スポーツ傷害と健康について

 今回は自分の鍼灸の研究会で発表する題材を勉強中にまとめておいて損のないリクエストを頂いたので文章を追加し再編集しました。あくまでも自分のための資料の一貫ですから、多少焦点のボケた内容かも知れませんが参考にして頂ければ幸いです。実技に関する記載はありませんが、質問があれば遠慮なくいつでもお気軽にしてください。

 

アウトラインプロセッサによる目次)

T.障害とは?

A.「障害」という言葉の語源

1.Inperment

2.HandyCap

3.Disfanction

B.練習しても出来ないことが「障害」

C.知的障害と身体障害

1.精神障害(統合失調症)と知的障害は違う

2.障害者スポーツ

a)全国身体障害者スポーツ大会

b)ゆうあいピック

c)全国障害者スポーツ大会

d)パラリンピック

e)生涯スポーツ

D.過去を引きずらない!

E.あなたも障害者だったかも知れない

F.本当に『知』のある人間

U.スポーツに対する考え方

A.リハビリテーションとしてのスポーツ

B.競技としてのスポーツ

C.健康管理としてのスポーツ

D.スポーツ傷害

V.スポーツと治療との関係

A.絶対に運動禁止のケース

B.条件付きの場合

1.筋力を落とさないために

2.生きる喜びのために

3.生活のために

C.運動を推賞するケース

D.素人だけで判断しない!!

W.再び、本当に『知』のある人間とは

 

   1.障害とは

 私(二木)は先天性緑内障という病気によって生まれながらの障害者として此の世に誕生しました。現在は様々なチャンスに巡り会え職業にも恵まれたことも手伝ってこの偶然に感謝しています。しかし、両親の悲しみは計り知れないものがあったでしょうし出来ることなら何不自由ない身体になりたいという希望は捨て切れていません。

 そして『障害』という言葉はいい響きではありませんね。我々には「障壁」はありますが「害」を世間にもたらしているのですか?身体が不自由であることを「個性」として主張してはいけないのでしょうか?

 

  1.1 「障害」という言葉の語源

 英語から翻訳される際にいくつかの言葉を「障害」と言う一言でまとめてしまったので非常に不適切な意味で現在でも使われています。以下に問題が理解しやすいように書き出してみます。

 ・Imperment(解剖的レベル) → 膝の上で足が切断されてしまったとか眼球を摘出してなど解剖学的に復活の望みがたい条件により、和式トイレが使えないとか普通の文字が読めないなどなど発生する障害。

 ・HandyCap(社会的レベル) → 「目が見えないからトラック運転手にはなれない」「耳が聴こえないからアナウンサーにはなれない」「手が動かないから料理人にはなれない」「知的障害があるからプログラマにはなれない」など一部には克服しがたいものも含まれますが、解剖学的障害によって生じる社会的不利益のことです。しかし、目が見えなくても鍼医者やプログラマにはなれますし耳が聴こえなくてもトラック運転手にはなれるなど人々の力があれば克服し無くなるはずの障害なのです。

 ・Disability(機能的レベル) → 「練習をしているうちは白杖で歩けたのに手引きに慣れてしまって一人歩きが出来なくなってしまった」「要約筆記が便利だから手話が覚えられない」「麻痺の程度が重いからと丈夫なもう一方の手ばかりを使っているうちに萎縮して本当に片手しか動かなくなってしまった」「注意をされていたのに運動を行わなかったので床ずれが出来てしまった」など、本来なら維持できる機能を自らの怠慢によって機能低下を来してしまった障害。

 このようになりますが、特にDisabilityは全員が胸に手を当てて考えて欲しい項目ではないでしょうか。

 

  1.2 練習しても出来ないことが「障害」

 では「障害」と表現しているものの最も的確な意味とはどういうものでしょうか?定義としては「練習しても達成できない障壁」と表現すべきでしょう。

 例えば脊髄損傷により足が麻痺しているから自力では立てないとか両腕がないのでバタフライは泳げないとか目が見えないから卓球は競技にならないと言うことです。しかし、目が見えなくても平面で行う盲人卓球(サウンドテーブルテニス)は存在しますし走り幅跳びも歩数を計算して自力で飛べますし両腕が無くても紐を使って背泳のバサロスタートは出来ますし脊髄損傷でもチェアスキー(海外での一般的名称はシットスキー)が存在します。特殊な形態をとる必要はあるかも知れませんが努力や少しの補助によって達成できることは障害ではないのです。

