鍼灸の可能性に想う@

 

漢方鍼医会  二木 清文

 

1.鍼灸の可能性とは何か

筆者は東洋はり医学会北大阪支部の丸尾頼廉先生の元で助手をしていた時代がありました(この丸尾先生も元は船乗りから片大腿切断という事故により陸に上がって職を転々とする間に鍼灸師となられた経歴の持ち主です)。助手を卒業してから、その次の助手達に「何か話を」と会合に招待されたことがありました。何がいいかと考えていたら「経絡治療の醍醐味」とのリクエストが来ました。会合の当日は滋賀の勉強会を早引きして大阪に向かうときに、「その題名には『そ』を加えた方がいいぞ」と言われて考えていると、あっ「経絡治療の粗大ごみ」!!

いきなり「落ち」から始めてしまいましたが、今回の文章は助手時代に聞いた話と経験から現在の筆者があることを書きました。正直「鍼灸の可能性」という題名では手柄話のオンパレードになってしまうので、最初は気が進まなかったのですが筆者の大師匠に当たる人物の記録をどうしても残しておきたかったので筆を執りました。

その前に、これもお決まりのパターンかも知れませんが筆者の経絡治療家への道から導入となります。

 

  1.1 鍼灸の道に入る前

筆者は先天性の視覚障害者であり、いじめられましたが幼稚園は普通学級にいたものの小学校からは滋賀県立盲学校で専攻科理療科を含めて十五年を過ごしました。つまり十五年間も昼は給食を食べていたんですね(今回は落ちのオンパレード)。

かつて、筆者の父親が整体術(カイロプラクティックの東洋版でかなり派手な民間療法)によって一発で腰椎ヘルニアが治癒した経験があり、我が息子にも視覚障害者であるが故に触覚を生かした民間療法を身に付けさせようと、学校の意向を超越する節がありました。その影響で(巨人の星ばりにちゃぶをひっくり返さんばかりの勢いで)、筆者は中学時代より整体術らしきものを人の身体を触って訓練させられましたので、今から考えれば体幹から四肢に対する効果というものを考える素地が自然に身に付きました。但し、この経験は治療家として宝とはなっていますが操作手順が逆なので経絡治療に飛び込む際には障壁ともなりました。

筆者が子供のころに描いていた鍼灸師の理想像ですが、患者の苦しんでいる部位とは全く別のところに鍼をして魔法のように苦痛を和らげ、何食わぬ顔で病状の予言をするというものでした。その意味で目の前で何度も劇的な回復を見せつけられた整体術という技術はかなり近いものがありましたが、整体術をしていた人は副業でありリスクの大きさは素人から見ても大変そうでプロとして、まして視覚障害者が治療室を構えて開業をするには不向きではないかという不安もありました。

 1.2 鍼灸学科で学んで

最低限は正規の医療資格を取得する必要がありましたから、専攻科理療科に入学し(実態は内部進学ですから盲人野球優先の学生生活というより、部活のついでに勉強があった普通科よりは少し真剣になった程度でしたね)、一学期の解剖・生理が欠点スレスレと言う成績の筆者であっても不安が的中していたことに気がつくには時間はかかりませんでした。

整体術は目に見える効果も劇的で発熱状態や乳幼児などは対処法があるとしても、また内分泌や内臓疾患の一部に効果があっても、全体の守備範囲が狭いのは明白です。最大の問題は老人でも丈夫なのは診療するのに、いわゆる骨粗鬆症の老人は拒否というのではプロの仕事として成り立ちません。合理的に説明する道理が全くないだけでなく、応急処置をする手段を持ちえない技術は医療とは言えません ⇒ この本を購読している学生諸君にそんな心配はないでしょうが、目先の派手なパフォーマンスで素人をだましている奇術に明るい未来はないのですから、鍼灸の本道を信じるべきです。

幸か不幸か受け入れを表明してくれていた相手の事情が急変し、自ら道を開かなくてはならなくなりました。どうせなら「鍼灸のみで身を立てたい」と生意気だけは一年生の時から想っていたのがしっかり見破られて、「二木の按摩は揺すり按摩や」と担任から指摘もされました ⇒ 自分が助手を育成して同じような言葉で指導をするなんて夢物語でしたね、まして当時はテストを作っている人は気持ちいいだろうなぁと勉強をしながら恨んでもいましたが実は採点をする苦しみがあるとは夢にも思いませんでした。

