2005.6.19

 

「漢方鍼医基礎講座」 その2

 

二木 清文

 

 まずは親ばか大爆発の方から報告させて頂きたいのですけど、昨日の夜に女の子が2778gで産まれました。お互いに鍼灸師ですからずっと安産に対する準備をしてきた訳なのですけど、まずはマタニティのスイミングを五ヶ月目から始めて六ヶ月目からは安産灸も始めました。色々と妊娠の中で勉強したことがありますからこの際ですので先にお話ししたいと思うのですけど、まず私たちの中で認識が大きく違っていたことが赤ちゃんの大きさです。「小さく産んで大きく育てる」という言葉があるように、赤ちゃんは3000gでは大きすぎて2700gあれば充分なのです。現代の医学基準でいえば2200g以下でないと未熟児とはいわないそうですし、最近なら2000g以下でないと未熟児とはいわれないでしょう。今回の妊娠の中で胎児を大きくさせすぎないことにも、三陰交の安産灸が働くということは認識不足でした。

 愛知の渡部恵子先生に教えて頂いたのですが、三陰交のお灸とは産道を柔らかくするとかお産を軽くするだけでなく胎児を大きくさせすぎない効果があるということです。うちに来院される妊婦の患者さんにはもちろん安産灸を勧めるのですけど、最近はこのような説明を加えることによって全員が行ってくれるようになりました。少し遠いところに住んでおられる方なのでしょっちゅうは来られていないのですけど、現在双子を妊娠されています。双子なので当然大きく、しかも二人とも男の子ですから「大きくなりすぎない効果がある」という話に飛びついてきて、その妊婦さんは学生時代から知っていたのですけど一人目の妊娠時には治療の機会がなかったのですが、大きくなりすぎないためにと安産灸をされています。

 それから、それぞれの施設で違いはあると思うのですけどマタニティのスイミングですね。五ヶ月目からしか始められないと思っていたのですけど、四ヶ月目からできるらしいです。胎盤が下がっていると切迫流産になってしまいますから、胎盤が下がっていないかどうかの検査さえ受ければ四ヶ月目から開始できるとのことです。やり方に違いはあると思うのですけど、母胎というものは股関節が硬くなるものでこれは歩きにくくなりますし出産時の障害にもなりますから水中であることを利用して股関節を柔らかくしていることは、どこでも共通しているでしょう。別名「アホの坂田踊り」だったらしいですけど(笑い)。別のスクールを体験した人は、九ヶ月を過ぎていたのにかなり泳がされたとも話していました。しかも「背泳ぎをやれ」と言われたそうです。マタニティのスイミングはむくみを作らない・静脈瘤を作らないなどにも効果があります。

 それから体重管理です。昔は「二人分なんだから食べろ食べろ」「10kgは太らなければダメだ」と言っていたのですけど、これは大嘘です。胎児が3000g、羊水が1000g、胎盤が1000g、それからやはり体力が必要だということで1000g、合計で6000g。つまり6kgまでは増えなければ困るのですけど、それ以上は増やさないようにということで体重管理が非常に厳しく行われます。定期検診で体重が増えすぎていると、「ウェートコントロールをしてください」といわれてしまいます。何故かといえば先程の静脈瘤を起こしてしまうことがそうですし、妊娠時の糖尿病というケースもあるらしいです。つい先日聞いたばかりの話なのですが、七ヶ月目でおそらく低血糖を起こしてしまったのでしょう失神をしてしまい、知らない間に赤ちゃんが出ていて「二人目を妊娠する時には勝手に妊娠するな」とお医者さんに言われているそうですが・・・。その方はきっと管理が悪く、つわりの時に普通のご飯が食べたくなくて体重さえ増えなければいいだろうとお菓子ばかりを食べていたことが想像されるのですけど、そんなこともあったりするので体重は増やしすぎないことです。他にも妊娠と同時に高血圧になる人がいますし、産道が脂肪で狭くなってしまい赤ちゃんが出にくいなどもあります。

 