 逆にその人の体質や筋力や能力に左右される部分は大きいのですが単に柔軟性が足りないからバタフライが泳げないとか杖を使う練習をしないので自力で立てないとか初めから無理だと決めつけるから走り幅跳びが出来ないなどは障害ではないのです。

 

  1.3 知的障害と身体障害

 『障害者』と呼ばれる人も様々です。大きくは知的障害者と身体障害者に分けられます。内臓疾患による内部障害者は、法律の定めにより身体障害者の一員となります(ただし法的助成が受けられるだけです)。身体障害者は先天・後天を問わずに身体機能の一部に障壁があるだけですが、知的障害者とは先天的な脳障害により知能遅滞が認められ身体障害を伴うケースも珍しくありません。現在では一歳までに発生した脳に起因する麻痺を全て脳性麻痺と表現しますから知能遅滞がなければ身体障害者です。

   1.3.1 精神障害(統合失調症)と知的障害は違う

 前述のように知的障害は先天的な脳障害による知能遅滞を言います。言語のないケースもかなり存在しますがダウン症候群のようにかなりのレベルに到達したり計算だけが出来ないだけで労働に従事し社会人として自活しているケースも多数あり、情緒障害は無いと言っていいでしょう。施設の職員曰く「知的障害の人と関わるほど楽しいことはない、こんなに楽しいことをしていない人は不幸かな」と言わせるくらいに嘘が無くて純真な人たちだと思います。

 これに対して精神障害(統合失調症)とは通常の生活を営んでいた人が酒乱や失恋や過労や自閉症など後天的な原因で情緒障害を起こしてしまったもので、平常と情緒不安定が不規則に現れているケースが大半です。嫌いじゃないけど気を使ってしまうよね。

   1.3.2 障害者スポーツ

 障害者スポーツの初期は【再獲得する】と言う意味を持つリハビリテーションが目的でした。1950年代前半までの脊髄損傷者の平均余命は腎機能障害により2年と言われていたものをグッドマン博士が水泳を試みさせることによって劇的な改善を果たし、「失われたものを数えるな残されたものを最大限に生かせ」という有名な言葉が生まれたのでした。 その後も車イスバスケットやゴールボールなどが考案され競技用具の改良もめざましく、アトランタパラリンピックに於いて競技スポーツとして全世界が認めるところとなりました。もはや「機能訓練の成果を披露する場」ではなくなったのです。

    1.3.2.1 全国身体障害者スポーツ大会

 これは東京オリンピックと同時に開催された東京パラリンピックを契機として、毎年国体の直後に開催されるようになった国内最大の大会です(身障国体)。個人 → 陸上・水泳・卓球・アーチェリーと団体 → 車イスバスケット・グランドソフトボール(盲人野球)・バレーボール(聴覚)から構成され、個人は一生に一度しか出場出来ないと言う制限がありました。しかし、1997年より大幅改正となり個人は39歳までの1部と40歳以上の2部に分かれクラス分けもそれまでの解剖学的な42より機能面重視の26へ絞られることとなり、二度目の出場にも道が開かれることとなりました。けれど、この大会のみが依然として特殊形態で運営されていることには変わりありません。

    1.3.2.2 ゆうあいピック

 1992年より「スペシャルオリンピック」の国内版として、知的障害者の全国大会毎年開催されるようになりました。個人だけでなく団体(野球・サッカー・バスケットなど)も行われています。出場制限はありませんが、現在のところは軽度で自立に近いか施設入所者が大半です。2000年岐阜大会にて終了しました。

1.3.2.3            1.3.2.3 全国障害者スポーツ大会

1.3.2.4         2001年より「全国身体障害者スポーツ大会」と「ゆうあいピック」を統合し、夏と秋の国体が開催された都道府県において直後に実施されるようになりました。個人種目は一定していますが、知的障害者の団体競技については実施状況により若干の変動があります。今後は国内独自の競技は排除され、パラリンピックの予選的な要素が強まって行くものと思われます。

1.3.2.5                1.3.2.4 パラリンピック

 パラリンピックとは造語で「パラフレージア=下半身麻痺=車イス使用者」のオリンピックとしてスタートしました。その後に肢体不自由だけでなく視覚や脳性麻痺も加わり、ソウル大会以後は「パラレル=並行」オリンピックとして正式名称となりました。バルセロナ大会からドーピング検査と標準記録が導入されアトランタ大会からは知的障害部門も開始されました(基準作りが不明確なため現在は中断)。冬季大会も開催されています。組織の統合はまだ成されてはいませんが各大会の実行委員には一部門として参加するようになりました。

 但し、聴覚障害者に関しては合図の工夫のみが必要だと言うことで別大会が開催されています(これは聴覚障害者側の選択によるもので排除されているわけではありません)。また、各世界選手権に障害者部門が設けられる傾向も見受けられます。

    1.3.2.4 生涯スポーツ

 生涯を通じてスポーツに親しみ健康の保持・増進を目指すことに障害者も健常者も隔たりはありません。しかし、特に進行性の障害を持つ人たちは負担を掛けないように注意しながらスポーツを続けることにより進行が抑制されるのですから余暇に行うのではなく生活に組み入れるべきだと思います。

 

  1.4 過去を引きずらない!

