ニューサイエンスの考察(9)                              滋賀支部    二木  清文

素晴らしい脉診

  フリッチョフ・カプラ先生の『ターニング・ポイント』の前書きは次のように始まっています。「1970年代に物理学者として私が抱いていた大きな関心は今世紀の始めの30年間に物理学で起きた、そして今なお物質理論の中で色々手が加えられつつある概念や発想の劇的な変化にあった。その物理学の新しい概念は、我々物理学者の世界観にデカルトやニュートンの機械論的概念からホリスティック(全包括的)でエコロジカル(生態学的)な視点へと大きな変化をもたらしてきた。私の見るところ、それは神秘主義の視点と極めて似通った視点である。はじめのうち、この新しい世界観を科学者が受け入れることは決して容易なことではなかった。原子や素粒子の世界を探求するうちに彼等は予想もしない不可思議なリアリティーへと相い対するようになったのである・・・」

  私も「タオ自然学」や「ターニング・ポイント」を読む前から、空間は歪められることがあり時間感覚も主観的なものであるとテレビなどで紹介される相対性理論の概説から知ってはいましたが、心の底ではまだ【絶対】的な客観性が存在するのではないかと少し期待していました。しかし、既に何度か取り上げた「ホロン」の概念からも、此の世に【絶対】などは存在しないことが突きつけられ、理論物理の世界を案内されるにつれて混乱に近い状態にさえなりました。けれど、医学の世界に当てはめてみると実によく理解ができるのです。しかも、「脉診とは何と素晴らしい手段なんだろう、カプラ先生が絶賛をするはずだ」と今更ながら感心さえしてしまいました。

 

  前回「跳ぶために退く」では、スペシャリストかゼネラリストかという取り組み姿勢の問題を洗い直し、さらに私的な例も含めて様々な具体例の考察から、大きな飛躍をするためには袋小路へ迷い込むまでの地点にバックしないと再び飛び立てないという意味の「跳ぶために退く」を紹介させてもらい、ニューサイエンスは有効な手段になるのではないかと書かせてもらいました。

  それで、今回は冒頭の引用文で言われる「今世紀の始めの30年間に起こった・・・概念や発想の劇的変化」について、「不確定性原理」を中心に考察したいと思いますが、文章の長さから粗削りな説明になることをお許しください。興味を持たれた方は、是非原本を参考にして戴きたいと思いますが、「パラダイム・ブック」も入門書を銘打っているだけあって用語に慣れない方には最も優しく且つまとまっていたと思われます。

 

  「時計修繕医学」という形でデカルトの思想が今まで紹介されてきましたが、彼が信じていたのは「此の世は神が作ったもので、物質はうつろい易く精神は人間だけに存在する崇高なものである」というもので、自然も含めて此の世はとても精密にできた機械論的世界観で扱われるようになりました。その手法は「最終的には堅固で破壊できない粒子から世界は構成されているから、原因を調べれば問題解決ができる」という、(要素)還元主義でした。これは直接的で分かり易く、しかも、幾つもの問題を明解に解決し現在でも支配的な思考体系でありますが、これでいいのでしょうか?例えば森の影響を研究しようとして、その要素である木を見て構造を見て化学構成を見ても森全体を見ないばかりでなく、余りに専門化し過ぎて、ついには森の存在をも否定してしまう大きな問題があります。

  けれど、科学は究極的構成要素を求める方向で発展し現在の文明社会を作り上げてしまいました。このままの形で進むかと思われましたが、測定精度が上がって肉眼で観察できる以下のレベルに入ってくると不可思議な発見が相次ぎます。

  それまで「堅固で破壊できない粒子」が想定されていたのですが、ご存じのように原子は中心の陽子と中性子から成る原子核と周りを回っている電子から構成され、空間のあることが発見されました。因みに、ここから先に出てくる原子の世界については、極めて微小な世界を扱っているので、「タオ自然学」からの引用で確認しておきたいと思います。

  例として、手掌に乗るくらいのオレンジがあったとします。このオレンジを地球の大きさまで拡大したとしたら(これも想像しにくいですが)、サクランボがぎっしり詰まっている、これが原子1個の大きさになります。しかし、これでも原子核は微小過ぎて見えないので、さらにサクランボをサンピエトロ大寺院の大きさにまで拡大したら中心に塩の結晶が浮かんでいる、これが原子核の大きさなのですが、質量の大部分は原子核で占められている(1383:1)という、とても奇妙な世界なのです。

