ニューサイエンスの考察(12(                            滋賀支部    二木  清文

スーパー・マインド

 

  「そらそら、もっと早く」、あまり早く走るのでしまいには足がほとんど地面に着かず空中を滑って抜けて行くようでした。(中略)アリスはびっくり仰天して見回しました。「あら、私達ずっとこの木の下に居たんだわ、何もかも前とそっくり同じじゃないの」、「もちろんそうじゃよ」と女王は言いました。「どうあって欲しいんじゃな」、「それはね、私の国では・・・」、アリスはまだ少しハァハァ言いながら言いました。「大抵どこか他のところに行き着きます、私達のようにどんどん長い間走ったら」、「それはのろい国じゃ」と女王。「ところでよいかな、ここでは同じ場所に居るためには力の限り走らねばならないのじゃ、どこか他の場所に行きたいのなら、少なくともその2倍の速さで走らねばならないのじゃぞ」  (ルイス・キャロル著『鏡の国のアリス』、角川書店版より)

  この文章はライアル・ワトソンの『生命潮流』を元にした『パラダイム・ブック』からの引用ですが、私達が生命活動を営んでいる状況を的確に言い表しているように思われます。何故なら私達は新陳代謝が活発で全力疾走をしているうちは成長を・体力維持を続けるのですが、新陳代謝が不活発になって同じ地点にさえ立ち止まれなくなるから老いるのではないでしょうか?

  けれど、身体の老化は自然で仕方ないとしても意識が老化するかどうかは個人の取り組み方次第だと思うのです。例えば「あの人はいつまでも若いなぁ」とか「あの人は若返った」とか「あいつは若者のくせに年寄り臭い」と言いますが、これはどう解釈したらいいのでしょうか?私は{若さはにじみ出るもの}と思っています。つまり、身なりや風貌も影響しますが、結局は新しい考えが受け入れられるかどうかだということです。新しい考えが受け入れられない人は自分だけの世界に閉じこもり同じところにも留まれませんが、新しい考えの受け入れられる人は全力疾走以上で前進ができるからです。

 

  前回「病に気付く」では、総てを認め受け入れる姿勢が病に気付くことにつながるのではないかと書きました。そうする事によって私の個人的体験からも、自らの位置に気が付き自己の再発見をした時に「病気は警告反応である」ことも発見されることでしょう。確かに痛みは辛いが意味があるから存在すると考えた方が自然ではないですか?

  そして、長らく押しかけ連載となったシリーズもようやく最終回として、今までの総括をして、さらに、私個人が現在の社会情勢の中でもちろん経絡治療を中心に含めて感じていることをできるだけ書いてみたいと思います。

 

  まずは最も紹介頻度の高かった「ホロン」の概念についてなのですが、これはアーサー・ケストラーが発案したもので、ギリシア神話に出てくる二面神“ヤヌス”にも例えられています。これは一人の人間を例にあげるなら、その人間はもちろん自立的全体であるのですが下位に眼を向けてみれば、消化器系や呼吸器系などの器官系があり肝臓や肺臓などの臓器があり、それらは細胞から構成され細胞は様々な細胞小器官から成り立ち、さらに分解すれば分子・原子・未知の物質クォーク・・・へと果てしなく続いていますが、一方上位へ眼を向けると、一人の人間は家族の構成員であり家族は地域の一員であり、さらに国家・地球の一員であり、そして太陽系・銀河・銀河集団・・・へと果てしなく続いています。つまり「ホロン」とは、総てのものは下位に向けては自立的全体としての顔を上位に向けては従属的部分の顔を常に持っている《亜全体》であり、此の世はシステムとして存在しているもので【絶対】など存在しないのだと端的に教えてくれています。

  ここから導き出される示唆としては、デカルトやニュートンの影響の歴史を引っ張り出すまでもなく、現代の分解追求をして原因を解明さえすれば問題解決が出来ると発想する還元主義ではなく「システム思考」へ転換すべきではないかということです。還元主義の発想もかなりのレベルでは確かに正しいのですから現代文明を築いてこれたのですが、その為に支払った代償も非常に大きかったと思います。その代表例が医療ですね。

