証の考え方について⑵

──── 陰実証について ───          

二木 清文

 

『漢方鍼医』創刊号に於いて私は「難経七十五難型」を中心とする発表を行いました。その後、各方面から追試を頂きどうやら七十五難は「特殊な変証」から「普通の証」へと市民権(?)を獲得できたようであります。

しかし、真の意味での陰実でなくとも相剋的に実を表している証はあり、意識的に治療しなければならないケースが多数存在します。そこで、今回は陰実証に焦点を絞りその考察の中で「七十五難は七十五難と意識しなければならない」という主張をしたいと思います。

 

 

メインテーマ = 証の考え方について

基本的な主張は前回と何ら変わりません。経絡治療で最も大切なことは脉診であり、証です。脉診と証は一致しなくてはならず、証は病理・病症から導き出されるものでなければなりません。すると、脉診は比較脉診ではなく脉状診でなければなりません。

この論文では前回の復習から用語の整理を行い、更には理論上存在する陰実を取り上げ臨床上存在するものには治験例も加えておきました。七十五難に於いては「意識的に治療する」とは何かを考え、衛気と営気の補い方の提案から条文の一部解釈を試みました。私は前回も今回も新たなテクノロジーを開発したつもりはありません。漢方医学は既に完成された形態を持っているのですからその中でテクニックを開発していると思っています。以上が今回のブラッシュアップです。

 

前回の復習

元々の発想は、公式的な「経絡治療」のやり方と日々変化を続ける臨床の間でいかに初心者の教育を円滑に進めるかを前提に観察し始めたところであります。すると現在の漢方鍼医会では当たり前になってしまったことですが、まず「陰陽」の概念について比較する事象が「陰になりやすいか」「陽になりやすいか」に因ってたまたま呼ばれる名前が「陰陽」という呼び名であっただけなのです。これはいちいち命名され直す柔軟な概念であったことをゲームに例えて再確認しました。

そして陰陽がとても柔軟な概念であったならば臓と臓の間でも陰陽が成り立つのではないか?初心者の脉診力を育てるには落差を付けてみせるのが最も効果的であるから、たった1種類しかない実脉を見つけてその相剋経が主証になると教えればと追試を開始したのでした。この方法は病体に接したときには非常に乱暴な診察方法でありましたし「五行論のパズル」と非難されましたが、それなりに脉診力があれば相当に有効な方法です。

そして実脉を探して証を早く求めることに夢中になっていた時に、いかにも「肝実」という脉に遭遇し「やった脾虚だ」と喜んで指を当てるとどうもおかしくて、腎の脉を診れば指に触れなくて、感覚が主観に流されたかと経穴を探りにいこうとして脉型が理論と合わないことに気が付いた。これが七十五難型を発見したきっかけでした。実脉だけでなく平脉にも着目するようになり証の定義について考え方を提示しました。

すなわち証は最も症状が多いとか虚を表す経絡には間違いはないのですが、さらに相剋関係にある臓の陰陽バランスが最も崩れたところとすれば六十九難に留まらず、七十五難や正経の自病などあらゆるケースについても矛盾がなくなると発想したからです(病理から考えれば当たり前のことですが、案外定義されていなかった)。

このような証の考え方より様々なケースを考察し、或いは脉診に於いて「なぜ個人差がでるのか」などの意見を書かせていただきました。以上が前回発表した内容の要約です。

 

相生・相剋・相乗・相侮

これも前回の繰り返しになりますが五行関係について繰り返しておきます。

・相生関係は生み生まれる関係でありますから、病の伝変に重要な意味があります。難経はこの相生関係を全面的に押し出して治療法則を確立しました。

・相剋関係は秩序形成のための生理的関係であります。ジャンケンで例えるならパーはグーには強いがチョキには弱いと極当たり前の秩序のことです。パーはチョキに負けるから悔しいだろうけどグーには勝てるし、そのグーがチョキをやっつけるから結局みんな仲良しになって喧嘩にはならないわけです。

