ニューサイエンスの考察(11)                            滋賀支部    二木  清文

病に気付く

 

  1992年1月に脳死臨調は最終答申として、少数意見を重視しながらも「脳死をもって人の死とすべし」とし、司法手続きを整備しなければならないとしながらも実質的には脳死状態からの臓器移植にゴーサインを出しました。移植医や移植を待つ患者側から歓迎の声は聞かれるのですが、警察の検死が受けられず現在は断念せざるを得ない状況です。臓器移植は素晴らしい技術なのかも知れませんし助かった人もいるのですから「絶対に駄目」とは誰も言えないとも思います。

  けれど、私は『聖』の冒頭で「医学が無力なことを示しながらもその権力保持の為に臓器移植をしようとしているのであり、今の日本で臓器移植をしても矛盾を広げるだけである」という反対派の医者の言葉を引用し、さらに私なりの歯止めを提案しました。

  そして、「患者が病気をする」という立場に立って考えた時にはハッキリと反対をしたいのです。考えてみてください。貴方が臓器移植を待っている患者だったとしたら、ベッドの上で「私の臓器はまだ見つからないのか」と祈る思いでしょう。しかし、裏を返せば「誰か死なないかなぁ」と祈っているのですよね。当院の患者と喋ってたら「きっと若いピチピチした臓器が来ないかと願うだろう」と言っていた通り、自分の命が長らえる為に他人が死ぬことを祈っているんですよね。それでも臓器が見つかればいいのですが、もしも、見つからずに死んでいく場合には(その方が大多数みたいですけど)「あぁとうとう私の臓器は見つからなかったのか」と後悔ばかりを残すことでしょう。私ならせめてそんな風に自らが心の病気となり傷付けるような形で最期を迎えたくないと願いますね。

 

  前回「Break up the wall」では、様々な段階の「心の壁」を紹介し我々にもナチスの兵士になれる素質があること、そして、悪魔を受け入れない方法を示し「リアリティーは我々の中に存在するのだから、人生とは自らが尊厳と意味を与えるもの」と強調させて戴きました。経絡治療とニューサイエンスと呼ばれる分野の学問が示す概念との比較検討はほぼ終了したのですが、今回を含めてあと2回でその総括をしてみたいと思います。

  今回は冒頭の臓器移植から極身近な疾病までホリスティック医学でも重要視されている「病に気付く」ことを取り上げたいと思います。

 

  「病に気付く」と簡単に書きましたが、病気の原因が殆ど本人にあるとは知りながらもなかなかそれを認めることはできないものです。「機械の中の幽霊を超えて」の冒頭で、高熱の子供に「ペニシリンを注射してくれ」と医者に頼む親の例を紹介しましたが、誰でも病気の原因は他にあって自分は被害者だと思いたいし、その方がずっと楽なのです。けれど、それではいつまで経っても病気の回復にはならない。患者に対して当然の言葉ながら私は「貴方が落とし穴に勝手に落ちてきたのを助けを求めてきたのだから、私は手伝ってはあげるし治る為の方法も教えてあげられるけど、貴方自身が這い上がろうとしなければ病気は決して治るものでなないんだよ」とどの患者にも言い聞かせています。ベッドに寝て「先生お願いします」と喋るだけで病気を治す責任が治療家に移ってしまうような関係は絶対におかしいですよね。

  ところで、平成4年の年頭所感で柏崎支部の志賀誠一先生が指摘されているように、医学も病人ばかりを対象に医療を考えてきたら片寄り過ぎて返って不健全なものになってしまい、健康人をも対象にしたホリスティック医学の発生を必要としてきました。

  カプラ先生も『ターニング・ポイント』の中で、平均寿命を例に取り上げて「一つのパラメーターだけによる判断は極めて危険である」ことを指摘されています。平均寿命が延びるためには食料や医療や福祉の問題が良好でなければなりません。平均寿命の長い国は当然健康な人が多いと他の国からは判断されても当然なのですが、世界一の長寿国である日本の現状はどうでしょうか?寝たきり老人やボケ老人も植物人間も平均寿命にカウントされていますし、長寿世界一と同時に病人世界一でもないでしょうか?つまり、それの表す数字は正しいのだが全体を表すには正確でないことも多いのです。

 

