996経絡治療とサイエンス(1)                         

滋賀支部    二木  清文

 

『心の壁』を超えて

 急速な変化を遂げている時代の流れは我々の想像を絶した早さで進行し、気が付けば既 に時代が変わってしまっていることに驚いているばかりです。

  我々の鍼灸という領域も例外ではなく、目まぐるしく変化をする西洋医学にも歩調をある程度は合わさなければならないし病気はそれを上回るスピードで増え続けている。加えて経絡治療という世界だけに限っても、流行りのリストラクチャリング(再構築)ではないが業界の勢力地図が大きく塗り替えられている最中だと認めざるを得ない。

  そこで「ニューサイエンスの考察」と題して先行的な連載を行った責任も含めて、若曽が生意気ではありますが、もう一度『健康と経絡治療とサイエンス』と題して考察を書きたいと思います。全国の諸先輩方からのご意見・ご批判を是非お願い致します。

 

  先ごろに連載して「ニューサイエンスの考察」では、様々な概念の紹介とその考察を限られたスペースの中で試みたので文章の濃度が濃くなり過ぎ、非難がこの点に集中していたので今回は出来るだけ(それこそ患者向けのつもりで)少しくらいくどくても通常の言葉のみで記述をしたいと思っています。

  そうすると、まず一番に取り上げなければならない問題は何か?これは医療に携わる者として最も避けなければならないし恥ずかしい問題なのですが、やはり「医療不信」という問題をを扱わなければならないでしょう(いきなりこの生意気さ)。

 

  1993年の後半には、ヘルペス用の新薬が発売された直後なのに坑癌剤と併用したところ短期間のうちに報告されただけでも15人もの患者が副作用によって死亡したことが大きく取り上げられました。また、深刻な看護婦不足問題の最中に厚生省が経費節減を理由に国立病院の契約看護婦(仕事はほぼ同じだが正式採用でない看護婦)の労働条件をカッとすると通告したところ、それでなくても身分が不安定であるからと次々に退職者が出て病棟の閉鎖されるケースまで出ました。10月には初の脳死状態からの移植が試みられようとし、臓器摘出に際して完全な心停止の前に保存液を注入したとして告発がなされました。あるいは、柔道整復師の保険の不正請求が多いと問題になり、愛知県で2名の鍼灸師が保険の不正請求で捕まりました・・・・と、こんな話を聞いてたら患者は一体誰を信じたらいいのでしょうかねぇ。

  これは以前から何度も書いているように『ターニング・ポイント』の中で指摘されているように、ベッドの上に寝て「先生、お願いします」と喋るだけで病気を治す責任が患者から全て医者に移ってしまう図式が悪いのだと思います。確かに弱々しい患者には「大丈夫、任せなさい」と励ましてやらなければならない時もありますが、基本的には病気になった責任は全て本人に売るのだし、それが治せるのもやはり本人しかいないのです。我々医療者はその患者の治る手伝いをしてやる・治る方法を教えてやることができるだけなのですから・・・・。

 

  話がややこしくならないようにここで一度整理をします。例えば「頭痛をよく起こしているとクモ膜下出血を起こすなんて聞くのですが本当ですか?」と患者から質問されたことがあります。この答えはクモ膜下出血の前兆として頭痛が頻発しているのですから、その知識は間違いだと答えるのです。とんでもない都合のいい解釈ですね。

  ところが、クモ膜下出血は普段からの不節制の積み重ねがある時にプッツリと糸が切れて起こった結果だと説明しても、発作を起こした患者が依然として天災のようなもので運が悪かったくらいにしか考えてくれなかったらどうなるでしょう?自分は悪くない被害者なんだという意識が薬くらいは飲んだとしても、リハビリには真剣に取り組まないし治療にも来なくなる、当然いくら治療が優秀であったとしても本人にやる気がないのですからハッキリ言って無力です。だから「先生、お願いします」の方式では駄目なのです。必ず病気になった責任は本人にあることに気付かせ、治療に参加をしてもらわなければならないのです。そうして初めて我々の技術が息を吹き込まれるのです。

  この考えが患者も医者もお互いに欠落しているから医療不振につながる問題が起こってくるのではないでしょうか?経絡治療を目指している人達はわざわざ休日を潰しても勉強をしようというのですから問題はないと確信しています。

 

  ここからもう少し話を進めて、病気に対して一生懸命にみんなが取り組むようになったとしても、此の世に生まれてきた限りは必ず死ぬのです。まだまだ時期早称ではあるでしょうが、「ニューサイエンスの考察」の中から再編集して発行している当院のパンフレットを転載します。このような考え方はどうなのでしょうか?

