ニューサイエンスの考察(8)

跳ぶために退く

  色々な点でバカバカしいとは思いながらも「改正あはき法」に基づく指定講習会に、私は地域でのトラブルを極力回避する目的で不本意ながらも参加をしました(おかげで経絡治療学原論がよく読めました)。

  しかし、聞きっ放しでは面白くないので、東洋医学臨床論の時間にこんな質問をしてみました。「講義の説明のように患者が絵に書いたみたいに治ってくれればいいのですが、実際には様々な反応を起こすものです。それが治るための過程で一旦状態が悪くなる整復反応なのか、それとも証の取り違いや奇経の組み合わせ間違いや敏感な患者に通電をするなどの治療術の選択間違いから最も多いと思われるドーゼ過多などの誤治反応なのかを見分ける方法を教えてください」と。すると、天下の明治鍼灸大学の教授が全くのお手上げなのです(分かりません、と正直に答えてくれたのは偉いけど)。反対に「何か効果的な方法があれば教えて欲しい」と問い返して来たので、「脉診をすることが唯一の方法だと思いますし、現実に行っていますから鍼灸独自の診察方法を復活させるべきではないでしょうか」と当然の答弁をしました(因みにこの教授は、石学敏の晴脳開孔術を見学したそうですが、さすがに実行する気にはなれなかったと発言していました)。

  「治せば流行り営業は繁栄する」と福島会長が繰り返しておられ、これに勝る営業繁栄の秘訣はないんじゃないかと思うのでありますが、例え刺激治療で治ったとしても、それは殆どラッキーであり、誤治反応なのか整復反応なのかを見分けられなければ治療室が繁栄するはずがありません。鍼灸大学が悪いではないが真の治療家になるには最先端のデータ学習から少し引くことも必要ではないだろうか?

 

  前回の『聖』では、我々が単細胞生物であった頃から積み上げて高めてきた精神が聖であり、言い換えればガイアの意思であり目指しているものではないだろうか、我々は経絡治療を武器に聖の精神を取り戻すべく「失われたものを取り戻すための戦い」に挑む心構えを新たにしなければならないのではないだろうか、と書きました。

  漢字の成り立ちとしては「聖とは神(王)の声を耳で聞いて口で表現できるようにすること」と90年4月の研究部の山下先生が発言されています。さらに「聖」の意味の補足説明するとしたら、人間は今でも聖の精神を忘れていないから最も素直に直接的に表現をしてくる子供を可愛く感じられるのだろうと追加します。そうですよね。何故、子供はみんな可愛いのかなんて聞かれても答えようがないのですが、とにかく純粋に汚れを知らずに生きている姿には感動をさせられます。我々がどこかに大切に終い過ぎて忘れてしまった心、それが『聖』じゃないでしょうか?

  まぁ抽象的概念の説明ばかりをしていたのでは「二木は自己満足ばかりしている」と非難を受けそうなので、出来るだけ具体的に、自分の為にも「じゃ、何のためにニューサイエンスの考察なんかをやる必要があるのか」を再び違う角度からしてみたいと思います。

 

  経絡治療やニューサイエンスの勉強にしても、またスポーツや音楽や芸術など何に取り組むにしても「スペシャリストかゼネラリストのどちらを目指すのか」という姿勢の問題があげられると思います。

  人間は生まれ持った性別や性格や体格が違いますし、育った環境や教育によって得意・不得意とする分野が出てきます。当然、得意分野を伸ばすように訓練し優秀な技術を競って誕生した専門家がスペシャリストです。ところが、余りに専門化し過ぎていわゆる「専門バカ」という弊害を起こしています。これに対しゼネラリストは全体性を重要視する人のことで、それぞれの技術はスペシャリストには勝てませんが全体性が見えるのでムラがなく総合力に優れています。一般社会においてスペシャリストかゼネラリストのどちらを目指すべきかというと、私は「専門バカ」のないゼネラリストだと思います。

  もし「生きている地球“ガイア”」がスペシャリストであったとしたら、特定の種族には有利であるかもしれないけど一時の現象であり、結局生命など誕生しなかったはずなのですから。ガイアは誰にでも公平である代わりに我が侭を通そうとする者には容赦なく制裁を加えることでしょう。恐竜が絶滅したのはガイアによって抹殺されたのではないかと私は考えいるのですが、そうすると現在の人類の行動では間もなく核戦争ではなくガイアによって抹殺が始まってしまうかも知れませんね(異常気象の説明になるのでは)。

  だからといって鍼治療に関して刺激理論や良導絡を組み入れたゼネラリストにならなければなどと、言いたいのではありません。我々は仕事のプロを名乗っている以上、経絡治療を頑固に推し進め、その頑固な信念を基盤に「人間はゼネラリスト」を目指すべきだと主張しているのです。「専門バカ」を回避して様々な世界観を養う時に、ニューサイエンスは頼もしい指標を与えてくれるのです。

 

  「跳ぶために退く」とは、飛行機や鳥が飛び立つ時にはある程度の助走が必要な如く、袋小路に迷い込んで行き詰まった時には一度バックして助走をつけ直すことが大切だ、と言う意味です。