  さて、前回の最後は「自我とはひとつの観念であり、動かし難い事実ではない」という言葉で締めくくっていますが、実際に無意識とか直感や第六感などで既に知っているように我々が自我意識と呼ぶものの他にも様々な帯域が存在すると仮定できます。その帯域の中には「自分流のしきたり」みたいなものを誰もが持っていて、自分に原因が存在しながらも抑圧し否定している部分も必ず誰もが持っていると思います。これをユングは『影』と呼んでいます。この「自分自身であるにもかかわらず自分を否定している」姿勢に「病に気付く」ということの鍵が隠されているのではないかと注目をしてみると、大変面白いことを発見しました(臨床経験豊かな先生方には、釈迦に説法かもしれませんが)。

  まず子供の場合なのですが、これは当院で実践している方法をそのまま紹介させてもらいます。女子一人の冬の夜までは強制しませんが、小学校高学年以上になれば一人で通院するように指示しますし、それ以下の年齢でも「・・・の(誰々)です」と必ず本人に名乗らせています。そうすることによって「早く病気が治らなければ困る」という気を起こしてもらいます。お金が自分で払えないのは当然でいいのですが、さらに送り迎えで親が説明までするようでは、こんな表現こそ出来ませんが「親がいうから通ってやっている」なん考える子供もいるのです、実際。そんな時には洗脳に走りがちでが、これはいかなる理由でも駄目です。子供にいくら教えても理解ができないのですから無駄ですが、どんなに小さくても考える力はあるのです。常に自分で考えさせることですね。

 

  それでは「病に気付く」とは具体的にはどんなことでしょう?成功と失敗らしき例を一つずつ挙げてみますので、臨床豊かな先生方なりに考察をして戴ければ幸いです。

❶とにかく愁訴を訴えまくり同情を引こうとした患者。慢性腰痛が悪化して股関節周

囲までケイレンと自発痛を起こして来院。問診の最中に「先生、私はね肩が凝るし腰が痛いし肘も痛いし眼がかすむし膝もうずく時があって・・・」、私が「それで」、「だから鍼で治してください」、「そんなことはベッドに乗ってるから判ってるから、それでと聞いてるの」、「私は肩が凝るし腰がいたい死・・・」、「だからどうしたいの!貴方はここに病気を治しにきたんでしょ。だったら悪いところを訴えるだけで病気が治るの?」と問い返したのです。患者は沈黙してしまいました。私は「もしもね待合室で座っている時に隣の人が『あぁ腰が痛い肩が凝る膝も痛い頭が悪い』なんて独り言を聞いてたなら貴方までそれだけで悪くなりませんか?悪いところを訴えるだけで治るのならこちらも愉快ではないからお金はもらうけど聞いてあげましょう。でも、独り言を喋ることは自分で自分に身体が悪いから辛いんだ不幸なんだ誰かが助けてくれて当り前なんだと言い聞かせていると同じじゃないですか?もし貴方が治りたいと思うなら、まずは独り言を止めること」と言ったのです。これからこの患者は急速に回復をしました。

❷宗教と私生活が区別できず点滴を受けながらも動き回った患者。交通事故で外傷と

ムチ打ちになり1ケ月の入院で一度退院したのですが、経過不良で1ケ月後に再入院。退院後も憂鬱な感じが取れず自宅静養中に親戚の紹介で来院しました。肺虚肝虚で治療したところ周りも驚くほどの回復を見せたのですが、どうも行動がおかしいと気付いた頃には2度も点滴を受けていました。患者はとても宗教に熱心で身体をより回復させるために何かを心に誓って(もちろん宗教的なことを)、その達成の為に激しい行動をしていたのでした。それで患者は「身体の為には動いておくことも大切だと思うのです。これも修行の一つにもなるのですから」と言うのです。私は「でも修行をするにも準備段階が要るでしょ」と問うと、「いいえ、行動することによってのみ結果が得られるのです。行動を始めるのに準備段階なんて関係ありませんよ。だから病院の医師に点滴を快く打ってもらえるように口添えをしてください」、「しかしね、実際に点滴を打ってもらわないと動けない状態というのは人に迷惑を掛けてることなんだし、人の手を煩わせても修行なのかなぁ」、「今はよくない状態でも必ず結果が出てくれるからそれはいいんです」。宗教ネタは特に患者間で争いになったら取り返しが着かないので禁止にしているのですが、余りに熱心すぎる人が喋り始めるとベッドから降りようとしないので仕方なく応対してしまうことがあるのですが、とても疲れるし頭痛がします。この患者は手が着けられないくらい行動が激しくなって、とうとう倒れて病院に収容されました。