 

  この奇妙な原子さん、様々に不可思議な特徴を持っています。まず「十返舎一九のパフォーマンス」で紹介した熱力学が登場し、次に原子の様々な表現形態である元素は幾つかの特性を表すところから、メンデレーエフが「元素の周期率表」を作成し未知の元素を予言できるようになり、さらに電線の下に置かれた磁石が影響を受けるところから、電気と磁気は電磁気として統合され「マクスウェル方程式」により、力は「場」という概念で表現され絶対空間と絶対時間から成るニュートン力学を初めて越えることになりました。光も特殊な電磁波と証明され次々に新しい発見が成されて、余りの勢いに問題は総べてなくなるかに見えました。しかし、実際と合わないところから計算式を苦し粉れに変更した際に、驚くべき仮説を引き出してしまい思いもかけない世界観の変革が始まったのです。

  プランクの「量子仮説」がそれです。黒体輻射の研究をしているとマクスウェル方程式ではどうしても実際と合わないので、分母から1を引いてみると見事に計算が合うのです(プランク定数と呼ばれている)。ここから導き出される仮説とは「エネルギーは連続的ではなく、あるまとまった単位(量子)の形で交換される」としたのであります。例えば、紅茶を飲む時にスプーンで砂糖を掬って甘さを加減するには問題はないのですが、計測機を用いるくらいの精密さを求めると、甘さの単位は砂糖の粒に依存するのでその単位が無視できなくなる。この砂糖の粒が量子の概念に相当します。

  ニュートン力学では全ては連続的に変化する(アナログ的)と発想していたのに対し、量子の考えでは段階的にエネルギーは変化するという画期的なデジタルの発想になったのです。レコードがCDに変わったようなものですね。余りの奇抜さに当時の科学界は「量子仮説」を無視し発想した本人さえ完全に信じていなかったのですが、これ以後には量子の考えとプランク定数を用いないと様々な現象が記述できないことが分かってきました。

 

  そして、当時は黒体輻射の問題と共に「エーテル」が検出できないという問題がありました。光も特殊な電磁波と証明された以上、波が伝わるには媒体が必要になります。光は宇宙でもどこでも伝わりますから、此の世は質量を持たないエーテルという未知の媒体で満たされていると仮定したのですが、あのアインシュタインが光にも量子の考えを適用し、光は波と粒子の双方の特性を持つとする自ら画期的と呼んだ「光伝効果に関する論文」を発表して、粒子が伝わるのに媒体は不必要だからとあっさりエーテルを否定してしまったのです。つまり、池に放った石と出来た波紋は同じ物であると表現したのですが、これを科学者が受け入れることは容易なことではありませんでした。ニュートン力学はアインシュタインに用意された踏み絵を乗り越えることで完全に終わりを迎えたのです。

  けれど、発見はまだまだ続きます。現在「コペンハーゲン解釈」の名前で知られる量子力学が登場してきたのです。これは相対性理論に量子の考え方を組み合わせ不可思議な原子を記述しようと試みたものです。学校の教科書では決まった軌道を電子が回っている衛星軌道モデルが出ていますが、実際にはこの辺に存在するだろうという確率が予測されるだけで、さらに電子は理由もなく突然軌道をジャンプしたり(勿論量子の単位で)“β崩壊”で知られるように理由もなく崩壊をしたりと、さらに不可思議な行動を示します。

 

  量子力学の創始者であるハイゼンベルクは混迷します。そして、ついに「観測可能な現象間のみ理論に取り入れること」という発想を手に入れた時には、最初から理論の正しさが証明された余りの興奮に簡単な計算を何度もミスするほどで、寝るのも忘れ検証を続けて夜中の3時に気が付き海から昇る太陽を見に出かけた〔誕生前夜〕の逸話は有名です。

  ところが、どうしたことか自らの相対性理論と矛盾を起こすと分かっていながらもアインシュタインには反対をされ(彼はデカルト的還元主義の発想を越えられなかった、彼も神の存在を信じていた?)、「波動力学」のシュレディンガーとの論争にも一度は敗北をするのです。それでも負けないハイゼンベルクは理論のどこに見落としがあるのだろうと考えます。いよいよここから今回のメインの「不確定性原理」が登場します。