滋賀盲方式の按摩は横臥位での半身揉みが基本でしたが、この経験もバネになって最初に腹臥位で左右を交互に揉むと効果的であることを発見するに至り、経絡の存在と効果を実感するようになりました。

  1.3 経絡治療(脉診)に出会って

筆者が専攻科二年生の時に東洋はり医学会滋賀支部が組織され、先輩であり現在も親友である川元喜代司先生が体験治療をしてくれたときの脉の変化と衝撃(と聴講料無料の魅力)に誘われて、「暗い勉強会やなぁ」と最初は誤解していた研修に参加するようになりました ⇒ 「楽しくなければ研修じゃない」が現在のモットーです。

これも正直に書くと、「近畿青年洋上大学」という事業に参加したくて夏休みの研修を早く終えるために鍼灸専門の見学を申し込むと、予想に反して東洋はり医学会北大阪支部長の宮脇和登先生から承諾が得られたので、慌てて臨床訓練を開始した節もありました ⇒ 研修に入っても標治法の意味や奇経グループもまともに知らなかったので、宮脇先生にとっては大変な迷惑だったでしょうが実際の治療室を見学させてもらえたことで短期間で、洋上大学中には緊急スクランブルをこなし強制帰国の危機を何度も救う体験につながったことから、助手として修業する決意を固めたのでした。「病院で沢山の症例を経験したい」と考えている学生諸君が居るかも知れませんが、目指す技術と現場はイコールなのですから回り道しないで下さい。

灯台下暗しとはこのことなのでしょうか、理想の鍼灸術が身近にあったのです。脉診なんて想像もしませんでしたね。

もう有頂天で「難しいことはどうでもいい、脉を変化させられれば病気は治るんだ!!」と天下さえ取ったような気分でした。三年生の外来は担当患者制による継続治療で治療方針そのものは生徒が決めていいことになっていましたから「経絡治療専門で按摩はしない」と宣言し、怖いもの知らずで盲学校の教員ながら刺激治療の大家の先生に真っ向たて突きました。悪戦苦闘はしましたが成績が上がってくると 、今度は「福島弘道流の表現は気に入らない」と言われれば「どうすればいい」と腕を腫れ上がらしながら点字カルテを何度も打ち直した思い出が甦ってきます。

 

2.大師匠の話

さて、総てを目指しているではないにしても、夢に描いている大師匠の話です。熊本盲学校というのは変わった人物を輩出していることになります(ピンと来た人が何人かいますね)。家庭環境には恵まれなかったようで、本科卒業後には四国の按摩屋に住み込んだのですが、「食事は何がいい」と聞かれて「骨のない魚がいい」と答えたら山ではありましたが四国ですから、毎日出された刺し身を食べ続けたエピソードから変わり具合がお分かりでしょう(弟子連中が相当に無茶苦茶言ったらしいですけど嫁さんも八歳年上の当時の寮母で、このエピソードも変わり具合か判りますね)。

その人が按摩をしながらも、どうして出来たのか本を読むだけで独学で脉診を会得したと言います。想像できることは、患者の病状から本に書いてある脉状であろうことを指で覚え、今度はそのような脉状が触れたなら患者に尋ねてみることで脉差診でなく脉状診を体得されたのではないでしょうか。地道な作業を延長して治療法則や手技についての研究もされたことでしょう。

住み込みも四年目になると肩こりがと言う患者に、脉を診てから曲泉や陰谷付近ばかりを揉んでいると「私は肩が凝っているんだから肩をもめ」「とにかく楽になったらいいんじゃろ」と自分サイドで進め、ろくに背部には手を付けていないのに「よし」と起こすと本当に肩こりが取れていて患者がキョトンとしていたと言います。それで五年間を過ぎると「もう按摩は飽きた、鍼がしたい」と大阪に出てきたそうです。

