Version 3.0.0 1994.9.27

証の考え方について

二木 清文

 

今回、経絡治療を入門当時から学んできて当時と現在とでは大きく臨床が変化をしていることを認めざるを得ません。何故このように変化をしてきたのかを初心者に説明すると言うことを前提に理論を洗い直してみたところ、証の考え方についてもっとダイナミックに捉えれば逆に単純化もされるのではないかと思える考えに至りました。

後で何度も繰り返すことになりますが、決して既存の枠を壊すような解釈ではなく目新しいものでもないと思います。あくまでも一つの診方に過ぎません。それから、今回は考え方の提示ですから脉型にこだわった書き方になりましたが、病理・病症を軽視しているわけではありませんので、間違いのないように御願いします。

 

 

メインテーマ 証の考え方について

経絡治療を学ぶにおいて最も大切なことは脉診であり証であります。脉診と証は一致しなければならず、証は病理・病症を中心に導き出されるものでなければなりません。すると、脉診は脉差を中心に診るのではなく脉状を中心に診るのが本筋です。初心者もこの方向で教育をすべきだと思います。

ところが、過去において脉差ばかりに注目して技術を習得してきたために証についての考え方に大混乱を生じてしまいました。脉診だけにこだわって患者や病気を忘れていたと言ってもいいでしょう。特に難経七十五難については治療法をねじ曲げることによって無視をしてきたようですが、生理的・病理的に考察すればかなり頻繁に存在しておかしくない証だと思います。

初心者の教育で何かいい方法はと思案し、「脉診時に落差の大きな部分に注目させては?」と発想し証に相剋する経は必ず実になっているのではないかと仮説を立て追試の最中に難経七十五難を発見しました。

この論文はあくまでもこれからのたたき台として発表をするものです。ですから、初心者の方は「何故脉が出るのか」という部分を中心に読んで下さい。初心者以上の方はとりあえず追試をしてもらえれば難経七十五難が発見できる可能性が高いと思います(決して本文のアプローチも間違いではないのですから結構使える方法ではあると思います。但し病理の裏付けは必要です)。

尚、本文は最低でも「調軽論」の四大病型は考慮して脉状や病理を中心に話を進めなくてはならないのですが、膨大な文書量になってしまうことと今までの癖を考慮して「脉差にこだわるな」と書いておきながらも脉差を中心に書かざるを得なかったことをご了解下さい。

 

 第1章 基礎理論にダイナミックさを

1.陰陽について

やはり東洋医学の基本は陰陽論であり、全ての現象をつきつめて考えると陰陽で説明のできない概念はありません。

しかし、今まで教わってきた概念では、一度「こちらは陰、あちらは陽!」と分けてしまうと、大前提となるグループの性格は変わらないかのように、ダイナミックさに欠けているのではないかと思います。もっともっと、陰陽論とはダイナミックな概念ではないでしょうか?

つまり、陰は消極的で、受動的で、冷えで、弱いなどが特徴であり、陽は積極的で能動的で、熱で、強いなどの特徴をもっている一般論はそれでよいのですが、今までであればまず大きなグループ分け、例えば背中は陽で腹は陰と分けてしまうと背中の中で陰陽を考えても陽中の陰陽、あるいは陽の強い性格を維持した陰陽のように捉えてしまいました。しかし、陰陽は紙の表と裏とか男と女のように明らかに区別ができて絶対に不変の概念ではなく、常に相対的評価の結果付けられた呼び名のことだと思います。

身体の一部に痛みがあったとします。それは熱を持った疼く様な実痛であったとします。これを押さえる為には通常は反対側の同部位に補法をする加えればいいのですが(陰陽バランスを整える)、もしも、その補法を加えた部位に新たにもっと激しい痛みが発生したとするなら、陰陽の関係は手技を含めて逆転してしまうでしょう。

そこで、あるレクリエーションでこんなゲームをしたとしましょう。リーダーが、条件を提示したらすぐにそのグループに別れるというゲームです。そのグループの呼び名は、ABCでも123でも、あるいは陰陽と呼んでも何でもいいですよね。ですから、2グループに別けたときは陰陽と呼ぶことにしましょう。リーダーが「男は陽で、女は陰。」と言えば明確に別れてくれます。続いて「眼鏡を掛けている人は陽で、掛けていない人は陰。」と言えばどうでしょう。今までの考え方なら、男性の中の眼鏡の有無のグループと女性の中の眼鏡の有無のグループと4種類に分けてしまっているでしょう。しかし、「男性は陽で、女性は陰。」と分けた直後に「ズボンの人は陽で、スカートの人は陰。」と号令を掛けたらどうなるでしょうか?女性の中にはズボンを履いている人もいますからグループが作れますが、男性でスカートを履いている人はまずいないのでグループは作れません。ここまで説明すればお分かりになるでしょう。号令を掛けるたびに前のグループはきれいに解散して、単純に新しいグループをどんどん作っていくのがルルなのです。陰陽とは、これと全く同じで、観察方法を変える度に前の結果はきれいに解消されて単純に「どちらが陰で、どちらが陽になるか。」の評価をし直すだけなのです。

