脳死移植と鍼灸医学について思う

(滋賀)二木 清文

 

1999228日に臓器移植法に基づく、我が国初の脳死患者からの提供臓器による移植手術が実施されました。マスコミの報道体制に関して多々問題はあったものの、国民の間に脳死移植に対する意識を強烈に植え付けるとともに医療に関する認識をも印象づけた出来事でした。われわれ鍼灸師にとっても他人事ではなく重要な機会だということで筆者に編集部を代表して論考を書くように命ぜられました。

そこで3月の臨床懇談会の討議を踏まえて更なる考察をしたいと思います。

 

結論から書いてしまうと加藤浩氏が発言されていたように『個人の思想が物心一元論か物心二元論かによる』に尽きると思います。物心一元論の人は結城正範氏が「漢方医学では命絶というように臓腑それぞれに魂が宿っている」と発言されたように臓器の提供が嫌とか解剖されるのが嫌とかいう以前に魂の尊厳が大切なのだと思います。対して物心二元論の人は中山真寿美氏が「母親が死んで腐っていく過程を目撃したら死体とは単なる物体なのです」と発言されたように放置しても無駄になるだけなら利用すればいいじゃないかという発想になるのでしょう。

ところで、我が国では脳死移植が何故ゆえにこれほど話題になるのでしょうか?ご存知のように1968年のいわゆる“和田移植”といわれる心臓移植手術とその失敗らしい結果がネックとなっているからです。しかし、米国を中心とする海外では脳死移植は着実に成果を上げ、邦人で移植を希望する人の中には莫大な費用をけてでも渡航し幾例もの生還者を排出し、また防衛会議でシュミレーションを繰り返すと戦争がやりたくて仕方なくなる衝動に駆られるとの証に似て移植に備えた会議でシュミレーションを繰り返すと移植手術が実行されないことの方が不思議でストレスとなり、『脳死移植法案』は日本人の死生観を全くではないにしてもほとんど討議することなくニーズと圧力に呼応しきれず成立させられた法律だと書けば言い過ぎでしょうか?

 

さて、現在では確固たる医療の位置を占めている生体間の移植技術ですが、例えば腎臓は左右二つあるので一つだけでも充分だし(昔は完全に入れ替えていましたが現在では新たな腎臓を並列に付け加えて三個体制にすることで元の腎臓の活性化も図っているそうです)輸血は最も身近な臓器移植の形態であ、いずれも提供側に生命の支障がないので授受にも問題なしとされてきました。

しかし、脳死移植の法成立を待ちきれない形で実行されたのが肝臓・肺臓・小腸などの代替がないので一部のみを切り取り移植を行うという技術です。リスクが格段に増加する方法がどうして頻繁に行えるようになったのでしょうか。具体的な手順で差を説明すると移植に際してドナー・レシピエントそれぞれに情報を収集しておくことは必須ですが脳死移植では時間に追われるので一発勝負の面も多く対して生体間では綿密な染色体情報に加えてCTなどから描いた立体映像で納得いくまで何度でも手術手順の全行程が計画できるレドックス理論に基づいているからです。つまり脳死移植ではイレギュラーに弱いのですが生体移植ではイレギュラーの可能性そのものがほとんどないので成功して当たり前、生存率も極めて高い技術となっているのです。

 

 

このように書き進めると移植医療は人類を幸せの方向に必ず導いてくれるかのように錯覚しそうですが現代医療システムの実態を考慮すれば、ましてわれわれ漢方鍼医会の目的を振り返るなら対岸の火事を眺めている雰囲気では済まないでしょう。

ここで考え方が肯定派と否定派に別れてしまうケース(例えば癌告知の肯定・否定や中医学と経絡治療など)では、途中で立場を入れ替える形式で討論する方法が面白い結果を出せます。では、ここから独断ですが私が架空座談会を展開してみます。