大阪に出てきても頼る人も少なく、たまたまかなり流行っている治療室の主人が「奥に一部屋空いているから」と間借りできたそうです。立てる看板もなく最初のうちは表があまりに混んでいるからと待ちきれない患者が流れる程度で、これなら主人の思うツボが、段々に裏の方が流行りだして通り道になったので追い出されてしまったそうです。

治療室は規模拡充のために一度移転したそうですが、予約制ではなく順番制ですから待合室は常に芝居小屋の満員桟敷席状態だったそうです。料金も係は付かずに自分でお金を箱に放り込む方式で「おつりが..」「必要なだけ取れ」「そんなこと言われても...」「ええい、慣れてるのがやったれ!」の調子らしいでしたが、「先生、それで収支が合っているんですか」と弟子が尋ねると、「いいや、ほとんど合わん、けれど患者が自分のことを信じて来てくれているんだから、こちらも患者を信じなければどうする」とのことだったそうです。忙しくなると「おい、そこの!」と常連患者を呼びつけ、「自分が診て欲しかったら先に仕事をせんか」と巻き艾を作らせたり灸頭鍼の番をさせたりと、助手が五人に加えて合計二十人くらいが仕事に携わっていたと言いますから、テレビに出てくる「わがままな居酒屋」どころじゃないですね。(筆者の治療室も似たところがありますけどね)。

(脉診の詳しい部分や考え方については次回に回しますが)肝心の治療は、まず大師匠がベッドで診察をして按腹や電気鍼や灸頭鍼などの、いわゆる標治法から入ったそうです ⇒ この癖が丸尾先生にも残って治療方針に対して何度も噛みついた記憶があります。五台のベッドを行き来してたそうですが、少しでも鍼の効果に対し疑問を患者が口にしようものなら、「何を言うか!、鍼を信じているからここに来たんじゃろ」と目の前の患者を叩いて、「私が言ったんじゃない」と患者に逆に怒られる瞬間湯沸器ですから、按腹用のシッカロールが箱ごと飛んで治療室が真っ白になることも珍しくなかったそうです。

治療の最後にイスに移して座らせたままで、証の了解を得てから助手が本治法をしたそうです。「鍼は誰がやっても効果が出るものだから、そこに至る診断=見抜く力が大切」と力説されていたそうです。

手が空いているといつも本を手放さず勉強をしているか、新聞紙を丸めたものや雑誌で助手を殴ったり投げつけていたそうです。まるで茶番劇のごとく数限りなく投げつけられたり殴られたそうですが、その中でも特に印象深いものが二つあるそうです。

一つは証の了解を得てから本治法をした患者を帰り際に大師匠が呼び止めて、「どこか具合が悪くなったろ」「さっきからお腹が痛くなって」と大師匠が本治法をやり直されると患者は回復して帰ったそうで、もう一回は「前回の鍼は誰がやった」と患者に尋ねて丸尾だということから「前の時に逆さ向けに鍼をしただろ」と、共に後から雑誌もバラバラになるほどの殴られ放題だったそうです。しかし、お気づきでしょうが大師匠は誤治をすれば腹痛を起こすことを見抜いたうえで間違いに気づくのか伎倆を試したのであり、それに気づかず患者を返してしまった自分のことを思うと情けなくて仕方なかったと丸尾先生は言われました。また、鍼の方向が違っていたのをどうやって見抜いたのかと尋ねると、「各人によって治療のレベルがあるのにいつもに比べて極端に低かったから逆方向と診た」と言われたそうで、そこまで助手一人ひとりのことを観察もされていたのでした。

 

今回は脱線が多すぎて導入で終わってしまった感じですが、とにかく経絡治療というものがいかに強力で将来性豊かなものかは伝えられたのではないでしょうか。素晴らしい一芸というものは世間に一杯あります。経絡治療をもってしても整体術の方が即効を表すこともありますし、中医学や西洋医学と共存もしなくてはなりません。大切なことは「その診断をする力=見抜く力」であり、時には「別の治療法や治療家を紹介できることも優れた治療家の条件である」との認識でしょう。脉診という羅針盤によって我が道を選択できるという、鍼灸の独自性を堂々と歩もうではありませんか。



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