  私は小難しい理論をこね回している学者のように思われているかもしれませんが、一人の臨床家として毎日患者と取り組んでいる中で矛盾を感じ、このような発想をしたのです。広く医療関係者だけでなく世界中の人達が『心の壁』を越えて、「どうすれば自分は楽をして利益を得られるか」方式の短絡さから脱皮しなければ、これから先は何も変わらないような気がするのです。

 

 

参考提供

 

ニューサイエンスの考察(番外編)               

滋賀支部    二木  清文

             健康的に「死」を迎える  

  「そらそらもっと早く」、あまり早く走るのでしまいには足がほとんど地面に着かず空中を滑って抜けて行くようでした。(中略)アリスはびっくり仰天して見回しました。「あら、私達ずっとこの木の下に居たんだわ。何もかも前とそっくり同じじゃないの」、「勿論そうじゃよ」と女王は言いました。「どうあって欲しいんじゃな」「それはね、私の国では・・・」アリスはまだ少しハァハァ言いながら言いました。「大抵どこか他のところに行き着きます、私達のようにどんどん長い間走ったら」「それはのろい国じゃ」と女王。「ところでよいかな、ここでは同じ場所に居るためには力の限り走らねばならないのじゃ、どこか他の場所に行きたいのなら、少なくともその2倍の速さで走らねばならないのじゃぞ」

(ルイス・キャロル著「鏡の国のアリス」、角川書店版より)

  この童話の一節、何気なく読んでいると私達の生命現象を実に的確に表しているのではないかと思うのです。何故なら私達は新陳代謝が活発で全力疾走をしているうちは成長を・体力維持を続けられるのですが、新陳代謝が不活発になり同じ地点にさえ立ち止まれなくなるから老いるのではないでしょうか?

  しかし、老いることは身体的問題であり、知識の蓄積だと思えば決して悲しいばかりではないし、「若さ」とは新しい考え方が受け入れられる人からにじみ出てくるものだと私は思います。そして、最終的に「健康的に死を迎える」ことは可能だと考えますし、これからはそうなるべきだと思うのです。

 

「死」のイメージ

  さて、いささか大上段に構えた題名の上に、童話で始まった内容ですから首をひねっておられる方が多いかもしれませんね。私の言いたいことを簡単に言い換えるならば  「死のイメージは脅迫をしながら後から作られたもので、現 在多くの人々が終末期を病院でチューブにつながれなくても人間らしく最期を迎えられるはずだ」 ということです(この後なるべく易しい言葉で説明しますから)。

  まず、死ぬことは後から作られたイメージであるという証明ですが、死刑制度が民衆への見せしめのものだということです。昔は町中を引き回したり張りつけにしたりして「死ぬことは恐いぞ恐いぞ、だから犯罪は犯すな」と脅迫の為に使ったのだと思います。ですから、殺されることは痛くて苦しくて悔しいことかもしれませんが、死ぬことそのものは恐くなくてもいいはずです。

  実際に、臨死体験(一度死亡と診断されたのに息を吹き返す体験)をした人からは「鮮やかな世界があって既に逝った人達と再会した」とか、飛び込み自殺未遂者からは「とても素晴らしい体験だった、もう一度体験してみたい」という話ばかりで、痛くて苦しいなんて言葉を聞きません。

 

十返舎一九のパフォーマンス

  次に、「尊厳死宣言」や自然葬といった一連の動きを見てみると、他人任せで死にたくないという意思を殆どの人が持っているみたいですね。中には「墓石を自分で建ててから死んだ」「葬式の用意が全部できていた」なんて話を聞きますが、最期まで人間らしかった例が沢山あるのです。

  『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九は死に際に弟子に命じてすぐに火葬を行わせました。すると、ドンドンパチパチピーヒャラピーヒャラと花火が打ち上がるではありませんか。芸能人でもあった彼が自分の身体を使ってただ一度だけ行えるパフォーマンスだったのです。奇妙なことに、彼は死期を悟っていただけではなく、間際まで誰にも気付かれないうちに身体に方向まで考えて花火を結び付ける体力があったことになります。つまり、 死ぬということは敗北ではなく、逆に健康的に死を迎えることさえ可能だということです 

 

健康にはそれぞれのレベルがある

  通常は『健康』という言葉を何も不都合がないという意味に解釈していますが、例えば目の見えない人や耳の聞こえない人や車イスの人には健康という状態は有り得ないのでしょうか?決してそんなことはありません。『健康』とは即ち生きているという意味と同じであり、様々な状態レベルがあるのです。

  病気は健康の反対語ではなく、健康という大きな円の中のある小さな円だと考えていただきたいのです。それが「健康的に死を迎える」第一歩です。

 

      参考文献

バーバラ・ブラウン              「スーパー・マインド」          (紀伊国屋書店)糸川                          「支社は語る」                        (講談社)カール・ベッカー                「死の体験」                          (法蔵館)エリザベス・キューブラー・ロス  「死ぬ瞬間」シリーズ              (読売新聞社)フリッチョフ・カプラ            「タオ自然学」

「ターニング・ポイント」        (以上、工作舎)

 




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