ニューサイエンスの考察(7)                              滋賀支部    二木  清文

「聖」

  (91年6月現在)脳死臨調の中間答申として、少数意見を尊重しながらも概ね「脳死をもって人の死とすべし」という回答に対し、京都の検察局が「脳死では全面的に医者に権限が奪われ乱用される危険性があり、このままの状態で臓器移植が行われればしかるべき処置を取らねばならない」という発言があり、論議を巻き起こしています。

  また、反対派の医者からこんな発言を聞いたことがあります。「外国には寝たきり老人という言葉すらないのである。それは、社会が生きることへの目標をしっかり捉え各自の役目を的確に遂行しているからである、それに比べ日本では目先の欲求や苦情に振り回され、長期的視野を欠いてしまったからボケ老人や寝たきり老人を生んだのである。そして、自ら無力を証明しながらも過剰となった医師達が権力の保持を狙って臓器移植を始めたのである。今の日本で臓器移植をしても、また矛盾を広げるだけである」と。

  私も考えるのです、「東洋医学は自然へ適合することが主目的」(経絡治療要項より)なのです。そりゃ多くの実例が報告されているのですから臓器移植だって可能かも知れませんが、例え親だって必要以上の干渉は幸せにはつながらないと。

 

  前回「十返舎一九のパフォーマンス」では、「健康的に死を迎える」という概念の説明をしましたが、次第に自分でも何の為に一生懸命に生き続ける必要があるのかと自問を始めてしまいました。別の言い方をすれば、「幽体離脱」(Out of the body experiences)体験をしている人達からは、意識とは脳や肉体を超えた存在でありそれのみの存在も可能であるばかりでなく「死後も存在し続けることを確認した」と強力な発言をしていますし、東西を問わず宗教書には必ずこのような話が書いてあります。また、私も「ニアデスからの報告」で死後存続を認める立場を取っているのですから、必死になって生き続ける必要もないのかなぁなんてシラケ切った気持ちになったりもしました。しかし、ある転職希望の患者との会話の中から「感動をする為」と分かったのです。素晴らしい人々と出逢い・素晴らしいドラマの出演者として生命の“コズミック・ダンス”を演じて感動を覚えたなら、また感動がしたいから一生懸命に生き続けるんだと、ここまでに異論のある方はほとんど居られないと思います。

  それじゃ次は、実際に病気になる我々はどこまで自然への抵抗をしても差し支えないのか、冒頭の「必要以上の干渉」という問題を含めて考察してみたいと思います。これには、学生であった頃の私の経絡治療第一号を例に揚げると分かり易いと思います。

 

  その当時の滋賀盲専攻科の外来は、2年生では按摩と針のセットを指示された通りに行うだけなのですが、3年生になると患者毎に担当が決められて継続治療をするようになります。一応どんな治療形態であっても構わないということになっていましたので、以前にも書いたように正直に鍼専門に切り替えてしまったのです。それからは凄まじい圧迫が掛けられ、例えば「皮内鍼を添付した」とカルテに書いたら「添付という表現はおかしい」と言われ、粘付や張り付けたや施したなどに変えさせられ、こちらも意地になって幾枚にもなるカルテをその度に書き直して提出していたものでした(因みにクラスメートは添付でもすんなり通ってしまったのです)。成績が上がってくると「この患者には鍼以外してはならない」と新患を当てられたりもしました。検定試験の申請時に「按摩の資格はいらんわ」と発言したら、これだけはさすがに大目玉を食らいましたけどね。まぁ盲学校の悪口が目的ではないので状況説明はこれくらいにしますが、継続治療と言っても何年にも渡って先輩が手を加えてきたのだし、安い料金にも慣れているのだから症状こそ激しくないけど難易度は横綱級の患者ばかりなのです。

  その中の一人は、交通事故の後遺症でムチ打ちになり長年の按摩の繰り返しで完全に頚部はタコになっていました。ファイト溢れる初期には「先輩の不可能を可能にしてやるんだ」と取り組み始めたのですが経過は良くない。そこで、知らぬが仏ではないが滋賀支部て教わりたての経絡治療を応用してみることにしました。

  まず、適当に按摩をしてから、奇経の列缺  照海をテスターで調べ良好と診て置鍼をしたのですが、鍼管で銀鍼とステンレス鍼を叩き込むという乱暴なことをしていました。続いて本治法は肺虚肝虚の相克調整と診て所定の経穴を補い陽経に移りました。三焦と大腸を補った後に胆の実と思しき脉が触れたのですが、補中の瀉という概念が十分に分かっていなかったので困ってしまった。こうなったら自分の実力では瀉法をしても大した影響は出ないだろうと下圧を加えて光明から瀉法をした途端、患者は胃痙攣を起こして苦しみ始めたのです。反応を起こして苦しんでいる患者を目の前に自分は何も出来なかった。気合いを入れ直して胆経に補法を行ってみると数秒はいいのだがまた苦しみ出す。補助療法を知っていたなら解決もできるのでしょうが幾度か胆経の補法を試みた後に、これじゃ駄目だと本治法をやり直したら幾分良くはなったが、余りの苦しみ方にとうとう担当の教師に助けを求めてしまったのです。とりあえず背部に指圧した後にデルマトームに従って刺激針を施してもらったら何とか収まった、その所要時間10分余り。