・相乗関係は過剰相剋のことです。ジャンケンの続きで説明するならパーがグーに勝って良い気分の上に更にお金まで巻き上げるようないじめの状態です。

・相侮関係はニュアンスが若干違いますが一言でいうなら逆相剋です。同じくジャンケンでいえばパーはグーに勝って当たり前ですが、病的にグーが暴動を起こし勝利者のパーを殴ったり蹴飛ば暴挙で押さえつけてしまう現象のことです。

もう一度整理すると相生と相剋は生理を表して相乗と相侮が病理を表しているのです。今まであまり相乗と相侮については取り上げられていませんでしたが病理を理解する上では非常に大切な理論であり臨床に於いて脉の変化を理解説明するには必要不可欠の概念ですのであえて再録しました。

 

再び証について考える

そこで再び証について考えてみます。結論から先に書くと「相剋関係にある臓の陰陽バランスが最も崩れたところ」の主張は変わりません。あくまでも一側面での捉え方ですからこれが総てだと主張する気はありませんが、脉の病理考察を円滑に進めるために頭に入れるべき概念として提示させていただきます。

そして三焦の原気を考慮した呼び方をする場合でも剛柔治療でも、病理の改善という目的のためには「相剋関係にある臓の陰陽バランスが最も崩れたところ」と一文句を付け加えて覚えていただきたいのです。

 

陰実証について

ここからは今回の考察である陰実証について書かせていただきます。

まず、様々な発表で言い尽くされている調経論にいう四大病型ですが陽気は能動的で熱を主り、陰気は受動的で冷えを主る気であり、この陽気・陰気がどの様な状態になっているかを述べています。

陽虚証は陽の部に陽気が不足した状態あるいは肝の血が不足(血そのものは陽)つまり熱を主る気が不足するので冷えの状態で脉は沈になります。陰虚証は陰の部に陰気や津液が不足した状態で冷却を主る気が不足するのですから熱の状態を表しますが、不足の状態で発生した熱ですから虚熱で脉は浮になります。陽実証は陽の部に陽気が充満停滞した状態ですから熱を主る気が多いので当然熱を表し脉も浮になりますが、腑や肺が熱を持つと沈になります。

陰実証は、陰の部に熱や血が停滞充満した状態で(血は熱を持っている=熱血室に入る)熱病症を表し脉は沈実になります。臨床的には血の停滞はお血に移行しますからやがて表面には冷えも表すと思います。陽虚陰盛とは違います。

それでは、陰実証はいかなる場合に発生するのか?まず「病は虚から始まる」ということを踏まえると虚経に対する相剋の形で発生することになります。公式的に考えらるケースから書き出してみます。

 ❶心虚肺実証   

 ❷心虚腎実証   心が虚すと死亡をするので初めからこの二つはない。ついでに、肺と心は臓でも陽臓なので陰実とは言えない。

 ❸肺虚心実証   陽臓であるから陰実ではない。後述する腎虚で心実と同じであろう。

 ❹肝虚脾実証   肝虚陽虚の時にそれらしくはみえるが病理から言って血を貯蔵する肝が虚しているのだから違う。

 ❺脾虚腎実証   これは脾が虚して腎の津液不足により脉が堅くなっているのだから陰実とは言わない。

 ❻腎虚脾実証   これも脾虚陽実の時にそれらしくみえるが、元々脾虚で腎の津液が不足して腎虚に転じたもので、不足した状態を陰実とは言わない。

さてここまでは脉はそれらしくとも病理からは完全否定の組合わせですが、本当の「陰実」と言えなくとも確実に相剋経を意識しなくてはならないケースを次に書き出してみます。

 ❼腎虚心実証   これは結論から書くと心は陽臓であるから陰実とは言えない。しかし、病理からも臨床からも存在する。重症の場合は俗に陰虚火動と呼ばれる。房事や過労により腎精(水)が不足し陰虚証となり、上焦に昇って熱の旺盛な心が更に熱せられた状態である。全身的に津液或いは陰気の不足した状態だと言える。病症は小便自利又は不利・夜間排尿・手足煩熱・口渇・動悸・胃疲労など。

