲げてずっと眺めてきました。まぁ私の目では直接見えないので心に描いたものを眺め続けていたということになるのですけど、うちの助手出身の人たちは文字通り眺めていたのでありました。

 

 それで30年という節目になり、塩見先生が話していただいた言葉が私の中でどれくらい消化できたのかと考え、私なりの言葉でもう一度発表させてもらおうと準備をしてきました。

 では、一つずつ進めていきます。

 

 

   「人間として」

 

  か 感謝する人間でなければならない

 

 「感謝する人間でなければならない」とは、すごく当たり前に聞こえます。でも、いきなりぶちかましてしまいます。私が塩見先生の言葉を聞いてから、ずっとずっと素直に解釈しようとしていましたが、途中から言葉の解説を変えた方がいいのではと思ったまず最初の部分なのです。

 今から10数年前に雑誌の取材がしたいという連絡があり、要するに広告を出せということなのですけどタレントの森山周一郎さんが来院されるというのです。「広告宣伝じゃないです」と来院してもいわれていましたが、こちらとしては写真撮影をしてホームページに掲載してもかまわないのかというところにこだわりました。たいていは肖像権がということでだめと言われるのですけど、この取材だけはタレントと並んで座っているところを撮影してホームページへ写真を掲載して差し支えないというのです。「それならば」ということでこちらが取材費を出して、つまり広告を出すことにしました。

 このときに取材記者から「先生たくさんの人に感謝されたでしょう」、「あの人にもこの人にも感謝されたでしょう」と尋ねてきたのですけど、私は「わからない」と答えました。「いやいや、たくさんの人に感謝されているでしょ」と何度も何度も尋ねられたのですけど、「わからない」とだけ答えています。

 感謝というのは、相手の心の底からわいてきた感情のことですよね。ですから「あの人は治療の後で本当に喜ばれていましたよ」という報告を別人から聞いたり、すごくうれしそうにして治療室を出て行かれたなら喜んでおられたというのはわかります。時には一人で動けないほどの痛みだったものが劇的に回復し、「本当にあれで救われました感謝しています」と直接言葉を聞いたときには、それはわかります。でも「感謝されたでしょう?」と質問されても、感謝というのは相手の心から出てくるものなのですから「わからない」という返事をしたのです。

 ここでちょっと話をひっくり返すというか、皆さんの治療家としての生き方にも関わってくることなのですけど、どうして鍼灸という職業を選択したのかという質問をしたときに、「人に感謝される職業を考えていたなら鍼灸という道になった」と話す人が時々います。でも、さっきの説明からすれば「そんな人の心が読み取れるの?」ということになります。

 私は盲学校の出身で、刷り込みのようにして「あはき」の世界へ小さな頃から入るのだと思っていました。どうせ「あはき」をやるなら社会に役立つような人間になりたいとは思っていましたけど、「人に感謝されるような仕事を」などとは思ったことがないです。「社会のために」「社会へ役立つための仕事をやりたい」とは思いましたけど、「誰かのための仕事」と思ったこともないです。というのも、目が見えなくて生まれてきて福祉のお世話になることが多く、障害者スポーツをしてきても今でこそ“パラアスリート”と注目されるようになりましたけど、その当時はまだボランティアに支えてもらっている部分が大きい世界でした。そんな学生時代ですから、いきなり「人に感謝されるような」などと大げさなことは考えもしなかったです。

 これはオフレコにしておきたいような話なのですけど、うちの助手へ入ったのに途中でドロップアウトしてしまった人の中には、先ほど話したみたいに「人に感謝される職業に就きたくて」「感謝される治療家になりたくて」と志望動機を述べた人がいました。「それはちょっと違うよ」と念を押して軟らかく断ったのですけど、私の鍼灸院は田舎なので慢性的な人材不足という弱点もあることからどうしても入りたいということで助手にはなったのですけど、途中でドロップアウトになってしまいました。一番「お前それは!!」と思ったのは、「私たちは尊い仕事をしているので」と自ら口にした人がいました。尊いかどうかは他人が判断してくれることであって、それこそ自分で決めるものではない。やっぱりそういうスタンスだと、ドロップアウトも早かったです。

 ですから、「人に感謝してもらおう」と発想するのではなく、まだまだ発展途上の自分のところへ来てもらってさらに学ばせてもらっている、「それはありがたいこと」と日々こちらから思うことなのだろうなと考えています。

 

  き 気のつく人間でなければならない

 