 身体障害者の大半は後天的です。健常者であった時代の記憶があるのです。楽しい思い出や栄光や記録はもちろん大切にしていいものですが、過去は過去で現在とは違うのです。「歩けた時代なら電車に乗るのも苦労しなかったのに」「目が見え続けたらもっと勉強できたのに」と過去を引きずっても何も前進しません。障害者の全員が物わかりのいい人ばかりではないので家に閉じこもったままの人たちがいます。家族が隠したがるケースも存在します。心ない周囲のために暗闇に閉じこもってしまったケースもあります。でも、大切なのは『今』なのです。

 

  1.5 あなたも障害者だったかも知れない

 病気や事故により身体障害者になる可能性は現在も身体障害者である人を含めて誰にでもあります。また精神障害(統合失調症)に陥る可能性も否定できません。しかし、知的障害者にはなりません。

 ところで、「高齢出産だと障害児が生まれやすい」と言いますが明らかに間違いです。障害を持った命が発生する確率は25%にも達します(うち知的障害は18パーセント)。これが生命力がないためか自然選択なのかほとんどが流産になるのです。一ヶ月未満なら全く二ヶ月未満でもほとんど流産にさえ気が付かないだけで、実に4組に1組の夫婦には障害を持った命が発生しているのです。これは母胎にのみ責任があるわけではなく男性側に原因のあることも立証されているので、昔のドラマのように「この嫁が悪い」などと言う非難はナンセンスです。

 確かに障害を持った命が誕生する確率は低いかも知れませんが、4組に1組は本当は障害を持った命であったことを考えるとあなたが障害者であったかも知れないのです。

 

  1.6 本当に『知』のある人間

 でも、やはり大多数は健常者として此の世に生まれます。(数字は分かりやすいように適当にしましたので根拠はありませんが)100人生まれたとしてもやはり99人は健常者で残りの1人だけが障害者なのです。

 あなたは99人の大多数の側で良かったと胸をなで下ろすでしょうか?でも、同じ人間として生まれてきたのにどうして残りの1人だけが特別なのでしょうか?あなただって少数派に属した可能性が否定できないのですから「私は障害者に生まれなくて良かったと考えるのではなく100人全員で生きていこう」と考えられる人が本当に『知』のある人間ではないでしょうか?単なる知識や知能があっても他人を差別するような人を尊敬できません。同じように『優しい人』とは単なる親切ではなくその人の目の高さに合わせて物事を考えられる人ではないでしょうか。

 

 

   2.スポーツに対する考え方

 「スポーツをすれば健康になれる」とはどこかの宣伝みたいですが、必ずしもスポーツ=健康という図式は成立しません。正しいトレーニングや練習日程や故障状況などを考慮しないと単に身体を痛めているだけです。主に治療との関係よりスポーツを分類し、トレーニングに対する目安を書き出してみたいと思います。

 

  2.1 リハビリテーションとしてのスポーツ

 身体は常に傷つき続けますが同時に再生も行われています。大きな傷を負ってしまったときに如何に元通りに再生させるかを助けるかの分野と書けば分かり難いですが、脳溢血を起こしてしまったときには昔なら症状が固定するまで絶対安静だったのに対して現代では麻痺しなかった部分は自力で麻痺をした部分でも他力で直ちに運動をさせ萎縮させないなどです。また前述した障害者スポーツ誕生の背景も典型的なリハビリテーションとしてのスポーツであり『生きる喜びと希望』という極当たり前のことを取り戻させてくれる分野なのです。

  

  2.2 競技としてのスポーツ

 いわゆる「スポーツ」と表現している際に意味される分野です。最高水準の技量や試合が求められ莫大な報酬の得られるプロの存在は子供たちの憧れであります。しかし、競技性が高まるにつれてケガをする確率も高くなります。危険が伴うならスポーツには取り組まない方がいいかというと強靭な肉体と精神を養うためには苦しい練習の積み重ねが必要です。つまり、最初からケガをすることは計算に入れた上でメリット重視で取り組むのです。極端には頚髄損傷の人では体温調節が出来ないので時々シャワーを浴びせてやる必要があるのですが、それほどの危険に立ち向かってでも競技には取り組む価値があるのです。またオリンピックなど世界規模が統べてでもありません。