 本論から外れているのでこれくらいにしたいとは思うのですけど、ちなみに産む動作の時だったのですが胎児があまり下がっていないかなり上にいる状態から陣痛が始まってしまい陣痛が二十四時間を越えてしまったのです。金曜日の夕方四時あたりから「どうもこれは陣痛だろう」ということで準備に入り、帰宅をしたのが六時。この時点ではまだ一瞬立ち止まる程度の痛みで家の用事をこなしていたのですが、どうやら入院しなくてはならないだろうと入浴をして食事もして最後の用事を片付けて病院へ向かったのが、そろそろ日付変更線というあたりでした。モニタなどを付けてうちの母親も付き添っていたのが午前二時あたりまででしたが、この時点ではまだ一瞬痛むだけで私も仮眠をしたりしていて明け方あたりから本格的な痛みになってきました。「速ければ明け方あたりだろうが初産なので昼過ぎになるだろう」という予想だったので、一度仕事に戻ってくる時にはかなりの痛みになっていましたから後ろ髪を引かれる思いでした。途中で様子を聞くことができたのですが軽く破水をしてしまい、破水後は逆に陣痛が軽くなってしまったとのことでした。昼休みにいった時には陣痛はぐっと来るのですけどすぐ楽になってしまい、これは夜中かもう一度日付変更線を越えてしまうのではないだろうかという感触でした。仕事が終わってからまた出かけると、すぐに気張りたくなるような感じになり本当に骨盤の中まで降りてきているという感じになりました。そこからはとても早くて気張りたいような状態から分娩台に乗るまでが三十分、分娩台に乗ってからは二十分。「赤ちゃんの頭が見えてきましたよ」と教えてもらってから、最後に気張るのは五回も気張ったかなというくらいで、あっという間に出ました。

 ということで、いきなり親ばかを大爆発させて頂きましたけどタイムリーな話題なので報告でした。

 

 それでは先月に続き、本論に入っていきます。テキストに入る前なのですが、今は総論をやっているのですけど今月の臨床室で感じたことなのですが「気が付くのではなく感じること」、これは取穴をしたり施術をする時に何度も思いました。「ツボを探そう探そう」「気をつけよう気をつけよう」、患者さんを・病気をどのように診ていこうかと「気をつけよう気をつけよう」という傾向にあると思うのです。これは考え方の問題で、「気をつけよう」ということはこちらから気を発して・飛ばしているということなのですよね。でも、患者さんを診ようという時には患者さんの病気を診なければならないのですから、「感じよう感じよう」という形でなければうまく行かないのではないかと思うのです。こちらから気は送るのですけどね。

 経絡治療というものをうちの初診患者さんには次のように説明をしています。人間の体の中には十二本のエネルギーの流れがあるとしています、これは十二経絡のことですね。その流れ方が順調だったら自然治癒力といって自分で病気を治す力が旺盛で病気にはならないのだとします。ところが、その十二本のエネルギーの流れに乱れがあると、肩が凝ったり腰が痛くなったり、あるいは風邪をひいたりするのです。ですから、その十二本のエネルギーの流れを整えてやれば自然治癒力が旺盛になって病気は回復するのだと考える治療法なのです。その十二本のエネルギーの流れを整えてやるには手足の先にあるツボを使ってやる方が整えやすいので、このような治療をしているのですと本治法の説明をします。

 聴講班を担当した時にはもう少し説明を加えて、十二経絡を調整するのだけれどもその前提として世界中のどの医学においても病気を治す力というものは、自然治癒力以外にはあり得ないことを強調します。例えば指先をけがしたなら大抵は救急テープを貼るのですが、救急テープがケガを治してくれるのかといえばそんなことはない。あれは雑菌が入らないようにしたり傷口を狭めてくっつき安くさせているだけで、救急テープが治してくれているわけではないのです。もっと極端な話をすれば、虫垂炎の手術を受けなければならない時に、開腹術を受けてお医者さんに「ありがとうございました」とお礼を言うのは当たり前です、これは文字通りオペレーションをしてもらったのですから。でも、一週間後にその時期だからと傷口も確認せずに抜糸をすればどうなるでしょう?その時にくっついていなければ、虫垂炎を治したことになるのでしょうか?結局は自分でくっつかなければならないのです。虫垂の切ってもらった部分も皮膚も自分の力でくっつかなければならない、だから手術というのはオペレーションなのです。操作をしてもらったとしても、治る力とは自然治癒力以外にはないのです。