 (肯定派)移植は既に実績を上げ続けている立派な医療ですよ。何よりも患者の命が救われ健康を回復している現実は何にも変えがたい『真実』と言えますよね。免疫抑制剤の開発も順調で、もはや大きなリスクを覚悟で賭けに出るという感覚ではないと私は感じているのです。

 (肯定派)既にドナーとなられ臓器を提供された方々には気の毒なケースも多々あったでしょうが、生命に始まりがあれば終わりも来るもので「脳死」状態で死を迎える出来事は好むと好まざると日々発生をしているわけです。積極的な言い方では「使えるものを無駄にすることはない」、消極的な言い方では「死んでいるのに痛いも何も分からないのだから臓器を摘出しても別にいいじゃないか」というところでしょうか。死んでも人様の役に立てるというのであればそれは素晴らしいことだと考えています。

 (否定派)移植によって生命と健康を回復した人たちが多数おられるのは現実でしょうが、誰かの生命を踏み台にしてまで自分の生命をながらえさせたいと私は思いません。免疫抑制剤が進んだとはいえ完全に離脱できなければ誰かに管理された不自由な生命であり突然の拒絶反応の恐怖を感じていないレシピエントが果たしてどれくらいの割合でるのでしょうか

 (否定派)まず脳死といいますが医者に判断されてしまうということが不満ですねぇ。百歩譲って脳死状態からは奇跡の回復はないと認めても日々発生しているのだから無駄にすることはないといいますが、現代機器によって“生かされている”から発生するのであって放置すれば必ず短時間内に心臓は停止するのですから心臓死をもって死亡とすべきだと主張します。

  現代機器が脳死そのものを生み出したとさんは言われましたが、例えば心筋梗塞のように一旦心臓を切り出す必要のある手術は現代機器の助けなしには成立しないのであって、この患者たちも不自然に生きながらえているというのでしょうか。

  いえ現代機器のすべてを否定しているのではありません。さんが言われるように現実は何にも代えがたい『真実』とは思いますが、他人を踏み台にまでしなくてもいいのではないかといいたいのです。ある不治の病の少年が同じ病棟の子供たちに指でピストルを向ける真似をしていたと聞きますが、誰かが死んでくれないと自分が生きられないんですよ。

 さんもさんもドナーの犠牲があることをいいたいのでしょうが、他人を踏み台にしようが自分がされようが今生き続けようとする患者を救うことが大切ではないかと改めて強調したいですね。

  しかしさん、他人の臓器を埋め込まれたレシピエントが子供をもうけた時にどのような影響が発生するのか予想されているのですか。例えば輸血なら短期間内にすべて破壊されて自家製のものに置き換わってしまいますし生体移植でも血縁関係の濃いドナーから提供されますから酷似した染色体のはずですが、全く他人の染色体の臓器がどのような影響を次の世代に及ぼすのかを考えると原子力発電が今を潤して将来のツケを貯めていることと同じに私は見えるのですが。

   《ここで肯定派・否定派の立場を逆転してもらいます》

  D ただ逆の立場から喋ってみろと言われると、実際に自分が死を目前にしたときに「他人を傷つけてまで」と格好良く悟りが開けるか大いに疑問ですね。知識としてはあっても「移植なら助かる」と直接耳で聞いてから心が動いて渡米してしまったとあるインタビューで聞きましたからねぇ。

 私も実際の立場になるとどう取り乱すかは分からないですね。免疫抑制剤ほど大げさなものでなくとも薬が必要なときも確かにありますし、命に関わるときには迷わず外科手術も受けるべきと思いますからね。

 確かに現代機器によって心臓をはじめとして昔ならできなかった手術によって健康を回復している人たちがたくさんいますが、その代償として機器に頼るあまりの検査漬けや薬漬けとなり心臓と肺の患者を間違えて手術してしまうなどの事故も発生していますね。費用も莫大なものとなり少数の患者が財政を圧迫して多数の患者の負担を増やしているとするなら医療は皆に平等でなければならないのに不公平です。

