H21.05.10 臨床家養成講座

「脉診の実際−1」

 

二木清文

 

 

 はい、おはようございます。今日からまた七名の方が加わったのですけど、ここは臨床家養成講座ということで臨床家になって頂くための二年間であります。入門講座の時には本当に基本ということで肝や肺などという「縦」のつながりで学んできてもらいました。昨年度の臨床家養成講座ではまだ小児鍼や婦人科疾患など残っているものはあるのですが一応の身体各部の病症ということで「横」の勉強をしてきました。さらに今年度は研修部と連動しての脉論の研修などへ進んでいきます。

 それで今日は脉診の基本、あくまでも基本ということについて話をします。先程は福島会長が「型にはめるな」ということを話されていましたけど、その「はめる」前の型は必要です。何もないところへ水を撒いても散ってしまうだけなので、「小さなコップへ入れてしまうな」という意味に解釈してください。

 

 それで脉診の基本ということですが、今までも六十九難や七十五難型という基本脉型や祖脉など脉は診てきたのですがそれをどのように活用していこうか、「横」にはつながっていなかったのでそのような話をしていきます。

では、項目数が多いのでレジメにしたがって進めていきます。

 

 

1.「脉診をする」ということについて

 「脉診をする」ということ、これはくどくどいうことはありません。私たちが漢方の理論に基づいて独自の診察をする、これの一点です。臨床室では「どうして先生は毎回脉を診ているの?」、あるいは腕をすぐ上げてしまう患者さんがいるのでいちいち探して元へ戻していると「どうしてそんなことをするの?」という質問をされるのですが、「これは独自の診察をしているのですよ、脉がそれぞれバラバラに打ってきているのです」と説明すると、「へぇーっ、凄いねぇ」という反応です。「いや、人差し指と薬指にはトッカーントッカーンと打ってきていて中指だけトトトトトッというそんなバカな話はなくて、リズムは一緒なんですがそれぞれの指に触れてくる表情が違っているんですよ、さらに浅い部分や深い部分や中間などで違っていてその情報を総合判断するんですよ」という説明をします。

 脉というものは非常に便利なんです。例えば「この医者は嫌いだ」となった時、絶食を命じられているのに食べていったなら「ダメじゃないですか」と叱られてもぺろっと舌を出しておけば済んでしまいますし、「息を止めてください」といわれても息を止めなければいいわけですし、意地悪をしようと思えばいくらでも意地悪ができてしまうのです。ところが脉診では、そうはいかないのです。「この先生は嫌いだから脉診されるのは嫌だ」と思っても、脉を止めることはできないのです。冗談で階段を駆け上ったりしてから脉診されても、「これは運動で速くなっているね」とか「興奮して早くなっていますね」と見破られてしまいます。ですから患者さんは一切嘘が付けませんし、意地悪をしてやろうとしても見破られてしまうので「脉診とは便利なんですよ」と患者さんに話しています。

 ただし、これは講義の最後の部分と重なってくるのですが脉診のみに偏らないようにということを最初から肝に銘じておいてください。

 最後の不問診の勧めについてで関わってくることですが、私の師匠の師匠という方は熊本盲学校出身で家庭には恵まれなかったということであり、卒業をしてから五年間は按摩屋に就職していたのですが按摩をしながらもずっと本を読み続けて独学で脉診を身につけたということです。それで五年目になると独自の治療法を修得されていて、肩こりだというのに曲泉や陰谷などばかり揉んでいて脉を整えていたらしいです。「おいおい肩が凝っているんや肩を揉め」「肩こりが取れたらええんやろ」と勝手に進めて、「これで終わった、どうや!」となったなら「あれっ、本当に取れている」「そしたらこれでええやろ」ということを本当にやったらしいです。かなりの傑物ですね。その傑物だった先生ですけど四十歳そこそこでリンパ腺癌で亡くなられてしまい、私は出会ったことがないのです。ですから私の師匠から聞いた話ということになるのですけど、その先生はほとんどが不問診で診察ができたという話です。ビックリしたのは、三十年前の結核を言い当てられたこともあったとのことです。しかし、その不問診ができた先生が「脉診至上主義にはなるな」と、弟子には口を酸っぱくして繰り返していたそうです。不問診で普段はやればいいのですけど、「それだけに没頭をするな」という意味でしょう。

 それで一日に百人くらいは来ていた鍼灸院だったらしいのですが、どうしても分からない患者さんに遭遇すると「ちょっと間を持たせておけ」と二階へ駆け上がってしまい、戻ってくるまでに本を調べていたのだろうと思っていたなら、亡くなられてから奥さんに話を聞くと般若心経を唱えられていたらしいです。それくらい謙虚だったのでしょう。不問診ができるのですから、「人間の身体は全て分かっているんだ」と神のような顔をして喋っていたのですが、謙虚な面も持っておられたのです。それだけに「脉だけに没頭するな」と忠告されており、没頭しないがゆえに不問診がかなりのレベルまでできるということなのでしょう。

 もう一度戻りますが、漢方の理論に基づいて我々が独自の診察をするその手段の一つが脉診なのです。脉診ほど情報量が多いものはありません。リアルタイムで変化するものはありません。脉診に代わる診察法というものはおそらくないと思いますけど、脉診だけに集中する・脉診だけに気が行ってしまうことはないようにとも付け加えておきます。

 

2.指の当て方、特に三菽の当て方について

 指の当て方については午後の実技でも行われることでもあり今後に夏季学術研修会が行われるのですが、ここにおられる方はほとんどが普通部に参加されると思います。私も今回は普通部の講師として参加することになっているのですが、昨夜も夏季学術研修会の講師の先生たちは仕事を早くに終えて身銭を切って合宿に参加されていて、普通部では指の当て方について徹底しようということで研修をしてきました。