【治験】患者五十二才 主婦。主訴は二ヶ月前より動悸がして口渇と全身倦怠。皮膚は浅黒くて、呼吸が浅い。脉は数だが思ったほど浮かずに全体的に硬い。特に心の部の硬さが目立った。治療は右治療側で腎虚としてドーゼを考えて瑚Iで復溜を補うと全体の硬さが取れ心もかなり柔らかくなった。続いて尺沢と委陽を補い標治法も総て瑚Iで行った。経過は全身疲労が回数を重ねるごとに改善し、この時初めて夜間排尿が止まったと聞かされた。五回目で自覚的な動悸が治まり、八回で全治とする。尚三回目より本治法のみ豪鍼に変える。

考察としては復溜一穴により数脉と心の硬さが見事改善されるのだから腎精の不足だったことが明らかとなった。他のケースでも腎虚のみの治療で充分であろうと思われる。

 ❽肝虚肺実証   これは肝虚肺燥証として表現されている。労働などで肝血が不足すると陰気陽気の交流が悪くなり上熱下冷となって肺が熱せられ津液が不足していると乾燥してしまう証である。したがって津液不足が肺脉を堅くしているので、不足した状態を実とは言えない。また、肺は陽臓だから陰実とはならない。病症は咳・粘痰・赤ら顔・のぼせ・動悸・不眠などを表す。肝の陽気が収まりきれずに夜中から出てくるので夜中に目が覚めて咳をする。治療を考えると肺の方にむしろ問題がありますから魚際あたりを補う方法も考えられますが、本質的には肝虚から病気は始まっているので陰虚証の取穴に従って肝血を増やしてやれば良いと思われます。

【治験】(これは953月の実技公開の2例目のモデルです)患者は三十代男性。主訴は花粉症で鼻が出て、咳も出る。他覚的にのぼせと赤ら顔があり、夜中に咳も出るという。治療は右治療側で曲泉を補うと肺の脉も柔らかくなり、陰谷と委陽・三里を補い、標治法では花粉症は上焦と中・下焦の交流の悪さから来るのだろうと隔愈を入念に処置した。

考察としては、肺燥証であれば脉は沈・・細となるべきではないのかと指摘も受けたが、は認めても演者達は沈ではなく浮だと見ていた。しかし、発症後の経過が浅いためではなかったと思う。陰虚を意識した取穴を行えば特に肺経には手を加えなくても良いと思われる。

 ❾脾虚肝実証   これも結論から書くと、実とは気血津液の充満停滞した状態を言いますからそれを作り出す脾が虚していると実はあり得ません。しかし、この証は意外に多くしかも瀉法が必ず必要です。熱病の時に、暴飲暴食などで脾を虚し太陽経で発生した熱が少陽経を通って胆が熱を持つことがあります。そして胃も熱を持ち脉は弦・数になります。病症は食欲不振・口渇・往来寒熱・胸脇苦満・黄疸などです。

【治験】患者三十代男性(本会会員)。主訴は頑固な鼻づまりと胸脇苦満・往来寒熱。一ヶ月前より鼻づまりがして熱っぽく、同側の脾肝などで治療はするもののいまひとつ。そこで脉証はまさに脾虚肝実でも正確には胆実であるから、まして熱があるのだから瀉法を行わないのはおかしいと右太白を補った後右光明を瀉すととたんに鼻が通り出す。陽池を補うと脉の弦も取れた。 (953月の実技公開の一例目もこの証だと思われます)。

考察としては変に瀉法を恐れていたことと脈証にごまかされていた節があったと反省している。慢性の脾虚肝実になると胆から肝に熱が侵入するので特にこの場合は脾を補ったら熱を増やすので心を補わずに直ちに胆を瀉すべきだと思います。

 