 インドの「アーユルベーダ」という医学の考え方は、川の流れのことに例えられています。川の流れというものはずっと流れていて、例えば汚れた水が流れた・泥水が発生した、それでもずっと川の流れが続いていけば最後は元通りの綺麗な水の流れに戻るのだ。病気というものは泥水が発生した・何かが発生したというような状態だけれども、ずっと時が流れて清らかなものを送ってやれば元通りの清らかなものに戻るのだというのが大まかな考え方らしいのですけど、これもやはり自然治癒力のことをいっています。他にも「ユラミ学」だとか、十周年の時には関野先生から「グレートジャーニー」の話を聞かれた方がここにも沢山おられますけど、その時にも南米の現地民の医学は自然治癒力をどのように考えているのかでした。これは東洋医学でも西洋医学でももちろん一緒のことで、人間が「治る」ということに関しては自然治癒力以外には何もあり得ないのです。

 その自然治癒力が「じゃ何故落ちているのかな?」と考えたのが東洋医学なのです。それで、この自然治癒力を統制している機構が経絡なのです。経絡に異常があるから自然治癒力が正常に働かない、だから自然治癒力が最高度に発揮できるよう経絡を調整してやればいいのです。治すべき力が弱っているので、その力を治す。「治す力を治す」治療法、東洋医学の考え方はこれなのです。西洋医学をベースとした鍼灸については知らないですが、今のはこの研修会の考え方であり少なくとも漢方医学の考え方であります。自然治癒力が落ちているのは、経絡の流れにゆがみがあるから正常に発揮されないのだということです。

 

 話が少し反れてしまいましたが、「じゃぁ患者さんは気を持っていないのか」といえば一杯持っているのですよ、病気という気を。その気を、こちらから「気をつけよう気をつけよう」というのではなく、どんな気が出ているのかなぁということを感じることが大切なのではないかと考えていました。軽擦をしてツボを取るのですけど、一生懸命に「ツボを取ろうツボを取ろう」と頭で考えると指先にはある程度気は集中するかも知れないですけど、でもそれでは自分の取りたいところへ取ってしまうのです。ツボというものは「感じて」取らなければならないものなのです。施術はやりたいところへはやるのですけど、「やって欲しい」と向こうから出てきているものを感じて施術しなければダメです。自分が「こうしたい」「あぁしたい」「この患者は腰痛だからこうしたい」という気を出すのではなく、「ここにして欲しい」というものが出ているのを感じながらやらなければなりません。「営業繁栄の秘訣」でも喋ったことなのですが、患者さんが来ると「2500円が来た」「3000円が来た」という考え方になっていくと、このような現象に陥ってしまいます。「気をつける」のではなく「感じる」ことを大切にしながら、ここから先を聞いて欲しいと思います。では、テキストを少し読んでもらいます。

 

 2.証(病理)とは何か

 「証の定義は角度により幾通りにもできる」と思います。

 断言的な表現になってしまいますが臨床においては証を三分野に分類できます。病理の証・脉証の証・病症の証です。このうち病症の証は体調や体質などを考慮しながら局所に対する陰陽を観察し手技を判断するものですから、つまり標治法に対する証であり病そのものを表してはいません。

 病理の証と脉証の証は基本的に一致していなくてはなりません。しかし、複雑な病体を観察するのですから診察して即座に納得のできるケースは少ないものです。特に脉診は主観に流されやすいものですから治療の中心でありながらも、脉の凸凹さえ調整できれば劇的効果が得られることもあるので脉診至上主義に陥りやすいものですが、これは非常に危険なことです。

 では、「証」と「病理」とはイコールなのでしょうか?全くのイコールではないにしても、ほとんどイコールだと思います。それに加えて証とは「疾病の状態を分類し、治療パターンを決めるために考えられたもの」と付け加えられないでしょうか。「証」を求めることにより状態把握がしやすくなり、次の世代に伝承しやすくなるために持ち込まれた概念ではないかと考えています。

 

 

 えーっと、証(あかし)のことですね。回数の浅い方あるいは聴講で来られた方は「なんのこっちゃい」と思っておられるでしょうが、後半に記載してあったように「治療パターンを分類して次の世代に伝えやすくしたもの」ということを少し考えてもらうと分かりやすいでしょう。陰陽五行という言葉は聞かれたと思うのですけど、「五行で治療をするなら治療パターンは五つしかないのか」という疑問が最初に出てくると思うのです。東洋医学とは五つだけのパターンなのかというと、これは間口は五つです。間口は五つなのですが、五行というものを最初に英訳した時には「ファイブ・エレメント」=五つの選択肢という訳され方がしたらしいです。でも、これは勉強をしていくうちに明らかな誤訳だということが分かったので、「ファイブ・プロセス」=五つの考え方という訳され方をしています。まずは入り口が五つの中のどれかということを考えてさらにその中に五行があり、さらにその中に五行がありという風になっていけば、これは治療パターンとは無限大だということになります。