 

  ここに挙げさせてもらった例は極端な例ではありましたが、私なりに『病に気付く』事のヒントを与えてもらいました。結論から先に書くと、患者は盲目的になりやすいから一段高い位置から自分自身を見つめさせるような立場に持っていってやれれば、自らの病に気付けるんじゃないかと思うのです。自分に気付くとも言い換えられますね。

  例えばピラミッドがあったとします。これを横から眺めている人は「これは三角だ」と主張するでしょうし上から眺めている人は「これは四角だ」と主張するでしょう。立体の見える私達は「これはピラミッドだ」と主張し、三角だ四角だと言った人達を笑うでしょうか?けれど、もし私達に横からしか上からしか観察する能力がなかったとしたらどうですか?きっと一生懸命に三角だ四角だと主張をするでしょう。ある患者に「この考え方をどう思うか」と質問したら、「ピラミッドだと分からないのは不幸だ、分かるまで説明してやるべきだ」とのことでした。でも、観察をする能力のない人達にいくら説明しても駄目なんですよね。だからといって自分の能力に常に満足しているのも問題です。

  そうなんです。このそれぞれの主張はあるレベルでは正しいのであって、互いの主張を攻撃する必要も理由もないのです。また、私達はピラミッドの地下構造が見えないのでピラミッドだと主張していますが、地下構造まで見える宇宙人がいたとしたら「あれは本当は地下にもピラミッドがあるのに」などと笑われるかもしれませんね。

  つまり、『病に気付く』ということは他の主張も受け入れること、そして自分自身の観察が正しく再評価できるようになることだと思います。そして、結果的には自己評価能力が向上し、もう一段高いレベルが存在することに気付く人達も出現するかもしれません。実際に福島会長が癌を克服したように病気になったことでかえって体質が強化されたり、あるいは人生観が変わって人間的進歩を成し遂げる人達もいるのですから・・・。

 

  最近になって私は患者の抑圧された訴えを感じることがあるのです。それは、考えるよりも先に感じるという方が正確な表現になるでしょうか。ユングが『影』と表現したレベルに相当すると思うのですが、自分に起因する事なのに何らかの不都合から(自分なりのしきたりから)「これは自分じゃない」と抑圧している部分が誰にもあるものです。その部分がたまらなくなって呼びかけているみたいに思えるのです。

  「それは二木が勝手に想像をしたんじゃないか」と言われても積極的な反論はできないのですが、とにかく患者の影が「逃げないでくれ」と訴えているのです。病気の時には誰でも家庭も職場も人間関係も何もかも放り出して逃げたくなるのと同時に、自分の身体からも逃げたがっている人もいるのは事実です。難症の患者に「脳だけ移植して新しい身体に移してやると言われたらそうしてみたいか」と尋ねると、「そりゃ是非とも」と答えが返ってきました。これじゃいくら治療をして帰る時には楽になってても病気が回復するはずがありませんよね。先ほどのピラミッドの例のように「総てを認め受け入れること」も病に気付くことではないのかなぁと思います。実際の社会状況に応じた対応はケースバイケースでそれから考えればいい事です(それが人によっては心の鎖が堅くて、しかも、解けるスピードが違うから困るのですけど)。

  そうすると、冒頭の臓器移植問題は絶対に駄目なことでもないだろうが「総てを認め受け入れる」状況に達しないかぎり、社会的混乱を起こし続けることでしょう。この問題に

歯止めが掛けられるとしたら『聖』の精神を取り戻すことだけではないでしょうか。次回(最終回)では今までに紹介してきた概念の総括をできるだけしてみたいと思います。

          参考文献

バーバラ・ブラウン    「スーパー・マインド」                    (紀伊國屋書店)養老  猛孟            「からだの見方」                              (筑摩書房)エリザベス・キューブラー・ロス  「死ぬ瞬間」                      (読売新聞社)C+Fコミュニケーションズ      「パラダイム・ブック」        (日本実業出版社)チャールス・タート    「サイ・パワー」

フリッチョフ・カプラ  「タオ自然学」「ターニング・ポイント」    (以上、工作舎)

 



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