  「ポスト・ヒロシマの課題」で取り上げた進化論の続きになりますが、生物進化には袋小路が存在していて、言い換えるならご破算とやり直しの繰り返しの歴史とも言えます。

  パンダの指やコアラの足のように特徴の強い例で説明は既にさせてもらいましたが、実は種族ごと袋小路に迷い込んでいる例もあるのです。鳥類は安全で高速移動の可能な領域を求めて飛ぶことを覚えましたが、返って生活習慣が単調になり餌の確保も限られてしまった。再び地上の生活を試みた時にはペンギンのように妙な行動しか取れなくなってしまい、完全に袋小路に迷い込んでしまった系列だと言えます。種族は分化したけれど鳥類が更なる進化を遂げる道はありません。また、高度な知能を得るために食道の周りに脳を巻き付けてしまった接足動物の例は既に説明をしています。しかし、進化は一時の爆発的現象でありますから、こんな結果も時にはもたらしてしまいます。

  では、この袋小路を脱出するのにどうしたらいいのか?答えは、袋小路に迷い込む手前までバックして再び飛び立つことです。羽根を発達させる前の脳を巻き付ける前の点まで戻って進化を別の方法でやり直さねばなりません。けれど、これこそがより高度な進化の戦略パターンを展開する唯一の手段だったのです。一部に置き去りにされた種族がいたとしても全体から見れば大した出来事ではなかったのです(残酷な話ですけ)。

  これと同じことが全ての現象に当て填まると思うのです。恋愛は破局へ向かった分岐点まで戻って次の恋愛を目指すしスポーツも負け試合の反省から次を目指します。物理学が一つの仮説から本質を外れていると気付いた時には  既に検証されている地点まで戻り激しく揺らいで新たなるステップへと飛躍し、20世紀に劇的な変化を遂げた量子力学と相対性理論を打ち立てるに至ったのです。これらはご破算とやり直しの産物であり、量子力学の成立には想像を絶する論議が戦わされました(これは次回でも取り上げます)。

 

  その好適例があります。後の回で取り上げる「心の壁」にも通じることなのですが、現在進行中のリハビリテーションと障害者スポーツの関係の変化がそうです。

  ご存じのようにリハビリテーション(再獲得する)という言葉は、ハビリテーション(獲得する)に「再び」を付けた元々は造語で、消極的な受動的な意味しかありませんでした。ところが、リハビリという言葉が定着してからは、言葉が一人歩きを始めて定義の見直しがされるようになってきています。即ち、積極的な能動的な意味に転換し、基本的な目標達成点というものを排除する方向にあります。

  具体的に説明しますと、交通事故で脊髄損傷となり車イス使用者になってしまった人に、以前なら「社会生活が自力で行えるように」という目標を設定して訓練をしました。確かに病院や施設にいる間は仲間もセラピストもいますから訓練に励んで活動ができますが、家庭に返されてしまうと甘えやサボリが出て殆どの場合が設定目標に到達できません。これは、人間ですから目標を設定するので駄目になるのであり、現在では目標設定をしない方向になっています。つまり、訓練にスポーツを取り入れるのは一般化し、水泳なら泳げるようになったら次は25mを、25mの次は50m・100mを、距離が泳げるなら次はタイムをと展開すれば、自己記録を大会記録を世界記録をとどこまでいっても到達点がなく、社会生活ができることなど当り前以下になってしまうのです。

  私も認識不足だったのですが、1980年頃には車イスの人達でも既にクロールを泳いでいる人がいましたが障害程度の軽い人であり競技までには余り至らず、殆どの人が安全な平泳ぎばかりでした。ところが、考え方が変わってくると「もっと早く泳ぎたい」という気持ちになり当然早く泳げるクロールに挑戦する人が多くなって、目の前で車イスが200m自由形を泳いでいる姿にはビックリしました。「取り組む姿勢の変化でこれ程人間は変われるものなのか」と自分が泳ぐ前に興奮は頂点に達していました。世界とはまだまだレベル差が大きいのですが障害者スポーツは大きく記録を伸ばしている最中です。

 

  もう一つ私事で非常に恐縮なのですが、第11回経絡大の技術指導で高知の塩見先生からこんな衝撃的な言葉を聞きました。「金属を身体につき立てるのだから氣を漏らさないようにしようと思うのが間違いなんだ、氣は漏れるものだと思ってしまえば鍼が非常に気楽に打てる、3漏れても5補ってやれば補法になる、補法とは患者の虚損した経絡に治療家の氣を補ってやることなんだ」と力強い口調で言われた時はショックでした。とにかく氣を漏らすまいと脉の形を整えることばかりで、本来の生命力強化という目的を失いかけていました。経絡治療のスタイルに気を取られ患者の凸凹を整えることしか出来ていなかったと思います。愚かな自分でありますから袋小路に迷い込んでしまっていました。

  一層の飛躍をするためには袋小路へ迷い込んだ処までバックをしなければならないという、恥かしながらの好適例でした。

 

  社会主義国家が次々と崩壊している過程を見ても世界中が「跳ぶために退く」行動をしている最中です。本会でも一部に新しい動きを見せている人達がいるようです。とても素晴らしいものかも知れませんが、その為にも現路線を強化するにも今は「跳ぶために退く」行為を取る必要があるのではないでしょうか?ニューサイエンスは「跳ぶために退く」過程から生まれた学問であり、きっと有効な指針を与えてくれると思います。




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