七十五難を用いるケース

 I肺虚肝実証   残るはこの形しかない。陰臓である肝の気が熱を持ったり停滞する、或いは古くなってお血になった状態はまさに陰実である。先にも説明したが脾虚肝実も確かにあるが、生気を生成する脾が虚しているのに実はあり得ないからやはり肺虚肝実のみが真の意味での陰実であり唯一の変速だからこそ、全く別の治療法が必要だったとしても不思議ではない。急性症で発生する場合は熱病が少陽経へと進みさらに陰経から肝に入って、肝の蔵する血に熱が多くなる。或いは肺気と腎気が虚し、その為に血の循環が悪くなり肝実となる。慢性症の場合は何らかの原因でお血が起こり、これが腎の津液を乾かしてしまう状態である。つまり肝実はお血だと思っても差し支えがない。男性にお血は少ないが意識してみる価値がある。

脉証は肺の虚はさほど目立たず腎の虚と肝の実が明瞭である。故に、私が相剋関係の反対側は陰陽関係にあるのにそれに反しているので発見につながったことは繰り返しているとおり。

病症は急性の場合は熱病中に多く、微熱が続き盗汗があり上半身に汗が出やすいか下半身が冷える。虐病様の熱が出ることもあり悪寒がひどくて発熱がない。熱がない場合には不眠不安感などの神経症状を訴えてくる。慢性の場合はお血の症状を訴える。肩こり・不眠・腰痛などで神経症や鬱傾向がある。水が少なく血に変わらずに、月経が少なく水によって肥満している女性は多い。この場合は便秘をしているが食欲がある。

治療は、前回も書いたが肝実を落とすために鍼の影響力を一方向に集約するという方法をとる。腎の金穴復溜を補うと通常は土剋水の関係を解消に働くのだが土経は平であるから影響されずに水剋火を解消に行く。続いて火剋金・金剋木と働き木剋土の段階で土は平であるから病を跳ね返して挟み撃ちになり、ついに実が治まって水の脉もでる。このような理論であるから六十九難のようにリアルタイムで脉が変化してこないのがミソである。

【治験】患者三十四才 主婦。主訴は後頭部のみにハチマキを巻かれたような圧迫感があり心配で眠れず肩こりや腰痛も併発してきた。のぼせもあり、最近特に神経質になったとも言う(他の治療法がことごとく効かなかったせいもある)。元々急性熱病で、肝血が停滞したものが服薬などにより慢性に移行したものと見る。治療は右復溜と陽池を補い左支正を瀉す。標治法は気を巡らす程度に留める。経過は、最初のうちは治療後だけ圧迫感が取れていたが次第に効果が持続するようになり、同時に不眠や神経症も改善されて十回で全治とした。

しかし、長めに手技を行うというだけでよいのだろうかとふと思った。いろいろと試してみると多少違ってくる。肝実を落とすのだから血を積極的に動かす必要がある。普通は気を補うといっても衛気を補っているのだろうか。多分そうであろう。すると、七十五難の手技においては営気を補う必要があるのではないだろうか?

 

衛気を補うのか・営気を補うのか

七十五難型の肺虚肝実では営気を意識的に補う必要があることは判っても衛気と営気に対する手法の違いは今まで発表された記憶が私にはない(単に勉強不足であれば是非教えていただきたい)。そこでこれまた初心者への指導を念頭に追試の結果一応の成果をみたのでここに掲載してみたいと思います。そして皆様の追試をお願いしたいと思います。

まず我々が今まで「気を補う」と表現してきたのは、衛気のことでありこれからもほとんどのケースは(七十五難を除いては)衛気を補うことになります。はたして正確に衛気が補えているのだろうか?悪口を書くつもりではないが必ず相剋に鍼を入れていた時代の脉を思い返せば確かに「いい脉」ではあったが全体的に堅かった(手技の問題ではなく方法論から自然と堅くならざるを得なかった)。そして菽法を無視した脉胃の脉を出そうというのだから自然と鍼は深くなるはずである。今から観察すれば本当に深い。もしも手技に変更を加えずに脉診と方法論だけを変えていたとしたら、鍼が深すぎて衛気を補っているとは言えないだろう。

良く知られている話だが簡単な実験をしてみればいい。適切な高さの机の前に立って押し手を作ってみる。その状態で無理に首を前に曲げて頭を垂れてみると下圧がかかることが判る。反対に顎を出さないように正面を向くように頭を上げれば下圧はかからない。盲人であっても穴所をみるような姿勢で鍼を行おうとする人がいるがこの場合も判るように頭を下げただけで本人は最大限軽くしているつもりでも下圧がかかっているのだから良い手技にならない。下圧がかかれば当然鍼も深くなるので『正確に衛気を補うにはまず姿勢を直すべし』と言うことが明らかになった。