 時間経過とともにアメリカのようにドナーカードがなくとも遺族の承諾だけで臓器提供が可能となれば、ドナーが抱いていた死生観などは無視されてしまうことになります。しかし、アメリカの大病院では牧師が常駐していますし霊安室とは別にスクリーミングルームという家族が泣くための部屋があり、気持ちの整理ができるように配慮されていますからドナーのことを最大限に尊重しながら決断ができるのでしょう。日本も含めて家族への配慮が少ない医療体制の国では大きな問題となっているところですね。

 移植希望者は増加の一途なのに対しドナーの不足は悩みの種で、途上国では施設の子供を攫って人身売買ならぬ臓器売買が行われているとのショッキングなニュースも聞きます。

 しかし、世界中では年間四千もの移植手術が実施されていますね。

 マントヒヒの肝臓を使うなどの異種移植や埋め込み型の人工心臓などが試行されたことはありますが、現状では臓器移植に代われるものが見当たりません。

 レシピエントの多くがドナーの幽霊を見るそうです。もちろん励ましのメッセージが多いのですが、中には不本意な最期を迎えて自分自身がもっと生きていたかったと恨みに近いメッセージのこともあるそうです。

 『悪魔の辞典』というナンセンス本がありまして医者という項目は別にあるのですが、ニセ医者には「免許を持たない殺し屋」とあるので免許を持った殺し屋に医者はなれるんだなぁと思ったことがあります。そこまで疑いかけると医療そのものにかれなくなってしまいますから言い過ぎにしても、閉鎖的な体質のままで技術革新だけが進むようなことにはなって欲しくないですね。(架空座談会終了)

 

途中で話が脱線した部分もありましたが、肯定派も否定派もどちらが正しいとか有利だということはやはりいえませんでした。

ところで肝心の鍼灸との関係に触れてきませんでした。筆者は懇談会で取り上げられた時に、重要な問題ではあるけど正直「どうして戦々恐々として討議するのかなぁ」とも思っていました。治療室での患者との会話は、脳死と判定されるまでは「これで脳死にならなければ全国の人があーぁとガッカリするんやで、どうして人が死ぬことをそんなに期待するんや」と不愉快でしたが、移植が行われてしまえば「あんたも早くドナーカードを作っておきや」と会話は一変しました。

これは筆者の在住が関西で、「お父ちゃんの肝臓は飲み過ぎでアルコール漬けになってるからあかんなぁ」「お母ちゃんの心臓は毛が生えてるから太鼓判や」「そんなに足が痛いんやったら移植してもらい」「お婆ちゃんのは古くて誰ももらってくれんやろから自分で大事にしとき」等々の一見ひどい会話ですがすべてを笑いに置き換えてしまう“よしもと”が根づいているからでしょう。関西風に処理することのできない氏方もいちいち真剣に討論していたのでは身が持ちませんから、シャレで流してしまうのがベターではないかと思います(うっかり関東出身の患者に喋ったら真剣に怒り始めたので慌てましたが関西人でよかった)。

 

長々と書いてきましたがもう一つの結論を出すなら、脳死移植とはいいながらも移植をしなければ助からない状態に患者が至ったことを議論しないのは本末転倒していると鍼灸の立場からは指摘したいと思います。不幸にして突然発病したケースもあるでしょうが大多数は自覚症状が徐々にでもあったはずで、癌のように初期治療を徹底すれば重篤にならなかったかもしれないのに「そんな移植でしか助からん身体にしたのは誰なんや」といいたいのです。誰も好き好んで病気になる訳ではありませんが周りを巻き込んでの大騒動になるのですから、「移植が必要にならないように日頃から健康管理の治療に通ってね」と納得させるのがベストですか?




本部および『漢方鍼医』発表原稿の閲覧ページへ   資料の閲覧とダウンロードの説明ページへ   『にき鍼灸院』のトップページへ