 はい、なりたいですね「気のつく人間」に。「気の利かん奴ゃなぁ」「もっと気の利く人間になりなさい」と注意を受けることもあると思います。

 考えてみると、「気のつく人」というのは二つ・三つ先のプロセスのことまで考えている人のことなのです。二つ・三つ先のステップを考えるということは、まず最初の選択肢として二つあるいは三つ、つぎのすてっぷになると2*2=4あるいは3*2=6、さらに次のステップになると4*2=8あるいは6*2=12と、様々な想定をしている人というのは色々なことに気づけると思うのです。逆の言い方をすれば、行き当たりばったりばかりの人は気のつかない人だということになります。

 例えばスポーツのゲーム中、余力を十分残して戦える相手だったりまだ予選で目一杯の力を出さなくても通過できるというときには、泳いだり走ったりしていてもプランを考えていたり結晶のイメージトレーニングが優先できていたりするものです。卓球やテニスなどボールゲームでも、「どこでスマッシュをしてやろうかな」と考えながらラリーができるものなのです。これは二手・三手先が読めているからです。ところが追い詰められてきたり、特に実力伯仲なのにゲームが押されてきたりすると目先のことしか考えられなくなってしまいます。つまり、行き当たりばったりのプレーになってしまっているわけです。こうなるとミスを犯しやすくなる、それは「気がついていない」からなのです。

 

  く 苦労を惜しむ人間ではいけない

 

 「苦労はお金を払ってでも買え」という言葉もあります。要するに「面倒くさいなぁ」とか「これは余計に手間がかかるんだけど」などと思えることでも、将来の肥やしになることであれば積極的に取り組んでくださいということです。

 私が助手修行へ入るときには、盲学校出身でアルバイトの経験さえありませんでした。それが引っ越しをしたなら、自炊と社会人と一度に切り替わってしまう。ほかにも東洋はり医学会のつながりで入れてもらったのですが、師匠のところはどうやら治療スタイルが特殊だったりもしたので、葛藤を抱えながら治療の手伝いをしていくことにもなりました。でも、「これはすべて人生の肥やしになる」と思えばなんということはありませんでした。それに助手へ入ると決めたときから絶対に師匠の批判はしないと誓っていましたから、東洋はり医学会のオーソドックスなスタイルと違うことに時間が経過すればするほど葛藤はますます大きくなったのですけど、これは開業してから本当に大きな肥やしとなりました。

 うちに来てもらった助手の人たちも、地域が変わる・治療法が変わる、そして師弟関係ですから「いじめ」はないにしても臨床を何十年もしている私の知識へ「すぐに追いついてこい」と命じられます。患者さんが目の前にいるのですから、助手に合わせて臨床レベルを落とすわけにはいかないのでこれは当たり前です。必死で追いついてるまでの数ヶ月というのがものすごく大変だとはわかっているのですけど、それは苦労をわざわざ背負ってもらおうとやってきたことなのです。

 

  け 謙虚な人間でなければならない

 

 んっ、ここはノーコメントにしたいところですね(苦笑)。私には頭の痛いところで、滋賀県立盲学校のクラスメートであり現在滋賀漢方鍼医会の会長でもある小林先生とずっと学生時代から一緒に研修してきたのですけど、人望の高さが小林先生と違ってしまっているのが謙虚さの違いではないかと、素直に思ってはいます。

 優柔不断と謙虚は、これは違っています。常にもう一人の自分がいて、客観的に本人自身を観察するようでありたいと実践しているつもりなのですが、ついつい興奮しやすいところもあって反省の日々です(苦笑)

 

  こ 心の広い人間でなければならない

 

 ここも「そうありたいな」と、皆さんも願っておられるところだろうと思います。私が目標としてきたのは、東洋はり医学会初代会長の福島弘道先生です。学生時代から東洋医学の教科書が福島先生の「経絡治療要項」でしたし、講演テープも聞いてきました。福島先生は傷痍軍人でありながら一般的な「あはき」に飽き足らず、戦場で自分以外は爆死をしていたところを一人だけ助かった命なのだから、この命をみんなのために使おうと思われたわけです。

 本名が福島徳男(ふくしまとくお)なのですけど、「福」に「徳」では自分だけ得をするのでそれではこれから目指すものと違っているということで、道を広げるということで「弘道(こうどう)」と名前を自ら変えられています。

 自分の体験されたことは、すべて発表をされていました。特によかったことについては、すべて人に教えておられました。「あぁこの福島弘道先生の生き方を真似したいな」と学生時代から思い、実践してきたのです。その一つとして、自分の経験したものはできる限り文章化して、ホームページ上ですべて公開してきました。