 

ただし、このままでは本当にどのように治療をしていけばいいのかが分からないので五臓を中心に「腎虚」だとか「肝虚」だとか、つまり腎臓が病理の中心なんだよということを表現しています。後ほど出てきますけど「どこで・何が・何故・どうなった」の、「何故」に関わっているから「腎を中心に治療をするんだよ」「肝を中心に治療をしていくんだよ」という風に分かっていきます。さらに陰虚や陽虚・陽実・陰実と、脉診や腹診・体表観察を加えていって、「じゃこの病体にはこれくらいの強さ・鍼の数は多い目少ない目・手技の時間は・全体の時間は」と、出していけるようになっています。

 

 最初の「病症の証」とは、標治法のパターンだとも言えます。「病そのものを表してはいません」ということなのですけど、腎虚だとか肝虚だとか五臓に直結していないだけの話であって、例えば治療の中で歯が痛むのと足の爪が痛むのは西洋医学なら全く別の治療となるのでしょうけど東洋医学では歯の痛みを我慢して足の爪の痛みを我慢しているからどちらからも肩こりになるのだけれど、歯は右が痛み足の爪は左が痛むということであれば身体の傾き方が変わってきて肩こりが右に偏在したりあるいは左に偏在したり両方だったりと変わってくるので、そこまで考えて治療をするものだということをいっています。重荷は「そこにあるもの」を診るということで、病そのものを表しているわけではないという書き方をしています。

 「脉証の証」と「病理の証」は、一致しなければなりません。基本的にはという言葉が書いてあるのですが、これは改訂版からは取ってしまった方がいいでしょう。パッと見た段階では一致しないということがあるだけで、絶対に一致しなくてはおかしいのです。「うーん、よく分からないから今回は脉診の方を採用するか」「考えた病理の方でやってみるか」、これでは治療にはならないのです。完全に一致するよう考えながら診察を進めなければならないのです。それでちょっと話が飛ぶみたいですが最近段々と有名になってきたことなのですけど『難経』の著者扁鵲(へんじゃく)は、透視が出来たというのです。患者さんのことを見ていれば、ここに病気があってここに施術をすればいいなということが分かったというのです。もちろん治療成績が上がりますから名医だったのですけど、それをみんなが出来るわけはありませんし私は出来ないのですがこの会場の中に出来る人がいたとしても伝承することが出来ないので、ある程度追試されたのかそれとも脉も透視が出来たのかは分からないですけど「脉を診れば分かるんだよ」という風に置き換えて脉診というものを、しかも六部定位で出来るとしたことがすごいという話が最近有名になっています。さらに六十八難・六十九難・七十五難などの治療法則を組み込んでくれていて、例えば肝虚なら肝・腎を補うとか七十五難の肺虚肝実証になってくると腎経を補って次には三焦経を用いてと「北方を補い南方を瀉し」という治療パターンで行けばいいんだというところまで書いておいてもらえたということが、後世に鍼灸医学が大発展した要因になっています。

 証というものは間口をまとめるものだということで、病理のことを言っています。確かに奥が深く、すごく難しいです。証を間違ったり治療側を間違ってえらい目に遭うこともあります。最初に妊娠の話が出たので、これに関連してまだ追試中ではあるのですけど急に陽気が飛ぶような状態、陽気が飛ぶというのは酒を飲んでいることを想像してもらって調子よく飲んでいるうちはカッカと熱くなっているのですが、これが飲み過ぎると急にゾーっとしますね。陽気というのは活発で暖かな性質なのですが、飛んでしまいやすいという性質も持っています。だから飲み過ぎるとポンと陽気が飛んでしまい、ゾーっとするのです。そういう陽気が急激に飛んでしまった状態になると、治療側が瞬間的にひっくり返ってしまう現象がどうもあるようなのです。特につわりの時だったのですけど、今まで何ともなかったものが急に寒気がして治療をしたのはいいですが治療側の左右がひっくり返っていて余計に苦しめてしまったことが、この妊娠期間中に二回ほどありました。