それでは、「男には子供は産めないだろう」「太陽と月とでは役割は代われないだろう」と言われる方もおられるでしょう。確かに物理的に陰に(陽に)なり難い物はありますが、日食などのように一時的ではありますがその性格を超越することは可能であります。

つまり、この世のどこを探しても絶対的な陰や絶対的な陽は存在しません。

 

2.脉診と陰陽について

それでは、陰陽とは相対的な概念であると理解されたとして話を進めます。

診察を進めていく中心は、病理・病症の考察と脉診であります。しかし、実際には患者を目の前にすれば脉診から入ってしまうものです。脉診で陰陽を診なければ、どこで判断をするということになりますから、当然脉診には陰陽があります。ご存じのとおり沈めて陰経で、浮かせて陽経を診るということですね。それだけでしょうか。

比較脉診と脉状診−比較脉診(脉差診)と脉状診は別物だと勘違いしている人が大勢いるみたいです。脉診とは全て、脉状診のことであり、言い換えるなら脉状診の中に比較脉診が含まれているのです。これは、六祖脉という診方を習った人たちがいるからでしょう。確かに、浮沈遅数虚実に注目すると手技や手法の選択には混乱が無くなり優れた方法には間違いありません。しかし、これだけで処理をしようとするとせっかく各部に現われている細かな情報が読み取れなくなります。

また、比較脉診だけですぐに証が判明するような病態は軽症であり、六祖脉すらいらないくらいです。乱暴な表現ですが、菽法は五臓の活動状態を知り、正脉では五臓の生理状態を知りあらゆる情報を総合判断して、最終的に病の本体を決定するのが証だと思うし、脉状診は欠かせない必須条件であります。

それで私が問題にしたいのは、なぜ人によって脉状の把握できる範囲が違うのかということです。もちろんその人の触覚力にもよるのですが、心理学で言うセットの問題だと思うのです。

セットとは、美術館によくある最初は何が描いてあるのかわからないモザイクのような絵を説明書を読んだ次には人の顔などが見えてくるような場合です。しかも、説明を覚えている限りいつ見ても人の顔が見える、このパターンを認識できる状態をセットと呼びます。パターン認識のためのプロセスがあるかどうかということで、脉診で言うなら菽法を知っていれば菽法が、それに加えて正脉を知っているなら正脉が見えるようになると思うのです。ですから、我々は脉診に対して色々なパターンが認識できるようにプロセスを、心理学で言うセットをより多く持てるように努力すれば、より多彩な脉状診が可能になるのだろうと思います。私もそのように努力したいと思っています。

 

第2章 証について考える

3.証の定義について

さて、初心者を指導する場合に取りかかる部分が何もないからとりあえず「弱い脉が虚の脉ですよ」と教え、続いて「二経並んで虚しているところを見つけて下さい」と大抵は指導をします。この教え方でほとんどは問題は当初は発生しませんが、臨床では一経で終わったり相剋的に補ったり七十五難も存在するのでありますから、実際に即した考え方を提示すればと思うのです。そこで私は、証の定義を次のように書き直せばどうかと提案してみます。

『証とは、相剋関係にある臓の陰陽バランスが最も大きく崩れているところ』としてみます。

具体的には、肺虚であるなら心と肺の虚実=陰陽のバランスが最も崩れていることを表しているのだと考えるのです。以下同じように、脾虚は肝と脾のバランス・腎虚は脾と腎のバランス・肝虚なら肝と肺のバランスが最も崩れた状態にありますよとその状態を表しているのだと解釈するなら、正経の持病も相剋に補う形も七十五難型もどれも矛盾なく説明できるでしょう。

正経の持病とは,単純に一つの経のみが変動を起こしたからそれを補うという解釈と、病症が易しいから一つの経のみを補うことによって全て整ってしまうと言う解釈が存在します。しかし、単純に一つの経のみが変動しているという事は十分に考えられるのですが、時間の経過と共に全体のバランスは崩れるものです。