  還元主義に基づく現代(西洋)医学では原因が究明できれば問題解決が出来る事になっています。しかし、本体性高血圧や更年期障害やリウマチ等と呼んでいるのは病名なのでしょうかと問えば、それは病名ではなく症候名だということになります。病名だとすれば原因も分かっているはずだし当然治療法もあるはずなに、何でも単純原因に還元しようとして全体性が見えなくなってしまい、とうとう問題解決の糸口さえ失ってしまい名前だけ一人歩きをしている結果なのです。これが対症療法に陥っている最大の原因ですね。

  そこで、ヘルスが本来《全体》という意味から発生した原点に戻り、病人だけでなく健康人をも対象にした全的医療を目指したホリスティック医学の発生を必要としてきたのです。ですからホリスティック医学には厳密な規定も制限も特にありませんが(各国にホリスティック医学協会が設立され独自の規定は設けられてはいますが)、とにかく人間を霊性まで含めて全体として捉え健康を考えて行こうとする運動なのです。最も異なる点を要約すれば普通は健康と病気は対立的に捉えられていますが、大きな健康という円の中に病気という円が含まれていて、病気は健康の一つの表現形態だと捉えることですね。“東洋はり医学会”の取り組みは自然にホリスティック医学を目指しているものと思います。

 

  次に「健康的に死を迎える」という概念も数回書きました。これは、まだまだ追求の余地があり臨床豊かな先生方に対しては私ごときが書くような内容ではなかったかも知れませんが、脳死状態から臓器移植が始まろうとしている現在に我々“東洋はり医学会”から広めて行かなくてはならない概念ではないかと思い敢えて公表しました。

  「健康的に死を迎える」という概念を捉えるには、まず「死」についてどう考えるかが重要です。「死」は通常闘病の最終結果であり殆ど敗北と同義に捉えられていますが、本当にそれでいいのでしょうか?過去の記録には師匠が死期を悟ってその直前に秘伝口伝を伝授したとか墓の用意を自分でしたとか、死を超越してパフォーマンスの道具にさえ使った十返舎一九の例も出しました。また「ニアデスからの報告」では死の直前には「周りの時間経過は遅くなり自分の思考は早くなった」「走馬灯のように人生が回顧された」「肉体離脱して逢いたい人の元へ飛べた」などの超個的帯域に突入し、それは一様に「素晴らしい体験だった」とする報告をしましたし、エリザベス・キューブラー・ロス博士の豊富臨死患者へのインタビューからは「死は成長の最終段階である」という驚くきというか納得すべきという回答がなされています。まずはに対する既製概念が政治や宗教や権力その他の我欲によって曲げられたものだということを現代人は再確認すべきですね。

  何故なら、スタニスラフ・グロフはLSDという幻覚薬物を用いたり音楽や呼吸法を組み合わせたホロトロピックセラピーの結果から、人には誕生時の経験が精神外傷となって心理的影響を残すことを突き止め、「基本的分娩前後のマトリックス」を心理学に組み入れることを提唱しています。母親の子宮の中は外敵に襲われることもない至福の状態でありますが分娩の開始と同時に至福から追放され窒息寸前で出口無しの恐怖に襲われ、遂に自分の力で呼吸し見るもの聞くもの総てが新鮮な未知の世界(此の世)に誕生するのでありますが、「死」を迎えるもこれと全く同じことであり至福状態の此の世にしがみ着いていたいから恐怖感が起こるのだとしています。

また、ケン・ウィルバーは『意識のスペクトル』の中で、「無限とは果てしなく広がる空間ではなく隔たりのないことであり、永遠とは過去から未来への果てしない時間の流れではなく無時間性なのである」とあらゆる神秘家からの言葉を引用し、「人間はこの宇宙の真理から脱落して勝手に肉体を感じてしまい、死は破滅だとして狂ったように逃走し一見死なないかに見える観念に逃げ込んでしまう」と自我の生成過程を説明しています。

カプラ先生も『タオ自然学』の冒頭「コズミックダンスへの招待」でヒンズー教の生成と破壊を同時に司る踊る神《シバ》を引用し、破壊と生成は同義であることを説いておられます。私はまだ死んだ事がないので断言はできませんが、修行を積んだ偉人が口を揃えて言うのですから信じたいと思っています。