 

  2.3 健康管理としてのスポーツ

 これはリハビリテーションとしてのスポーツと競技スポーツの両方に於いて取り組む方法の違いだといえます。つまり、リハビリとは言っても毎日が全く同じプログラムでは飽きるだけでなく前進がありませんし競技を目指しているにしても全く同じプログラムでは同じ筋肉を動かしているだけで運動能力の向上は望めません。目標を立てリズムを持って運動することが大切なのです。目標をクリアするために多少の辛さに耐える時期と筋肉をゆっくり大きく動かして疲労を取り去る時期と交互にメリハリをつけて組み合わせるのです。リハビリの中に競技性を取り入れ競技の中にリハビリの要素を取り入れると言うことですね。

 

  2.4 スポーツ傷害

 スポーツ中のアクシデントによって発生するケガのことですが、テニスでの肘や陸上での足首など痛めやすい部分だと判っていながら故障を繰り返すようでは注意力が足りないのです。あるいは一度故障をした部位をさらに故障するのも自分の癖や練習方法に問題意識が足りていない証拠です。やはりリハビリ性と競技性の両方を取り入れるべきです。

 しかし、スポーツ傷害の中で回復が困難な傷を背負ってしまうことがあります。激突の際に脊髄損傷になったり荷重が大きすぎて関節機能を破壊されたり道具の操作ミスで視力を失ったりです。これはあってはいけない事故なのですが、実際に発生してしまいます。ここでスポーツを・人生をどう考えるかです。前項の中で「過去は大切にしてもいいが引きずってはいけない」と書きました。こんなに簡単に「じゃこれも人生だから...」と次のステップへ進める人ばかりではなくある程度の時間経過が必要でしょうが、本人も周囲もそれだけの危険を冒してでもスポーツに取り組む価値があることを認識していただきたいのです。もちろん障害者がさらに重い障害を背負うケースが存在もするのですから。

 

  

   3.スポーツと治療の関係

 「治療」と「スポーツ」は密接に関連しどちらか一方だけで「健康」になろうとしても無理があることが理解して頂けたと思います。しかし、どちらにスタンスを置いているのか、あるいは時期的にスタンスの位置を変える必要が生じることがあります。判断材料となるように項目をピックアップし整理しましたが、最終的には自己診断で意地を張らずに専門の治療家の指示に従うべきです。

 

  3.1 絶対に運動禁止のケース

 骨折(いわゆるヒビが入ったという亀裂骨折を含む)があり処置を受けていない状態(時間が経過していても処置が優先)、拍動が判るくらいの腫脹(冷やす必要がある)、何もしなくても痛みがある(処置を優先)、運動を開始すると痛みが激しくなる(身体を物理的に破壊し続ける)、発熱中、外傷が化膿して動くと傷口が開いてしまう、酒に酔っている、メニエルなど平衡器官に異常がある(特に水泳は厳禁)、心臓疾患で警告を受けている、血圧異常で警告を受けている、法律で規定された伝染性疾患を持っている、極端な睡眠不足時、極端な疲労時。

 

  3.2 条件付きの場合

 故障を抱えながら・危険な状態に進むと判断できても、それでもスポーツに取り組む価値のあるケースが存在します。大きなリスクを抱えて行うのですから慎重に・決して無理はしないように注意することはもちろんですが撤退する勇気も持ち合わせておく必要があります。

   3.2.1 筋力を落とさないために

 人間の身体構造ではほとんどの場合「代替え」運動を行う事が出来ます。例えば肘から先を曲げるには上腕二頭筋という筋肉を用いますが、これが不能の場合には上腕筋と腕橈骨筋が代行をします。もちろん腕を若干ひねった状態でないと曲げられませんが代行としては充分であります。このように直接ダメージを受けた筋肉を使用はしないものの代行筋を動かし続けて筋力全体の低下が発生しないように気を配る必要はあります。脳溢血でも他動運動は直ちに開始し自動運動も発作の危険が回避されれば直ちに開始するのはこの理由によります。

   3.2.2 生きる喜びのために

 障害者スポーツの概念に近いものです。内臓疾患を含めて身体状況が固定しない時期でも身体を動かし生きている証を求められる場合にはリハビリテーションの一環として動くことを認める方がいいケースがあります。体温調節が出来ないのであればシャワーを時々かけてやるとか外傷が治り切っていなくても自動車の運転を許可するとかです。