具体的に肺が虚す場合の病理で解説します。肺は「相傳の官」と言われますが、これは肺が心を助けるという意味です。何故助けるかというと心の非常に旺盛な陽気を巡らすのに肺気が関係しているのです。肺気が巡らす役目をしなければ心熱が肺を剋することになりますから相剋という状態になります。病気とは虚から始まるもので、そこからバランスが崩れ始めるのですから肺を補うとこの状態が解消され肺と心のバランスが整う(相剋理論)と考えます。今までなら肺経に手を加えると常に金剋木しか注目しませんでしたが病理的にはこの考えの方が自然です。

脉型で説明すると肺が変動したら金剋木の関係が崩れて肝は旺気しますが、肝は肺にいつも苛められるだけですから大した問題ではなく、心も旺気していることに注目すれば、補法で出る脉と引っ込む脉があることを診て下さい。(腎虚の時の脾が診やすい)。つまり、補法をすれば、鍼を打てば脉が出るのではなく、臟間のバランスが整った結果脉は出ると言うことです。誤治で脉が沈んだりするのはバランスを更に崩したからだと言い換えることもできるでしょう。

さらに、二経並んで虚していても、具体的には肝・腎の順で補ってもダメで腎・肝の順でなければならないケースも事実ですが、これも「腎と脾のバランスが最も崩れている」と解釈して腎虚と呼び、病理的に肝も補完的に補う必要があったと解釈すれば混乱はなくなると思います。脉型にとらわれず病理を中心にして考えても同じ結果になると思います。運用の実際になって効率よく処理するために五行論が用いられたのでしょうが、証決定には五行に惑わされ過ぎないようにとも付け加えておきたいと思います。

 

4.六十九難型について

先程『証とは、相剋関係にある臓の陰陽バランスが最も崩れているところ』と定義をしました(補足→もちろん証は虚経のことですから当然剋されている側、陰の側を呼びます)。病理・病証が前項と同一なら肺虚証となる可能性が大きいでしょう。そこで、肺経を補うと臨床では相侮理論ですから火剋金が解消されます(肺と心が平になる)。ここで、実際には六十九難型と通常呼んでいる相生治療が圧倒的に多いのは病気が軽ければ前項のように総て整うのに、病体では常に剋されている経も旺気してしまいます。(肝が旺気している)これではすぐ病気は逆戻りしてしまうので、病理的にも病が流れやすいことも手伝って母経(脾経)も補えば(肝が木剋土で押さえられる、土剋水は腎が平の為に影響は吸収される)補完的治療となるのではないかと考えています。

確かに同じ相生でも病理的に母子(肺・脾ではなく脾・肺の順)で補わなければ治らないケースが存在するのも事実ですが、「証とは臓のバランスが最も崩れたところ」とすれば脾・肺の順で補うものでも「脾虚で肺も補う必要があった」と解釈でき、混乱がなくなると思います。

 

  5.相剋的に補うケース

それでは、相剋的に補う治療は存在しないのでしょうか?

肺虚肝虚の相剋を仮定してみます。「証とは臓のバランスが最も崩れたところ」とすれば肺と心の関係が最も問題になり、肺を補うとこの関係が解消されます。通常なら肺虚に対して旺気しているはずの肝なのですが、ここにも病が入っていたとすると肺を補うことでさらに押さえつけられてしまいます。すると、そのまま相生的に脾を補うと木剋土に働きますから肝が立ち直れなくなってしまうのですが、肺の直後に肝を補えばさらに押さえつけられた肝が元の位置に復帰するだけで全体が元に戻るのではないかと考えています。乱暴ですが脉型で説明すればこのようになると考えています。

患者を病気を治すと言うことを大切に考えれば診察が甘いのかもしれませんが臨床で成績を上げている以上、経絡治療の発展のためには認めてもいい概念ではないかと思っています。福島弘道先生の独創性はやはりすばらしかったの一言に尽きます。

 

第3章 難経七十五難型の考察

.七十五難型について

この七十五難型については、今まで変症であり、現代では現われないから無視をしても良いかのような教育さえ受けてきました。しかし、生理的・病理的に考えるなら、特別な変症であるはずはないし、特例ならわざわざ古典には書かれていないでしょう。

七十五難型は、実質的には肺虚肝実の1パターンしか存在しません(理由は「古典の学び方」を参照)。脉型の基本としては肺(虚)腎(虚)肝(実)心(実)脾(平)であります。