 治療側は男は左・女は右、男は陽体ですから左に女は陰体ですから右にこれで95,96%大丈夫と思われます。経絡というものは左右にあるのですけど両方に施術するのではなくそのバランスを取るのが目的であり、バランスが傾いているのですからより効果的に施術するためには本治法は優先的な側を決めて行います。これを「片方刺し」といいます。これの左右を間違えるだけでも誤治、間違った治療になるということです。左右のどちらかを決めるまで証決定だと思っています。本会はもちろん伝統的鍼灸術を研究している団体は、この証を中心に治療を進めているわけです。

 では、続きに進みます。

 

 

  「証」の定義

 先程も書いたように「証」とは角度により幾通りも考えられるとは思うのですが、福島弘道氏は「証とは病の本体であり治療目標」と定義され、池田政一氏は「証とはどこで・何が・何故・どうなった」と定義されています。

 福島氏の定義はとてもシンプルで「証決定ができればどんな病でも治療できる」ことを教えてくれています。実際、東洋医学ほど治療に徹した医学は世界中のどこにも存在せず、全く知識の及ばない難病や未知の病であってもその治療家のレベルに応じて対処ができるのですから、本当に素晴らしいことだと常に感謝しています。

 

 

 もう何度も喋っていることかも知れませんが、学生時代の臨床各論という科目でそれぞれの病名に対する治療法を、例えば橈骨神経痛ならどこそこに施術せよ・尺骨神経痛なら・坐骨神経痛ならという具合なのですが、その病気の性質や原因などを知ることは大切だと思うのですけど、それに対してマッサージや鍼灸のツボが列記されているのですがその理由が分からないのです。神経の走行上だからという意味なのでしょうけど、必ずしも橈骨神経痛でも同じ箇所が痛むかといえば橈骨神経上は間違いないでしょうが、肘付近が強く痛む人もあれば手首付近が強く痛む人もあれば肩上部などが痛む人もあるはずなんですよね。それなのにツボが列挙してあるのはおかしい。だから私は掲げられているツボを覚えるのが大嫌いだったのです。単純に覚えることが嫌だったんですけどね(笑い)。それで経絡治療をやりたいと思った理由の一つが、病名を覚えなくてもいい治療法だということがあったのです(笑い)。実際はこれ以上に西洋医学も東洋医学も勉強しなくてはならない泥沼にはまってしまいました。でも、この言葉にビビらないでください。本当に初期状態では病名を全く無視して、その当時でしたから技術は拙劣なものだったでしょうけど証を脉診と腹診だけで肺虚だとか肺虚肝実だと決めて、陽経の処置まではよく分からなかったので肺経と脾経にだけ施術して、それで鍼をしていたことにしていたのですがそれでも成績がよかったのです。

 実際に最近六回ほど治療をしたのですが、小学一年・二年の担任だった女性の先生が、また膝が痛くなり、今回は特に腰の痛みもひどくレントゲンでは腰椎が「への字」に曲がっていたのです。自分でも姿勢が悪くなったのが分かったから「どうしたものか」と思っていたそうなのですけど、いよいよとなったのでまた来院したと言われました。その先生を学生時代に診せてもらっていた時に、恩師に対してそんなことしてもええんかいという話もありますけど(笑い)按摩をしてから刺激治療というか局所に深く刺す鍼しか出来なかった時代でも、「今回は本治法を入れてみよう」「その次だから入れないでおこう」と先生には何も言わないでやってみたのです。「何か手足の方にやっているなぁ」とは思われていたでしょうけど学生がやっていることですし、按摩をしながら色々と証を考えて分からないようにはしていたのですが仰臥位になってもらったので全く分からなかったということもなかったでしょう。手足に施術をして鍼数を減らした時とそれ以前からやっていたように腰や膝にそれなりの本数をやった時を作り、次回に経過を聞くと明らかに本治法をやった時の方が持続力があり痛みも減少したと言われました。肺経と脾経や肝経と腎経など陰経を補っただけでも十分に効果がありました。