 

 

   治療家として

 

  か 感覚を大切にしなければならない

 

 感覚を大切にして磨くこと、頭ではわかっているのですけど「一体どないしたらええねん」と足踏みをしている人が結構いるのだろうと思います。端的に言い切ってしまいますけど、これはどれだけ自己治療をするかだと思います。

 もう廃版になっていますけど、自分たちでテキストを作りたいということで滋賀漢方鍼医会へ移行する前に黄色い本を出版していた時期がありました。それで推薦文を首藤傳明先生に書いて欲しいと依頼をしたのです。大胆なことをしたものですけど、首藤先生は全部読んで推薦文を書いてくれました。その推薦文には「一番感銘したのは自己治療をしようというセクションがあること、こんなテキストはない」と書かれてありました。首藤先生は身体が弱く、自己治療をすることによって自分は今ここにあると常々語られています。私も自己治療は三日に一度以上は、欠かしていません。ほぼ毎日行っています。

 今回の話を準備していて、思い出したことがあります。基本刺鍼が少しできるようになった頃、今のようにていしんではなく毫鍼しか知らない時代ですけど自分の足へ手法ができるようになったなら、腹部を使っての練習をしなさいと言われたのです。呼吸によって腹部が上下しますから、動きに合わせられる柔軟な手を作るための練習を指示されていたわけです。その時に「経絡の流注上へは直接当てない方がいい」と注意を受けていたのですけど、その頃は「なんでかな?」と意味がわかっていませんでした。

 ちょっと響いたり経絡の流れが刺鍼からわかったりするものですから、入門間もなくなのでおもしろくて仕方ありませんでした。どんな意味があるのかまではわかりませんでしたが、「おぉっこれは」というくらいに脈も変化をするのでますますおもしろくて仕方ありません。調子に乗って腎経の流注上へ鍼を入れた瞬間、ピューンという感じで喉まで突き上がってきたのです。腎経の流注は『舌下に散るがごとく終わる』と書かれてあるのですけど、花火が散るように舌下に響きがあって「あぁ本当だ」と感動したのですけど、そこから三日間は下痢が全く止まらなくなってしまいました。

 「あぁこういうことか」とやっとわかったのですけど、後の祭りでした。不思議なことに小林先生が全く同じ時期に腹部のどこかの経絡の流注上へ刺鍼していて、下痢が止まらないという経験をしていました。「あっ、これが感覚を磨くということなんだな」と、あのときに学びました。

 

  き 「気」「気迫」を持たなければならない

 

 これも「持ちたい」と思っている人ばかりですよね。どうやったなら気迫が持てるようになるのか?これは、難しい治療へ挑戦することです。

 私が気が強くなったというのか「気迫ある治療をしなければならない」と心に刻みつけられたのは、夏休みに当時東洋はり医学会北大阪支部長をされていた宮脇先生の鍼灸院を見学させてもらった直後に近畿青年洋上大学という行事へ参加したことが大きかったのです。メンバーの中に看護婦さんは大勢おられたのですけど医者はいなかったので、「治療ができるのはお前しかいない」と無理難題が次々に舞い込んでくるのです。しかも分団行動というのも途中にあって、スタッフを入れても70名程度で中国の奥の方まで行程が組んであり、そこで問題が発生してくるのです。

 ひどいケースでは、人民大会堂へ入ることができたのですけど宴会の途中で倒れてしまうやつがいました。しかも半分泡を吹いていたので「これはどうしよう」ということになり、井穴刺絡をすることにしました。人民大会堂の中ですから警備員がたくさんいたので、みんなに見えないようにガードしてもらいながら刺絡をしました。飛行機が上昇してから胃痛を訴えられたり、思い出せるだけでも綱渡りの連続でした。

 また開業をしてからは、発表をしてきた末期の大腸癌治療など「本当にここから逃げ出したい」というような経験を何度かすると、気迫というものが出てきます。ですから簡単な治療ばかりを選ぶのではなく、自分が感じている技量よりも難しい治療へ挑戦することをためらわないでください。

 

  く 工夫をしなければならない

 

 常に道具や姿勢や治療に対して、「どうすればいいかな」と考え続けることです。

 学生時代に「小里式ていしん」を初めて触りました。最初に愛用したていしんであり、長くお世話になりました。ちなみに私が初めて経絡治療を受けたときには井上式ていしんでした。井上式はバネが仕込んでありますから軽い衝撃があるので、びっくりしました。勉強を始めて間もなくは同じていしんだと説明されても当時は何が違うのかがわからなかったのですけど、井上恵理先生も小里勝之先生も名前は知っていたので「偉い先生というのは道具まで作ってしまうんだなぁ」と感心してしまいました。赤羽幸兵先生の「皮内鍼」という話も聞いていてすごい発想力だと尊敬しかありませんでした。