では、なぜこの様な現象が発生するのかを説明します。七十五難型は、肺虚肝実症であります。つまり、肺と肝の間のバランスが最も崩れていますよと表わしています(異論のある方はおられませんね、最初に鍼を入れる経=証とは私は書いていません)。それでは、六十九難のように主証である肺経を直接補うと、これは火剋金の関係を解消にいくだけで肝実を押さえこむことはできません。さらに、難経には肝実を瀉すという記載はありません。       

それでは、どうやってこの肝実を瀉さずに落とすのか?そのために腎から補うという事をするのであります。腎は補うと通常は土剋水の関係を解消するはずなのですが、脾経は平になっています。すると、影響力が一方向のみに集約されて水剋火が働き心が落ちます。続いて火剋金が解消されて肺が救われてでてきます。そして金剋木で肝を押さえにいき、肝は木剋土で病を脾経に渡そうとするのですが、脾は平なので病を跳ね返し鋏み打ちになって陰実がとうとう治まります。こうして全体が整って腎の脉がでてくるのです。前にも書きましたが、鍼を打てば脉がでるのではなく、相剋関係にある臓と陰陽バランスが整った結果脉がでるのです。

病理的説明をすると、肺が虚して脾も虚すケースと腎が虚すケースがあります。これがややこしくなると相剋に進み出すケースも存在するので、表裏・相生・相剋と進むことになります。肺が虚で肝が実と言うことも存在することになります。肺の気の循環が悪くなると当然肝に熱がこもると言うことになります。これは太陽膀胱経に熱がこもって、次に陽明経に、次に少陰経にこもる時に、脾虚に成らずに肺虚のままで行く時があるのです。肺虚で腎が虚してて、つまり、肺気と腎気の、陽気と陰気の巡りが悪くなった為に肝に熱がこもると言うことがあるのです。これが七十五難型の肺虚肝実なのです。この時にはあまり肺の脉は虚したようには見えません。

 

 【症例報告】初めて七十五難型を発見した時の報告を書きます。

最も実を表わしている経を探してそれと相剋する経を疑うという方法も一つのやり方であり、初心者の教育にはむしろ早いかもしれないと追試をしていた最中に、明らかに肝が実(それも邪実のように荒々しい)を見つけたので脾を診てみるとこれもまた実に見えてしまいます。いくら手を揺らしても、力加減を変えても両方が実にみえてしまいます。困り果ててふと腎を診てみるとこれは抜けたような脉で虚と思う。「何だ、腎虚か」と早合点をして指をあてようとしましたが、どうも違う。病症は、強烈なクーラーが腰だけにあたって発生した急性腰痛で、まさに条件はぴったり。もしかして、常に六十九難の頭しか無いから、脾を実と平とで見間違っているとしたら七十五難型ではないのか?

そこで、腎を触ってみると脉がでない。しかし、しばらく触っているとあれほど荒々しかった肝の実が治まったと同時に腎の脉が出てきたのであります。恐る恐る鍼をしてみると、これが自分でも驚くほどの良い脉になるので、復溜と陽池の二穴で終わったら患者からも「スッキリした」と感嘆の声が漏れてきました。 同じように肝の実を見つけて脾虚かと思い探りに行ったら実に見えるケースを調べあげると、特徴的な脉として腎が抜けているのです。「抜けている。」という表現がピッタリの脉状で、通常の虚であるなら菽法からかなり外れていてもどこかで脉は触れるのですが、どこも抜けて脉を触れない感じなのです。

七十五難は腎が抜けてて、しかも肝が実、付け加えるなら脾も実に見える(本当は平)。その治療法は、腎経(復溜か陰谷)を長めに十分に補い、陽経の処置をほとんどの場合は三焦経(三焦の原気が直接補えるところですから陽池になると思います)を補う。確認法としては、腎経を指で押さえてしばらくするとまず肝が落ちてから腎経がゆっくりと出てきて、全体が整うことであります。

誌面の関係で先ほどは偶然遭遇した例しか示しませんでしたが、慢性の七十五難型というものもあって特に女性のおけつ性体質に多いようです。「正経の持病じゃなかったのか」とも言われそうですが、陽経の処置によりさらに脉が改善されたのですから正経の持病とは違うと思います。

この七十五難型で腎に施術をしているにも関わらず最後になってからでしか脉がでないという現象が分かって頂けたと思います。指の下で確認をしてもらえれば、誰もが納得してもらえることと思いますが、この様に特殊な脉の整い方をするのですから、決して頭だけで考えたのではないことも分かって頂けるでしょう。

 