 これは忘れられない経験なのですけれど、ある程度証というものが分かりかけてきたころに近所の親父の仕事友達のおじさんおばさんが来られたのです。おじさんの方は腰痛で、確かこれは子後治療も併用したと思うのですが一回で回復し「兄ちゃんの鍼は効くもんやねぇ、それもほとんど刺していないし」ということで、魚を釣ってきてはさばくのが好きなおじさんでしたから鯉の洗いを作ってもらって一日で三分の二を食べてしまい、ウィスキーもどんどん飲んで寝てしまったという思い出があります(笑い)。ところが、おばさんの肩こりが一回では全く取れなかったのです。その当時一番やっていたのは肺肝相克というパターンで、分からなければ肺肝相克という感じでした。ゴキブリには「ゴキブリホイホイ」みたいな感じで、分からなければこれを仕掛けておけば引っかかるだろう状態だったのですけど(笑い)。おじさんはこれで治ったのですが、おばさんの方が治らない。「一回くらいでは治らないですよ」とは言っていたのですが、ひょっとして肝の方が脉が弱いように思ったのです。この「脉が弱い」という表現は当時のものですから、頭には残さないでください。虚実というものはそれほど簡単なものではなく、堅くて強く打っている脉にも虚脉はいくらでもありますから当時のやり方ということで、確かに弱い脉は虚なのですから弱い脉ばかりを探していたという治療法だったわけで、弱い脉を探すだけとは覚えないでください。それを踏まえて「どうも肝の方が弱そうだ」と、「一回では治らないのだしお金だってもらわないのだから肝虚からやってみよう」と曲泉に鍼を置いた瞬間に、肩上部の方で筋肉のパリンという音が聞こえたのです。肝経と腎経に施術しただけで「あぁすごく楽になった」という感想で肩こりが一気に三分の一程度となり、その次も治療をしたのですけれど「もうほとんど感じないくらいになった」と言われていました。

 これくらい病名を知らなくても出来てしまう利点があります。おそらく昔は癌など分からなかったでしょうし、最近で言えば突発性難聴や糖尿病など昔からあったはずなのですけど、それが分からなくても治療出来たのです。だから証とは、福島弘道氏がいうには「病の本体であり治療目標」とこれは非常に端的に表されています。これは是非とも頭に入れておいてください。

 

 

 池田氏はそこに加えて「証決定は四診法を駆使し特に病理を充分に考察しなければならない」とされています。

 

 

 この二つの定義なのですが、さらに進化して「漢方はり治療」と漢方鍼医会では呼称しています。これは従来の経絡治療というものが病理をあまり取り上げてこなかった、いや実は「やよい会」を組織された竹山・井上・岡部先生たちはかなり病理のことも分かっておられたのでしょう実際に録音を聞いてみると病理に関して端々に出てきていますから、分かっていたのでしょうけど伝承をするために・速く広めるというために「とりあえず証を決められれば治療が出来る」という部分を強調してしまい、病理というものをいわない時代がしばらく続いて創始者の先生たちが亡くなられて、病理を語らない人たちが伝承者になってしまい経絡治療の形が意図しない方向へ行ってしまったので、病理というものにスポットライトを当てる必要性を感じたわけです。我々は「何故・どうなったのか」が知りたいのです。腰が痛いから腰に鍼をする・肩が凝ったから肩に鍼をする・頭痛がするから頭の周囲や首肩に鍼をするでは全くの対処療法であり、それが五臓のバランスを意識して「肝虚だと思ったから」「肺虚だと思ったから」と施術をしたとしても、五行穴を・十二経絡をより活用しただけに過ぎないのです。「何故」という部分を考察しこれを鍵として治療が出来なければならないのです。

 古典で五臓には生理がしっかり書いてあるのですから病理というものがないかと探し始めると、実は古典の中には病理のことばかりが書かれてあるのです。それを整理してまとめるという作業をしているのですが、我々もその作業の中に入っていこうということで従来の経絡治療から一線を画していくのだということで「漢方はり治療」という呼称を用いることになったわけです。

それで「漢方はり治療」の定義が作成されました。

 

 

■■「漢方はり治療」の定義

『漢方はり治療とは、漢方の医学理論に基づき病体の病理・病症を把握し、脉状と四診法との整合によって証につなげ、鍼灸の補瀉法にて生命力強化を目的とした治療法である』

 

 もうこれ以上説明の必要がないという定義を作成しました。「用語集」を持っておられない方は是非買い求めて頂きたいのですけど、生命力強化というのが証とともに大切だと付け加えておきます。自然治癒力を高められれば、生命力も強化されていきます。それでは、次に進みます。