 結構な時間が経過しましたけど、大阪漢方鍼医会の森本繁太郎先生が「森本式ていしん」を作っているということで、現代でもすごい先生がいるものだとまたまた感心しました。

 それで森本式ていしんも長く愛用させてもらったのですが、森本先生の手に合わせて作られたものですから自分の手に合わせたものがほしいと思うようになってしまったのです。それが今のような何種類かのていしんとなったのですけど、製作するときに具体的なことは手にするまでわからないもののアイデアをいくつか仕込んでおきましたから、実物が届いてからさらに活用法を広げることができています。

 治療法は、まだまだこれから広がるものです。自分の手に合わせるためには、自分がもっといい治療をするためにはと考えることだろうと思います。

 

  け 決断力を持たなければならない

 

 決断力は、先ほど話をした難しい治療へ挑戦するときに必要となります。今の私を見ていると「嘘だろ」といわれそうなのですが、学生時代には決断力がもう一つ足りなかったのです。

 それがこれも先ほど出てきた近畿青年洋上大学へ参加したときに、ウェルカムイベントで指定された人数が集められればしゃがんで条件クリアとなり集められなかったところがアウトになるというゲームがあり、私は目が見えないので人数把握ができないだろうからと仲間が守ってくれたのです。その時に大阪出身の女性で当時の言葉で言えば“キャピキャピギャル”の活発な人が、「同じ参加するなら最後の三分の一くらいまでは残ろう」と一緒に頑張ってくれました。何度目かは忘れましたが「何二です」という号令があったとき、私の仲間では一人だけ足りなかったのです。そうしたなら隣のできあがりかけて半分しゃがんでいたグループに知っている人がいたので「あんたはこっちへ来なさい」と引っ張ってきたのです。「すごいことを、関西弁で言うえらいことをする人やなぁ」と思ったのですけど、同時に「決断力というのはこういうことなんだ」とも思いました。

 要は社会的に犯罪にさえならなければ、自分の目的へ「こうだ!!」と突き進むことなのだと思い知りました。反社会的な行動や法律に触れることやルールを破らなければ、ルールの範囲内であれば自分がやりたいことをやり通す力なんだと学習しました。ゲームは「何人で集まりなさい」としかルールがないのですから、とにかく自分たちが指定された人数に固まればいいのです、それだけですから知っている顔がいれば隣から引っ張ってきてもルール違反ではありませんし、目的は達成されたのです。

 

  こ 根性を持たなければならない

 

 項目の締めくくりになります。皆さんの前で話をするのは多分これが初めてだと思うのですけど、開業をする前の年ですから下積み修行へ入っての二年目であり、そろそろ具体的な開業準備を始めた頃でした。ちょうど盲学校のはじめてのクラス同窓会は私が幹事で行っていて、二日目の昼食を食べて解散ということになりました。まだ時間はあるので小林先生とお茶でもしようかということになりました。それで本来ならこの時期だと小林先生は治療室ができあがって開業をしていたはずだったのですけど、バブル経済の頃だったので流行っていた「地上げの失敗」というか悪質業者のために工事がストップしていたのであり、浜大津駅周辺を歩いていたときに小林先生が「鍼灸専門で開業しようと宮脇先生に相談をしたんだ」とつぶやかれたのです。

 宮脇先生からは「最初はかなりしんどいと思うけど、自分が目指したなら最初から鍼灸専門にした方がいい」といわれたので、「そのようにしようと思う」という話でした。私も先輩たちの素晴らしい功績から鍼灸専門の治療室へ下積み修行へ入ったのであり、もちろん鍼灸専門で開業するつもりでいたのですけど治療室の設計を始めてみると「色々なことがあるから和室も作って按摩のできるスペースも」などとも考えていたりしたのでした。でも、この小林先生の言葉を聞いたことによって「絶対に按摩はしない・しんどくても逃げない」と誓いました。そういう根性を持って開業をすれば、絶対に伸びていくことでしょう。

 

 ちょっと長くなってきたので本当にまとめになりますけど、30年経過して塩見先生の言葉と私の言葉と違うと思いますし、現代の言葉には置き換えられたと思います。皆さんも何か座右の銘を持って、今年も頑張っていきたいと思います。では、これで終わります。




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