4章 まとめ

.脉を診る意義

良い脉と悪い脉とは、これを初心者に分からせるのは、たいへんに苦労をします。初心者には何も取り掛かりが無いので、例えば虚脉については力の無い弱々しい脉と教えるのですが、実は虚脉でも正気が虚して大きく広がっていたり、細くなりすぎて指を突いてきたりと種類があり困ってしまいます。まして良い脉となると、締まっていて、太さがあって、艶があって、なんて絶対に分かりません(私は分からなかった)。

そこで、時には瑚Iなども使いながら落差を付けてみせるようにしています。つぼを押さえながら姿勢を崩して圧をかければ脉は細く跳ねて数になりますので、「この脉を5分触り続けられるか?」と聞くと大抵は「いいえ」と答えます。当然ですね。指が痛いですから。そこで、姿勢を戻してやると脉は緩やかになり和緩を帯びますので「この脉なら5分触れるか?」と聞くと「はい」と答えるでしょう。だから、良い脉とは触っていても気持ちの良い脉で当然身体も良好なはずだし、悪い脉とは触っていても気持ちの悪い脉だと教えるようにしています。

私は自分の体験からも大きく落差を付けて(或いは設定して)観察するのが脉診を早く上達させる方法ではないのかと考えています。これは脉差だけでなく脈状の観察についても同じことです。

そして、相剋的に脉を診るという事は、何もいまさら私などが言いださなくてもすでに経絡治療家であれば全員が行なってきたことです。しかし、ほとんどの場合は証の決定の為(虚を探す)の目的で診ていたと思います。そうではなくて、陰陽バランスがどのようになっているかに注目すれば、ますます脉診はおもしろくなってくると思います。特に平の脉を診るということが軽視されてきました。五行論のパズルみたいになってしまいますが、平を探すというのも証の判定を容易にしてくれると思います(相対的ですが必ず存在します)。平の母経を証として仮定する方法です。肺なら脾虚、腎なら肺虚、肝なら腎虚、心なら肝虚、そして脾なら心虚は存在しませんから七十五難型と言うことになります。

先程の七十五難型であれば、平に相剋する経を補うことによって影響を一方向に集約するという方法を可能にしました(六十九難型では、平に相剋する経は実になっているので補えません)。六十九難の二経目を補った時に平が影響を吸収してくれるので治療が成立します。相剋的に補うケースは平の存在によって可能となっているのです(ですから、陰経には二本までしか打てないことになります)。

 

「診断は陰陽、治療は五行」と言われますが、この診断は臓の間の陰陽バランスのことであり、治療は陰陽だけでは堂々巡りになってしまうから平を加えた五行によって行なうという意味だと解釈できます。

最後に念のために断っておきますが、今回私は実の脉に注目することによって、それと相剋する経が証になるという仮設を追試して七十五難を発見しました。しかし、脉診とはこの様に単一の物差しだけで行なおうとすると、すぐに迷ってしまって恐くて鍼がさせない状態にさえなってしまうでしょう。脉診をするには、より多くの「持ち駒があり、それらによって知識が瞬時に引き出せるように鋭い感覚を磨くことが、我々の使命だと思います。学者になるのではなく、臨床がよりスムーズに進められるようにと願って研究をした結果が、このようになっただけなのです。

 

終わりになりましたが、批評をして頂いた池田政一先生、長電話をしたり余計に一本ビールを飲んだりしながら論争し共同研究して頂いた先生方、特に天野靖之先生と新井敏弘・康弘先生には感謝します。また中間段階でテスト講義をして意見を与えてくれた小林久志先生と小栗佳代子先生(彼女にはワープロと編集を手伝ってもらいました)には、感謝の言葉を贈ります。

  参考文献

福島弘道 「経絡治療要綱」「わかりやすい経絡治療」(東洋はり医学会事務局)

池田政一 「古典の学び方」(上) (医道の日本社)

 

【補足】 腹診について

あくまでも中間段階ですが、現在までに難経七十五難型の判定を目的に追試の結果判明した腹診について。

「癪」を中心に診ると分かりやすいようです。難経の腹診では左季肋部を肝癪・右季肋部を肺癪・腹の中央を三部に分け上から心癪・脾癪・腎癪と概ね解釈し、指先を立てないように注意しながら指三本くらいで結構強く押さえて圧痛があれば癪と診ます。

七十五難型は肝癪+心癪になっていて腎癪には不快感があります。もしも脉診で肝実が認められても肺癪であれば脾虚です。ちなみに腎癪は腎虚ですが、それ以外は単純に癪=証にはならないようです。

それから、手術痕などがない限りは慢性症であっても最低圧痛が取れていなければ手技が不十分ではないかと思われます。




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