  様は「死は人生の最終結果でもなく敗北でもない」と言いたいのです。例えば映画「JFK」の様にケネディの名前は現代でも新しい歴史を作り続けていますし、エジソンのように形は変わってもこの人無しでは語れないような存在になることもできます。

  もちろん経絡治療家である我々は患者を救うことに常に全力を傾けているのでありますが、「健康的に死を迎える」ことを患者に教えてあげられるのもこれからの治療家の条件ではないかと思うのです。私は「人間は人体という機械の中に住む幽霊」ではないと感じています。「二木に対して反論あり」と思われる先生がおられましたら、どんどん意見を出して戴ければ幸いであります。

 

  最後に「現代物理学」と「ガイア理論」と「進化論」についてまとめます。

  現代物理学の特に量子力学と相対性理論は通常の我々の世界観を根本から覆してしまいました。「素晴らしい脉診」とは少し違う例で簡単に復習しますと、原子を観察しようとすれば光をぶつけてその反射を見ることになるのですが、原子は余りに微小な為我々が観察しようとして見つめるだけでビリヤードボールのように光波が原子に干渉して軌道を変えてしまうのです。「我々はこの世界の観察者ではなく参加者であるという新しい概念を持たねばならない」という発言を導くのです(不確定性原理)。また、空間(物質)と時間の流れは四次元時空連続体として本来一体であるにもかかわらず、我々が勝手に感じているものだとしています(特殊相対性理論、一般相対性理論)。

  ここからも【絶対】など存在しないと分かるのにこの両者を現在の人間は実感がなかなか出来ません。地球が丸く自転しながら太陽の周りを公転しているイメージは天動説の時代には想像も着かなかったのに、将来は現代物理学のイメージを小学生でも理解できる日が来るのでしょうか?しかし、フリッチョフ・カプラ先生は現代物理学のイメージが東洋宗教の原典のイメージに酷似していることにいち早く気付いて『タオ自然学』を著述され、私も此の世が不確定性原理と相対性理論の表す幻想の世界であるなら、人体を小宇宙として観察し診断をする脉診は立派な科学だと、脉診の素晴らしさを再確認しました。

  “東洋はり医学会”の会員であれば福島先生の言葉によって既にご存じであり、今更私などが書かなくても臨床で常に新鮮な体験を繰り返しておられるでしょうが、「我々はこの世界の観察者ではなく参加者である」という裏づけが得られると大きく変化する概念が誕生します。それが「生きている地球“ガイア”」理論であります。

  「宇宙船地球号」という言葉はバックミンスター・フラーが創作したもので、それまでの「此の世の中心は地球である」という考えから「地球も宇宙の仲間の一人だ」と転換をさせてくれました。けれど、依然として冷たい岩石の上にたまたま発生した人類が孤独に航海をしているという概念から抜け出られませんでした。これに対してジエームズ・ラブロックが火星の探査計画(バイキング計画)の中で惑星の生命存在条件を大気組成の分析より検討する方法を考え出し、これを地球に当てはめてみてビックリしたのでした。

  つまり、地球は大気成分が常に揺らぎながら非平衡を保ちエントロピーを宇宙に放散しながら自己組織化を続ける開放系システムであり、我々が認識できる範囲では最大の生命体だと捉えるのが妥当ではないかということです。ガイア理論はイリヤ・プリゴジーヌの科学的散逸構造論に見事に合致しているだけでなく、ガイアの名前はギリシア神話の大地の女神から名付けているところより、古代人は地球が認識できる最大の生命体だったことを知っていたと考えても不思議ではないと思います。

  ガイアが我々と同様な意識を持っているかどうかを別にすれば、この理論は我々が環境保護と称して行っている運動を根本から考え直さねばならなく、地球の自然治癒力をもっと信じた形で仕事や産業を展開すべきだということになります。我々はガイア・システムの一員であり、観察者ではなく参加者なのです。環境問題はここへ返るべきです。

  すると「進化」という概念も広い意味に定義をやり直さねばならなくなるだろうか?そうだと思います。もう今は「ダーウィンの進化論」をそのまま信じる人はいませんが、決定的代案がないのも事実です。数々の証拠から「進化は一時的な爆発的現象であり、時々袋小路に迷い込むこともある」と数回に渡って書いてきましたが、これは狭い意味の進化論でありました。何故なら、人類も「進化の袋小路に迷い込んだ哀れな種族なのかもしれない」と定義せざるを得なくなってしまうからです。

