ニューサイエンスの考察(3)                            滋賀支部    二木  清文

―――――  ポスト・ヒロシマの課題  ―――――

 

  有史・先史を通じ人類にとって最も重大な日はいつかと問われれば躊躇なく1945年8月6日と答える。理由は簡単だ。意識の夜明けからその日まで、人間は「個としての死」を予感しながら生きてきたが、史上初の原子爆弾が広島上空で太陽を凌ぐ閃光を放って以来、「種としての絶滅」を予感しながら生きて行かねばならなくなったからだ。

  「人間一個の存在は果敢ない」そう我々は教えられてきたが、他方では「人類は不滅だ」とも当然の如く思ってきた。しかし、この信念にもはや根拠はない。

  困ったことに一旦発明されたものは無に返せない。人類は永久に核兵器を抱えて行かねばならない。もっともその永久は、現状から見てさほど長いものではないが。それは可燃性物質を積み上げた部屋に不良少年の一団を押し込め、真しやかに「使ってはならぬ」と言いながらマッチを渡している状況に等しいからだ。

  歴史を振り返るとホモサピエンスとはひどく病的な突然変異としか見えなくなる。正常な発達を遂げたなら、戦争を繰り返すことも遂には地球を破壊してもまだ飽き足らない力を開発して、自ら首の周りに時限爆弾を巻き付ける様なこともしなかったはずだから。我々は『借りものの時間』を生きていることへ基本概念を修正しなければならないが、それに気付いているのはほんの一握りの人間しかいない。我々に残された時間は少ない。

(「ホロン革命」プロローグより)

 

  こんな書き出しでは「二木は経絡治療家ではなくどこかの政党員か」と疑われそうですが、我々が必死になって経絡治療を普及しなければならない理由の一つを端的に描いているので、敢えて用いました。

  前回「袋小路の時代」では、経絡治療家も(私が勝手に定義しているだけですが)「世界の共通言語」を学び世界の潮流へ発言して行かねばならない時期にきているのではないかと提唱させてもらいました。カプラ先生は、環境問題だけを・社会問題だけを・身体問題だけを、それぞれの団体がバラバラに行動していたのでは何の問題解決もできないから、総てを含んだ広い視野に立ち返って行動をするようにとホリスティックな立場へのパラダイムシフトを提唱されているのです。

  ラ先生は「ターニングポイント」の中で、我々が実際に宇宙の住人である以上、人間だけの健康なんて有り得ないのだから、通常健康には環境・社会・身体の3レベルがあげらるのだと述べられています。具体的には、環境状態が悪ければ放射能汚染(酸性雨)による白血病や窒素酸化物(NOX)による喘息などが発生し、社会状態が悪ければ生活は荒廃し戦争なども発生し、身体状態が悪ければ勿論何も行動に移せないだけでなく精神が歪み(知覚がゆがみ罪を罪と感じなくなる)問題解決の意欲さえ湧かなくなる。つまり、環境保護家が環境のことだけを・社会運動家が社会のことだけを・(鍼灸師も含む)医者が身体のことだけをバラバラに主張していても本当の前進はできず、健康の3レベルを同時に扱わないと時代はますます袋小路になるのです。

  ホリスティックなアプローチが必要だという点はここにあり、経絡治療家は大きな発言の出来る位置にいるのではないでしょうか?その為にもニューサイエンスは必要ですね。

 

  ところで、私は再三「袋小路」という言葉を持ち出していますが、これには大きな理由があります。ニューサイエンスと呼ばれる専門分野を乗り越えての試みの中で(ちなみにニューサイエンスという言葉自体は日本で生み出された)、既に各方面なりのやり方で打破されている“進化の法則”に大きな影響を受けているからです。

  現在でも民衆の多くに信じられている「ダーウィンの進化法則」とは、もともと地質学者であったダーウィンがガラパゴス諸島を訪れた際に、独自に発達した生態系の種類の多さに心を引かれて発想したものです。それによると、進化とは突然変異の結果もたらされるものだとされます。様々な突然変異は大抵有害であるが時には有益なものもあり、自然により選択され繁栄が許されるというのである。しかし、ここでは子供は親からの性質を半分ずつ受け継ぐことになっているので、せっかく有効な突然変異が起こったとしても2世代目には50%、3世代目には25%、4世代目には12.5%・・・と有益な突然変異も大海の木の葉と化してしまい、とても進化どころではない。ダーウィンも困ってしまい「種の起源」の6刷目からは、ライバルであり元々この説を否定する為に立てたはずのラマルクの“獲得形質”の項を復活させています。ここでダーウィン派に光明を投げかけたのがグレゴリー・メンデルの遺伝法則であります。えんどう豆の辛抱強い研究から、有効に遺伝する性質が存在するということが分かったのです(遺伝子の発見)。これに感動したウィリアム・ベイトソンは末の息子をグレゴリーと命名した話は有名ですが、後の哲学者グレゴリー・ベイトソンはフリッチョフ・カプラの師匠格になります。