頭、顎を出さないように正面を向くことは今述べたとおりだ。次に姿勢全体はと言うと、頭と同じ事が言えるのだから背中や腰を曲げてはいけない。それから軽く自然体に曲げる程度ならいいがやたらと膝を曲げたり、反対に踏ん張るように足を開いて立ってもいけない。足は肩幅で爪先を平行にする。ところがこの爪先の平行というのがミソでほとんどの人ががに股である。これも研究会の時などに手伝ってもらって確かめてもらえば良く判る。

実験方法は簡単で、最初に自分がよい姿勢だと思う立ち方であるところから肩上部を揉んだり叩いたりしてもらって硬さを調べる。次に(ここがミソ)爪先を自分では内股ではないだろうかと思うくらいに狭めてみる(極端にはしないように)。そして再び肩の硬さを調べてみれば不思議なくらいに柔らかくなっているはずである。或いは深呼吸をしてみるのも良い。自分で平行だと思っているときとやや内股だと思っている時とでは圧倒的に呼吸の深さが違う。楽に腹の底まで呼吸が入ってくるし「臍下丹田に気をこめる」とはこの事だと実感してもらえるだろう。つまり、やや内股気味の姿勢が最も自然体に近いのではないかと実践中です。その証拠が肩も緩むし呼吸も深くなる。自然体で立たないとどうしても肩に力が入って鍼が深くなってしまう。あるいは、姿勢は脉診や取穴の際にも重要で、特に姿勢を崩した状態と自然体でツボを見比べてもらえるといかに感覚に影響を及ぼしているかが判るでしょう。

この立ち方で行う手技が純粋に衛気を補えることにつながると思われる。続いて営気についてだが「血」を動かすのではないのだからやはり自然体で立たなければならない。その上で鍼を『意識して』支える程度の力を加えると良いようである。

話が若干それるようだが鍼はどの様に持つべきか?既に当たり前のことだがリュウズの先や鍼体だけを持ってはいけない。結局は竜頭を持つのだが竜頭と鍼体の境目に力点が来るように持ち指先は鍼先に向くようにする(せっかく気をこめても鍼先の方向に向かわなければ意味が無くなってしまう。その意味で指が安定するように長柄鍼が考案されているのだ)。

これを考慮に入れて再考察すると、最近の短い鍼ではいくら力を抜いたつもりでもどこかで重くなるので衛気に対しては極めてソフトに持つだけで特別に鍼を動かす必要もないと思います。営気に対しては必然的に補いに時間がかかるのですから、そのうちに疲れて重くなるのを考慮して『鍼を持っている』と言う感覚を意識しながら手技を行えばいいのではないかと思います。

取穴の際にも指の重さは衛気と営気の関係を反映しているように感じています。本当に七十五難型であれば復溜は凹んでいますから特に意識しなくてもそうなるとは思うのですが、やや重い感じで指を当てると脉も腹証も変化がなく確認できます。

 

七十五難の治療法の試案

では、衛気と営気の手法は違うものとして(いやはっきり七十五難は七十五難だという意識を持たないと治療は出来ないのだが)まだ試案の域ですが治療法を考察してみます。

条文は略しますが「北方を補い南方を瀉す」という部分の解説が本によってまちまちです。とりあえず一致をしているのが「北方を補う」の腎を補う部分です。ここでは腎経の自穴である陰谷であるということも考えられるのですが、やはり肺経が補えないから腎経を使うのであって金穴である復溜を用いるべきでしょう。臨床においても圧倒的に復溜だと思います。復溜を補うと五行は平らになったはずなので「南方を瀉す」に移りたいのですが・・・これが心経心包経などを探っても芳しくはないし、陰経には直接瀉法を加えないための七十五難だからカテゴリーエラーとなる。

ここでややずるいようであるが臨床においては三焦経の陽池を補うと好結果が得られることから逆に考えてみた。すると復溜を補った段階で脉は一応揃っているかのようにみえたのだが実は命門が堅いままであることに気が付いた。肝実を落とすために復溜を用いたが腎経はその入り口であって恩恵をあまり受けていないのではないか?だから三焦経から腎の陽気を補ってやるという理由が付けられる。実際に陽池を補うと命門が柔らかくなるし、腎に和緩を帯びてくる。ここまでは前回の治験例の中に理由は判らないままに述べている。では「南方を瀉す」とは?