  では、ガイア理論を組み入れて広い意味で「進化」を考え直すとどうなるのでしょうか?地球が生きている生命体(ガイア)だとすれば惑星そのものも進化をしているはずですし、例えば農薬を散布すればすぐに害虫は対抗できる体質に変化するように我々も文明や環境に合わせて生活習慣を変えていることを広い意味で進化と捉えても差し支えないのではないでしょうか?また、「ホロン革命」の訳者後書きの中で、計算器が最初はソロバンから手回し計算器へ、真空管コンピューターからスーパーコンピューターへと機械も立派に状況に適合するように進化の過程をたどるのだと詳しく言及されています。

  コンラッド・ウォディントンは「後成学的風景(エピジエネティックランドスケ)」という概念でこれを表しています。山脈にみられる緑や谷や小川は初めから用意されていたのではなく、自然の変化が相互作用して出来たのだと説明しています。具体的には、山の頂上から雨などで水を流すと集合して流れを作り山を下っていくのですが、実は水は自分達が好きなように走りたいし山も気に入らないところは走って欲しくないから、お互いが都合を付けて流れを作り切り経った谷や川の流れが形成されていくのです。つまり、山脈の風景は後から構成されたものであり、環境も生物もその変化の中で常に進化を続けているのです。

  それでは、結論を『自己組織化する宇宙』を参考にまとめると次のようになります。

  「此の世に絶対などは存在せず、仮にあったとしても現在の我々には認識ができない。しかし、進化と共に認識できる範囲は広がっては来た。けれど、それは先に登場していた生命体よりも人類が上位にある訳ではなく袋小路に迷い込んだのでもない。我々は同時に多くのレベルで生きていけるだけである。人類は進化における重要な媒体である。何故ならみんなガイア・システムの一員であり、ガイアも進化を続けているから。つまり、我々は希望なき進化の僕などではなく、我々こそが進化なのだ!」。    

 

  「一体、物質とは何か?生命とは何か?意識とは何か?」、この最初の疑問に誰も何も答えてはいないのです。解けないままの最初の疑問を抱えて様々な問題に行き詰まっている我々が前進をする方法に何があるでしょう?それは、我々が等しく持てる武器《心》も進化する意外にないと思います。どうやって進化をするのか?

  簡単です。「自分が変わらなければ一体誰が変わるのか?」と常に疑問を持ち向上を目指すこと、それこそが『スーパー・マインド』なのです。スーパー・マインドとは決して新しく開拓しなければならない荒野でもなく、既に誰もが持っているものです。ただ、発動の仕方を知らないだけなのです。「変わらなければならない」と感じたら素直に行動に移すこと。そうすればスーパー・マインドが発動されたのを内部から感じるでしょう。

 

  大変な長文の連載になってしまいました。直接的に間接的に支えてくださった先生方と友人たちに感謝し、特に編集部の先生方にはお礼の言葉もありません。本会が世界の医学の中心となることを目指しつつ、筆を置かせて戴きます。本当に有難うございました。

        参考文献

バーバラ・ブラウン              「スーパー・マインド  心は脳を超える (紀伊國屋書店)C+Fコミュニケーションズ      「パラダイム・ブック」        (日本実業出版社)エリザベス・キューブラー・ロス  「死ぬ瞬間」                      (読売新聞社)日本ホリスティック医学協会      「ホリスティック医学入門」            (柏樹社)スタニスラフ・グロフ            「脳を超えて」

ケン・ウィルバー                「意識のスペクトル」⑴⑵        (以上、春秋社)アーサー・ケストラー            「機械の中の幽霊」                (ぺりかん社)

                                「ホロン革命」「還元主義を超えて」

シェームズ・ラブロック          「ガイアの時代」

ライアル・ワトソン              「生命潮流」

エリッヒ・ヤンツ                「自己組織課する宇宙」

フリッチョフ・カプラ    「タオ自然学」「ターニング・ポイント」  (以上、工作舎)




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