  このネオ・ダーウィニズムまでは学校でも教えられ、「社会ダーウィン主義」は現代の競争原理の根幹となっているのですが、、本当にこれでいいのでしょうか?さぁ、それではニューサイエンス的に批判をしてみましょう。

 

  まず、相同器官の問題があげられます。例えば自動車の新種を開発する時にメーカーは全くの0から設計をすることはなく部品の変更をすることで対処をします(もし、そんなことをしたら経営は成り立たない)。鳥の羽根と我々の手は形こそ違っていますが、元々の目的は同じ器官であることから相同器官と呼ばれ、どんな動物も基本となる機能から目的に応じた変化をしているに過ぎないのです。

  次に、変種の存在はどうなるのでしょう?三色スミレの変種は数多く観察され、その他にも犬や猫やはたまた人種に関しても、変種の存在は進化の結果なのでしょうか?

  そして、他人の空似というにはとても思えない種の存在があげられます。最後の氷河期以後に進化をした哺乳類の有袋類と有胎盤類は全く接触がなかったのに、偶然にしては良く似過ぎているのです(タスマニア狼と狼など)。しかし、オーストラリアに住む爬虫類は大陸のものと同じなのです。つまり、地質学的にも検証がされているように、進化はなだらかに進行するのではなく一時の爆発的な現象であり、必要が生じたから行われたものと見る方が自然ではないでしょうか?そうでなければ、私の嫌いなヘビやトカゲやワニや微生物なども進化をして、もはや存在していないはずですよね。また、鮫のように恐竜が現れる2億年も前から存在しながら、変種はいるが合理的な形に落ち着き過ぎて進化を放棄してしまった種類も存在するのです。

  トドメに、進化は一時の爆発的現象であるから時々袋小路に迷い込むのです。例えば、@パンダには6本目の指があり、竹を割るには丁度いいが他には何の役にも立たない。

Aコアラはユーカリの木にしか住まないので有名ですが、実は足を特殊化させ過ぎてユーカリにぶら下がる以外には生きられなくなったのです。

B有袋類には左右の大脳をつなぐ脳領がなく、高度な発達が遂げられなかった。

C接足動物の中には消化と知能を天秤に掛け、大きな脳を得る為には食道を取り巻くしかなくなって吸血鬼化してしまった種類が存在する。

 

  これらを見ると、人間が進化の最終段階の動物だとは自信満々に言えなくなったようですね。いや、歴史を振り返るとホモサピエンスとはひどく病的な突然変異としか見えなくなる事実からも、人間も進化の袋小路に迷い込んだ哀れな種族なのかもしれません。

 

  どうも人類に残された時間は少ないようですね。残された時間を延長できる可能性があるとすれば『心』を自ら進化させる以外にはないでしょう。心を動かされるような体験はそれほど多くないものですが、経絡治療家には人類を変えられる力があると思います。かつて柳下先生が「それがどんなに偉い人でも社会的地位がある人でも、ベッドに寝ている患者に対しては治療家であると同時に社会的に絶対の指導者なんだから、心も治療してあげなければならない」と発言されていました。私自身もそうだったのですが、病気が治るというのは素晴らしい体験で心を動かされる場合が多いのです。治療家は適切な社会人としての教養に加えて、ニューサイエンスが生み出した超個心理学も身につけるなら、『心』を変えていけるのではないでしょうか?

  冒頭では化学兵器も生物兵器もその恐怖について触れてはいませんが、核兵器は自分も含めて人類全体を人質にすることさえ出来ることから強弱の差を無くしてしまい、広島に原爆が投下された時から全ての暦は古い化石となって、ポスト・ヒロシマ何年(PH暦)で数えるのが一番正確になったようです。

  フリッチョフ・カプラ先生は、30周年記念の最初に「本質的な危機は認識の危機なのです」と述べられています。これらに気付いた我々から変わっていくことが、本当のポスト・ヒロシマの課題ではないでしょうか。

          参考文献

バーバラ・ブラウン著    「スーパー・マインド  心は脳を超える         (紀伊国屋書店)アーサー・ケストラー著  「機械の中の幽霊」                        (ぺりかん社)

                        「ホロン革命」

ジェームズ・ラブロック著「ガイアの時代」

フリッチョフ・カプラ著  「タオ自然学」「ターニング・ポイント」  (以上、工作舎)



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