 

 

  病理とは何か

 池田氏が定義されている「どこで・何が・何故・どうなった」を解明することです。

 「どこで」は、特に五臓を中心に臓腑や経絡のことです。「何が」は、気血津液あるいはC血を代表とする水分を指します。「どうなった」は、結果のことで現在の病状ということだけでなく経過や付随症状も含みます。

 途中で飛ばした「何故」が病理考察のキーポイントになるわけですが、現実的な求め方としては前後から挟み打ちにして矛盾のないパターンに当てはめることになります。その際の着目点は、寒熱の分類とその分布状況でしょう。実技編に出てくる「消去法による絞り込み」から、しっかり把握するように心がけてください。

 

 

 ここも、もうこれ以上説明する必要はないと思います。従来の経絡治療から、我々が目指していることは病理を求めるということです。実際はね、全部のケースでうまく把握できるわけではないのです(苦笑)。救急のこともありますし証につながる問診が出来ない、つまり症状が聞けない場合がありますし大人でも訳の分からないことしか言わない(喋ってくれない)人もいるのです(笑い)。週末に連続で来られた腰痛の患者さんなのですけど、何を聞いても・どうやって聞いても訳が分からないのです。「説明されていることが分からない」とハッキリ伝えたのですけど「この説明では分からないですか」との膠着状態になるのです。一週間前に腰痛が始まって今朝にはダメだという痛みになったから来院したとは言われるのですけど、「それじゃ一週間前までの状態は」と聞いているのに「ちょっと痛かった」とか「痛くなかった」を繰り返され、「一週間以前には痛かったのか痛くなかったのかを教えて欲しい」と聞いているのに、「一週間前は痛くなかったと思う」って本当はちょっとでも痛かったのか全く痛くなかったのかが大切なのに、答えが「思っていなかったから痛くなかったのかな」で結局完全には把握できませんでした。それじゃ一週間の経過はどうなのかと聞くと「痛いとは思っていたけど今朝は痛かったから来院した」、「それは分かったから段々痛くなってきたものか三日四日は同じような状態で突然痛みが増してきたのか」と聞くと「昨日は痛いと思った」、「その前は痛くなかったのか」「痛かった」で、やはり正確には分からないのです。そんなこともあったりするので、病理考察が全て完璧に出来るわけではありません。

 だから、病理が分からなければ治療は出来ないのではと、変に固執をしないでください。これはいつも話していることなのですけど、「まずは正しい治療をして患者さんを楽にする」ことが、私たちの目的なのです。ですから「今回はとりあえず滋賀で行っている腹診点を中心にある程度証を求めてみて、実際に選経・選穴をしてみたら脉診も腹診もよくなって肩上部も緩み三点セットは全てOKだし、患者さんも楽だと言われる。このようだから証は七十五難型の肺虚肝実証に決めた。でも、肺虚肝実証に決めた理由をあとからでも考察しておくことが一番大切だと思います。それがしっかり整理できてくると、次に来られた患者さんの時には「あぁこのパターンだからおそらく肺虚肝実証で行けるのではないか」ということになってくれば病のもっと深い部分も理解できるようになってきますし、パターンをいちいち思い出さなくても「以前の病理考察ではこうだったから」と肺虚肝実証と腎虚証の境目が見えてきたりするようになり、誤治を防げるようにもなります。今目の前にあるものをどうでも病理考察しなければとしがみつくのではなく、大切なのは病理考察の癖を常に付けることだと思ってください。

 