  通常、物体の観測をする場合には波をぶつけて跳ね返ってきたものを測定する方法が用いられます。光学顕微鏡なら光の波を、電子顕微鏡なら電子の波をぶつけて反射波を測定することになるのですが、その波長以内は常に誤差を含んでいることになります。新聞の写真がドット以下の細かな部分を見れないのと同じです。そこで波長の短いものを使うことになるのですが波としての特性に固執したことになり、粒子としての特性を無視した形となって運動量の誤差が大きくなってしまいます。運動量を測定する為に波長の長いものを使うと今度は波としての位置の誤差が大きくなる。つまり、原子は波と粒子の特性を合わせ持っている為に、位置と運動量を同時に確定することができないのです。もう少し軽く言い換えるなら、東名高速の神奈川と静岡の県境を時速80kmで西へ移動している自動車の1時間後の到達点を予測することはできるのですが、位置も運動量も確定ができないのですから到達点の予測は不可能なのです。つまり、どんな測定をしたとしても、それはあくまでも【近似値】でしかないのです。これを数学的にも証明してしまったのです。

  これは測定精度の問題ではなく、自然の制約からきているものですから「原理」の名前で呼ばれているのです。還元主義を突き詰めていった結果は、皮肉なことに「此の世には確定要素を得ることができない」という結果を導き出したのであります。

 

  さぁ長い長い理論物理の説明の結果、「此の世には確定要素を得ることができない」という大変な結果を見てしまいました。けれど、本来「科学」とは、訳の分からないものを分かるようにする学問のことなのですから、現在分かっているのは氷山の一角であり、その氷山の一角から全てを知ろうなんてことこそが横暴なのですよね。それも、現在見えている一角が頂上とは限らず、どこかの起伏に過ぎないのかもしれないのにですよ。何度も「これで夜が明けた」という掛け声は聞いたけれど、全部勇み足だったのですから。

  そして、現在でも新粒子の発見は相次ぎ、クウォーク理論という還元主義の手法に物理学は再び傾いていますが、一方ではブーツストラップ理論という「互いに相手を巻き込む形で世界は成り立っている」という根源捜しを否定した「不確定性原理」を延長する理論も出てきています。カプラ先生は、この不可思議な原子の示す世界が東洋神秘思想の中に既に酷似したものが描かれていることに驚き、「タオ自然学」を表されたのです。

 

  「不確定性原理」が働いている以上、どんな精密な測定であっても確定要素を得ることはできません。それが、「揺らぎ」を持って休むことなく変化し続ける生命体ではなおのことなのです。西洋医学のアプローチでは数字に頼った不確定な測定なのだし、生命が説明できないような医学こそ非科学的なのです。それに比べて東洋医学(東洋はり医学会が進める脉診流鍼灸術)は、「揺らぎ」に対応した即時性の脉による診察法を駆使して生命を氣の概念で統一的に観察しているのですから、こんなに科学的な治療法はありません。そればかりでなく科学者は秩序を求める方向であるのに対しても、陰陽五行という形で見事に対応しています。「ターニング・ポイント」では、「物質は心のパターンを反映した答えを返してくれる」と意見が発展していますが、まさに脉診の奥深さは心のパターンを反映したものであり、そのどれもが個人の(診察・治療技術)レベルを反映した「あるがまま」の姿をしたミクロコスモス(身体=生命体)の羅針盤となってくれるのです。

  ニューサイエンスの見方からも、脉診は史上最高最強の診察・診断・治療法だと胸を張って言えます。カプラ先生から「貴会の伝統とその指導方法に魅了された」と最高の賞賛をされたことは、当然だったのではないでしょうか。この素晴らしい脉診を武器に、我々鍼灸家も世界の潮流へ発言して行こうではありませんか。

            参考文献

C+Fコミュニケーションズ  「パラダイム・ブック」            (日本実業出版社)バーバラ・ブラウン          「スーパー・マインド」              (紀伊國屋書店)スティーブン・ホーキング    「ホーキング、宇宙を語る」              (早川書房)フリッチョフ・カプラ        「タオ自然学」「ターニング・ポイント」

アーサー・ケストラー        「還元主義を超えて」「ホロン革命」  (以上、工作舎)




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