   3.2.3 生活のために

 プロ選手は身体が資本です。休養を取るときにはしっかり取ることを条件に、可能な範囲より運動を再会する必要は生じるでしょう。

 あるいは循環障害を持っている人には短期的には負担が掛かっても長期的な利益を優先させて運動を許可するケースがあります。私の体験で説明しましょう。数年前に夜中に緑内障発作を起こしてしまいました。初めて「医者に診てもらおうか」と思ったのですが「自分で徹底的に治療をして見えなくなってしまったら鍼や自分の限界点の見極めになるし回復をすれば鍼の可能性は無限だと実感できる、どちらにしても鍼をもっと好きになろう」と患者のためにも視力を賭けた人体実験に挑みました。同時に運動に関しても短期的には動けば発作を再発するリスクが高くなってしまうのですが長期的には決して無理をせず気持ちいい程度だけなら循環が促進されると計算し二日後より開始しました。結果はご覧の通り見事に復活しました。自分自身でも運動をすることは確かに恐怖を感じましたが、痛みが軽減しているのがハッキリ判り睡眠も快適になったのですから即座に効果が現れたのでした。

 

  3.3 運動を推賞するケース

 故障をしていても運動を推賞するケースとは、症状が完全に固定してしまった場合です。骨折部位が変形してつながって可動制限が出来たとしても運動によって回復することがありますし内臓疾患や手術の後でも運動により回復は早くなります。

 

  3.4 素人だけで判断しない!!

 しかし、これらは一応の基準であり素人だけの判断はやはり禁物です。例えばテーピングの問題を取り上げてみましょう。軽い痛みは確かにテーピングで押さえられますが「治療を優先すべきか」「条件付きで続けてもいいのか」を判断しなくてはなりませんし、第一にテーピングは講習を受けて正確な知識と巻き方をしなくては一時的には補助となり得手も長い目で見れば無理が係って新たな故障の原因になりかねません。また軽い痛みにも内臓疾患の事もあり治療や通院が必要な場合もありますし、視力に影響が及ぶような場合には即刻中断をすべきですから素人だけで判断をしないことです。

 

 

   4.再び本当に『知』のある人間とは

 ここで、とても簡単な実験をしてみます。静かに目を閉じて自分の呼吸に集中してみて下さい。普段は気の付いていなかった呼吸のリズムや心臓の拍動や内臓の動きなどが感じられたことでしょう。実は『リアリティー』とは、どの部分に集中するのか・何を望んでいるかで決まってしまう自分で組み立てているものなのです。

 我々は通常「私は身体だ」とは言わずに「私は身体を持っている」と表現しています。これはあたかも車や住宅を所有しているのと同じ感覚です。さらに【死の恐怖】から逃避するために一見死なないかに思える観念に逃げ込んでしまい身体感覚のほとんどを手放してしまっています(さらに個人的哲学によって自分でありながら好ましくない自分を排除しようとするのでますます感覚は歪められ仮面を被った状態になると精神病(統合失調症)と呼ばれます)。あなたはどのレベルにいると思われますか?

 アメリカで行われた実験はボランティアが「幻覚が見える」「幻聴がする」と訴えて精神病(統合失調症)院へ送り込まれた後には正常に振る舞ったのですが、医者や看護婦は「違う異常状態に陥った」と気が付かなかったのです。以外にも「この人は正常だ」と最初に気が付いたのは入院患者たちでした(精神病(統合失調症)と呼ばれるものは通常まだらです)。どうして医者や看護婦は見抜けなかったのでしょうか?「精神病(統合失調症)患者だから」と一度レッテルを貼ってしまうとそのフィルターが取り除けないのではないでしょうか。現代人は誰もが何らかの精神病(統合失調症)症を持っていると言われます。いかに自覚するかが鍵となるのではないでしょうか。

 五体が満足でも精神が歪んでいたのでは健全な人間とは言えませんし身体障害者でも前向きな精神であれば健全な人間と言えるでしょう。知的障害者の人たちと触れあっていると「嘘」を付くことが日常化している我々が恥ずかしくなってしまいます。境遇によっては高い地位の人もいれば恵まれた環境の人もいれば貧困の人もあるでしょうが、生まれながらにして『人間の質』が違うと言うことは絶対にありません。

 色々な人たちがそれぞれの立場で『健康』を考えて、そのひとつとしてスポーツにも取り組むべきです。でも、最も大切なことは自分だけを考えるのではなく色々な人のことを理解し『みんなで生きていこう』という気持ちではないでしょうか?



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