 今回は時間になってしまいましたので本論はまた続きということになりますが、先程から子後治療の話が出ていましたので少し話しておきたいと思います。現在はお孫さんの面倒をみる人がいないという切実な家庭事情から本会を休会されている先生が来院されたのですけど、何かと聞けば歯が痛むのだけれど歯なのか歯茎なのかがよく分からないとのことです。そしてリンパ節がかなり腫れてきたとのことです。歯科には行ったのですけど虫歯ではないと言われ、歯槽膿漏のような歯が浮いているという状態でもないとのことで、歯茎も腫れてこないことから口腔外科にも行かれたそうです。歯と言っても、非常に怖いものなのです。本会の小林先生もブログの中で虫歯の日にちなんでの話で、なかなか妊娠できなかったご夫婦がやっと妊娠したのだけれど虫歯の痛みがどうしても取れなくて薬が使えないからということでの治療を書かれていましたけど、残念ながら最終的には虫歯は虫歯なので抜くなど何かの処置をしなければどうにもならないということからお子さんを諦めたというところまで書かれていました。膿がたまってくると膿溝を形成しこれは中枢神経の方へ向かっていく性質があります。膿溝が出来て、最終的には大脳まで達して死亡してしまうということもあるとのことです。うちの患者さんで一番最初に気付いたケースは、頭痛が取れないということで来院されたのですけどどうも歯も悪い。これは開業して一年目だったか二年目だったかの頃で、肩こりは治療すればよくなるのですけど一時的なもので根本的な手応えがない。歯も歯茎も相当に腫れ続けていることから歯槽膿漏でもかなり深い部分までやられているだろうということで病院へ送ったところが、この膿溝が出来ていての症状だったのです。歯は痛くないから歯槽膿漏も警戒せずにいてたら膿がたまっていて脳に達する寸前で、口腔外科で歯を抜いてもらって膿溝の中も掃除してもらってということで三週間ほど入院されていたと記憶しています。間髪を入れずに次の患者さんは歯が痛むということで、歯医者へ行っていないことを聞いて「このリンパ節の腫れ方は違いますよ」と説得したのです。翳風穴付近がボコッと膨れていました。歯を抜く前に注射器で膿を取ったら20ccも取れたとか。歯を抜いてみればほとんど顎の骨が見えている状態で、年末の忙しい最中ではありましたけど入院するよりもということで毎日消毒に通われて、一命を取り留められたということです。

 それで来院された先生もこれに近い状態だろうということで病院に行かれたのですが、ところが何も結果が出てこなかったのです。そのうちに腰も少し痛められて奥さんのぎっくり腰も治療できないということからお二人で来院されたのですけど、本治法を七十五難型の肺虚肝実証で治療を開始したのですが、一本目でリンパ節の腫れが引くだろうと思っていたものが引かず、脉診でも左関上が詰まっているような脉状に捉えられたのでトで硬いというのはあまり経験がなかったものですから本治法を中断して、とりあえず子後治療をやってみようということになりました。左の首の胆経上が痛かったので「たんしん」ですから、右の心経の通里付近を探るとやはり痛い。それではそこへ森本瑚Iをやや強めに当てていると脉状が十五秒程度で一気に柔らかくなりました。首を触るとすごく柔らかになっていましたのでそこからもう一度本治法をやり、滋賀県にいる間になるべく固めて治療したいからということで明くる日にも来院されたのですがその痛みはほとんど取れていて、子後治療の箇所には必ずお灸をしておいてもらうように頼んでおきました。

 ということで、子後治療とは「たんしんが かんしょうして はいぼう だいじんの いしんぽうが ひさんした」と覚えるのですけど、それぞれ対になっている経絡があるので例えば胆経ならその反対側の心経、左の胃経上に痛みがあるなら右の心包経の主に絡穴あたりを探り強い圧痛があればそこへ施術をします。このような治療法で、森本瑚Iでも十分に効果が発揮されることも報告しておきます。

 

 もう一つですが、脉状を変えるということなのですけど、「脉状を変える」というイメージを皆さん持っておられるかなぁと思うのです。脉状を変えるような鍼をしなければならないのですが、そのためのテクニックというものを私は実際の治療室ではほとんど使っていないのです。数脉に対しては若干早く・遅脉に対しては若干ゆっくりと位は考えますけど、浮脉だから・沈脉だから・ト脉だからという時にはまず考えていません。どうしているかといえば、イメージをしているだけです。イメージをしてそのような気を送ってやると、そのように脉状が変わってくる。これは大事なテクニックかなぁと思います。何か細かな動きを長年のことですから身体が覚えているのでしょうけど、特に瑚Iで脉状を変えると大きく変わってしまうので・「諸刃の剣」というのか鋭く切れるのに全然切れなかったりするので、私の場合には毫鍼の時代が長かったので毫鍼でのテクニックがそのまま持ち込めたようには思うのですけど脉状を変える時には、「どのような脉状になって欲しいか」をイメージして施術をすると変わりやすいかなぁと思います。

 

 今回は証という部分でかなり時間を費やしましたけど、第二回目はここまでとしておきます。




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