他の難ではみられない方角での説明がもしも脉位の説明だったらどうなるか?南方は寸口だが陰経は瀉さないから大腸経か小腸経になる。答えは小腸経に瀉法を行う。これも実は敏感な患者の臨床の中で発見したことを後から理由づけしたものなのだが、良く観察してみると確かに小腸は実になっていて瀉法を加えると一層艶のある良い脉になるでしょう。

もう一度整理すると「北方を補い南方を瀉す」とは脉位を表したもので復溜と陽池で北方を補い小腸経で南方を瀉すだと解釈できます。現在の解釈では選穴まで指定してしまうのでバリエーションに欠ける問題点は承知していますが、是非御追試下さい。

 

まとめ

前回も書きましたが池田先生より「患者を・病気を忘れているのではないか」との痛烈な言葉を頂きました。七十五難を提唱した立場からも「陰実」という課題を持って脉診の修練に取り組みました。そして得られた結果が『七十五難はやはり七十五難と区別し営気に対する手法を用いなければならない』ということでした。

読者の中には「またややこしい方向へ向かってしまうなぁ・ついていけないなぁ」とため息混じりの人がいるかも知れません。しかし、この論文に限って言えば今までの方針の方が屈折していたのですから、本来の姿を取り戻しつつあるという事なのであります。

もう一言付け加えるなら、我々は研究によってテクニックを磨いているのであってテクノロジーを開発しているのではありません。仮に漢方理論への懐疑心から理論の概念を覆すようなアプローチを試みている人がいたとしたらそれは「研究のための研究」であって、その人の特技としてその人の患者には効果が上がってもカテゴリーエラーであり、その姿勢は間違っていると思います。あくまでも基礎の理論を崩さない程度の「揺らぎ」という形でテクニックを磨くのが漢方の研究だと思います。既存の枠の上でテクニックを磨いてその結果新たなテクノロジーが開発されることはあるかも知れませんが、基本的に漢方医学は既に完成された理論の上でテクニックを磨くものだと考えています。

 

  参考文献

池田政一 「難経ハンドブック」、「古典の学び方」()                              医道の日本社      「臓腑経絡からみた薬方と鍼灸」       漢方陰陽会

福島弘道 「経絡治療要綱」        東洋はり医学会事務局

漢方鍼医会 「漢方鍼医」

フリッチョフ・カプラ 「ターニング・ポイント」     工作舎

 

補足:腹診について

腹診についてはまだ理論的背景が理解できていないので、補足として記します。

難経の腹診については前回の通りですが、触圧の仕方を提言してみます。指先で押さえてしまう人が多いようですが、出来れば指頭そのものは避けて遠位指節間節付近に力点を置くようにして指腹でみると良いようです。

結論から書くと腎癪(腎癪の場合は抵抗ではなく鈍麻だが)は腎虚で、肝癪と心癪が同時に現れれば七十五難型の肺虚肝実であります。肝癪は肝虚になりやすい。肺癪は脾虚になりやすく特に抵抗が強いと脾虚肝実になりやすい(ともに腎癪がないか要注意)。肺虚に関してはデータ不足で発表できる段階ではない。

どの証に対しても言えることは、正しい証であれば経に触れただけで必ず緩みます。これを応用して脉診が困難で判断に迷った場合には慎重に軽擦をしてみて腹部の硬さを比べるとより客観的であります。更に正しい経穴の方がより緩みます。前回に手術跡などの場合は困難だと書きましたが、触診を工夫した現在では相当の変形があっても有効であることを確認しました。




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