  ナントも苦い思い出の経絡治療第1号でした。今でも本治法によって胃痙攣が起こったのかは疑わしいのですが、経絡治療が「自然へ適合する」ことを主目的としているのに過剰に手を加えた結果であることは間違いありません。必要以上の干渉は幸せにつながらない。これで一つの線引きが出来ると思うのです。

 

  カプラ先生が「ターニング・ポイント」の中で、生物も機械的な面を持っていることを取り上げられています。生物は常に揺らぎ続ける“生きているシステム”でありますが、機械的にも振る舞う面があり進化にはその方が有利であったのです。例えば遺伝情報は細胞形質の全てに含まれているのにDNAが機械的に振る舞うことで積極的な情報交換を可能にしてきたのです。以前にも取り上げミトコンドリアは元は独立した微生物であり、今でも独自の繁殖機能を有していますから宿主に関係なく増えることが出来たりします。因みに生態肝移植は、GOTやGPTの「どのくらい肝機能が破壊されているか」の測定ではなく「どのくらい余力・再生力が残っているか」をミトコンドリアの残存量で求める血中ケトン対比の測定によって、手術の時期や時間を割り出して行われているのです(レドックス理論)。また、培養液に細胞を入れておくとミトコンドリアは一固まりとなって宿主の状況回復を待つのです。しかし、ご存じのようにバイオテクノロジーでDNAを操作してやると生物形態は一変し、ミトコンドリアもそれに従うのです。ミトコンドリアも細胞も“生きているシステム”でありながら、機械的に振る舞う面も持っているのです。

  これは「袋小路の時代」で取り上げた階層性の原理に従うもので、遥か彼方の下位のレベルを眺めると機械的に仕事をしているように見える状況なのです。言い換えれば生命体は階層性(ヒエラルキー)の表現形態の一つであり、ヒエラルキーの性質は時々、下位に向けては自律的な全体としての性質を示し上位に向けては従属的な部分としての性質を示す安定な亜全体を形成することによって成り立てるのです。これをアーサー・ケストラーは「ホロン」と名付けたことも以前に取り上げています。

  さて、それでは我々はどこまで干渉をしていいのか?それは「ホロン」の形態を崩さないように生命力の及ぶ範囲で手助けをしてやることです。経絡治療も外部から治療家のパワーを与えてやる治療法ではあるのですが、手助けをしてやっても後は患者の生命力が自立してやっていける範囲だと思います。薬によって管理をしてやらなければ生命を維持できないような治療法は必要以上の干渉なのです。さらに、「生命の尊厳と不老長寿」という“東洋はり医学会”の目標は、患者の「病への気付き」が前提となると思うのですが。

 

  しかし、実際問題としては火傷や交通事故などで管理をしてやらなければならない場合もあります。そこで、私は「人間が一体どういう目標を持って生きて行くべきか」というイメージを心に描くことにより、歯止めを考えてはと思うのです。

  それは、前回に言葉だけ出して説明をしなかった『聖』だと思うのです。小学館の国語辞典を見ると、@徳が高くて神のような人、A極めて優れている人、B高僧、C出家、となっていますが、これじゃ何のことだか分からない。どう説明したらいいのか考えていた時、タレントの伊丹十三が面白い表現をしていました。

  貴方に中学か高校の娘がいたとします。その娘が売春をしていたとしたら、親である貴方はどうしますか?多分「怒鳴りつける」という答えに異論のある人はないと思います。ところが、その娘が反論をするのです。「私も気持ちがいいし相手も気持ちいい、それで二人の間でお金が動いているだけなんだから、誰にも迷惑掛けてない・・・」。さぁ怒鳴りつけた理由はどこにあります?これは難しいですよ。

  あるいは、親が私に対してこんな風に怒るのです。「お前がしている事はいい事か悪い事か?」。親と私は立場が大きく違うのに、どうしていい事と悪い事を判断する基準がほぼ一緒なのでしょうか?これが『聖』だと思うのです。単細胞生物だった頃からずっと積み上げ目指してきた心、その記憶がいい事と悪い事の判断基準になっているだと思うし、我々はこれをさらに高めて、次の段階へと進めて行かねばならないと思うのです。

  『聖』とは、ガイアの意思とも言い換えられますね。ガイアは思考を持った生命体ではありませんが、『聖』の精神に従って生き続けているからこそ我々を住民として支えてくれるのだと思います。

  我々が古代から受け継いだ『聖』の精神を失いかけている今こそ、経絡治療により「失われたものを取り戻す為の戦い」を挑んで行かねばならないのではないでしょうか?

          参考文献

バーバラ・ブラウン      「スーパー・マインド  心は脳を超える         (紀伊國屋書店)チャールズ・タート      「サイ・パワー  意識科学の最前線

アーサー・ケストラー    「還元主義を超えて」「ホロン革命」

ジェームズ・ラブロック  「ガイアの時代」

フリッチョフ・カプラ    「タオ自然学」「ターニング・ポイント」  (以上、工作舎)




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