 それで基本的な指の当て方について、まず言葉で説明します。まず二つ種類がありまして、陽池に拇指を当てて手を回して寸関尺に指を当ててくるというやり方があります。このやり方だと指の操作がとてもやりやすく浮沈の幅が診察しやすいのですが、欠点としては寸口に、つまり術者の示指にばかり力が加わりやすくなってしまいます。寸陽尺陰といいますから寸口には肺もしくは心が、つまり陽臓が配置されていますから当然脉位も高いのにその場所を押し込んでしまう傾向にあります。そのようにはならないように特に総按、つまり三本の指を同時に当てた時には示指ばかりに力が入らないように、薬指だけを沈めて示指はそれに引っ張られているだけくらいの操作でいいと思います。

 もう一つのやり方は女性や手の小さい方に向いているといえるのですが、陽池には拇指を当てずに患者さんの魚際の横あたりに拇指が出てくるような形で、ちょうど把握をするような形で脉診する方法です。俗に「ドラえもんの脉診」なんて表現していますけど()。この形だと最初から寸陽尺陰で指が当たりますから、その点はいいのですが欠点として浮沈の指先操作がとても難しいです。ちょっと動かしただけのつもりが、大きく動いてしまっています。それから血管を引っ張ってきたり押し込んだりする傾向があるので、指先の操作は慎重にゆっくりゆっくり行う必要があります。

 どちらにも一長一短があるということです。それでは私、二木はどのような方法で脉診しているかというと、実は両方行っています。得意なのは陽池に拇指を当てて脉診する方です。しかし、風邪で発熱しているとか下痢をしているとか飲み過ぎたとか()、昨年は駅のホームから転落もしてしまったりと術者の体調も常に万全ではなく悪い時もあるので、その時には陽池に拇指を当てない把握をするような形の脉診の両方をします。そのようにすることで「どれくらい普段よりも感覚がずれているかな?」ということが分かりますし、二人か三人治療をすれば頭の中で修正ができますから以後は治療室の状況を考えながら得意な方である陽池に拇指を当てるやり方を中心に行っています。

 どちらも練習されることがベストだと思います。うちの助手は二人とも女性なのですが、一人は背がそれほど高くないので手も小さいですから把握する方法で脉診しています。もう一人は私と変わらない身長がありますので手もそれなりに大きいですから陽池に拇指を当てる方法だけを今のところさせていますけど、彼女は学生時代に研修会へ参加したことがなかったので白紙状態からスタートしていますから今のところやり方を一つに絞らせているだけですけどね。ということで、将来的には両方の脉診方法を修得してもらう予定です。

 

 ここから菽法脉診のことについて話をしていきます。菽法脉診そのものについては割愛しますが、マメの重さで三菽・六菽・九菽・十二菽・十五菽がそれぞれ肺・心・脾・肝・腎の脉位に該当するというものですね。その菽法の位置に脉があれば正常でありその臓は健康だといえるのですが、離れていれば異常だと診察できます。またその部位では胃の気がどれくらいの菽法にあるのかという診察もします。

 脉診はどちらの方法でも結構なのですが、まず漢方鍼医会で便宜上の名称を定めた「橈骨下端の骨隆起」に中指を当てます。これは前面の最も突出している高さですね。「橈骨下端の骨隆起」を特に経絡治療の世界では「橈骨形状突起」として教えられてきてずっと私もそういう名称だと思い込んでいたのですけど、解剖学としての名称が付与されていない部分なので勝手にそれらしい名称を流用してしまったのではないかと想像されるのですが、ここは知識をリセットして皆さんも取り組んでください。

 そこへ示指と薬指を添えます。これで三本の指が揃えられたので、力を入れずにそのまま脉の上へスライドさせていった状態、これが三菽です。これは指の重さで既に三菽になっているということですね。

 圧倒的に間違っていることはこれは昨夜の合宿でもそうだったのですけど、このクラスの人たちもそうなのでしょうけど、どうしても「脉を触れたい」という願望が強いものです。それで患者さんの手に触れたなら「脉はどこかな?」と探してしまいます。ということは、これは既に押さえ込んでいるということなのです。三菽の位置など、とうの昔に通り過ぎているということなのです。

 皆さんも思い浮かべてもらえればこのような経験は何度もあるはずなのですが、すごく脉の沈んでいる人なら「どこかなどこかな」と脉診している指をぐいぐい押し込んでしまい、「あぁやっとあった」では三菽も何もありませんよね。それで実技をしていて揃えた指を「脉の上へスライドさせてください」と指示したなら、指をもじもじさせている人がほとんどです。「何をしているの?」「脉がないんです」ということになるのですが、「それはあなたの感覚が鋭いということなのですよ」と褒めてあげます。三菽には触れないという脉状だからなのです。陽経というものはありますけど、肝や腎は十二菽や十五菽で触れるものですからすぐ触れてくる方がおかしいのです。逆に肺や心は三菽や六菽ですからすぐ触れて当たり前であり、いつまでも触れていたり沈めてハッキリしているようでは沈みすぎているということです。だから三菽で、もしも六本の指全てに脉が感じなかった場合、これはあなたの感覚が非常に鋭いのです。

 

 次は、菽法の位置の決め方について話します。まずこれで三菽が取れました。次に十五菽ですが、十五菽は括弧して「骨」と書いてあります。ですから、思い切って脉をつぶしてください。ぐいっと構わないので脉を一秒くらいつぶしてください。そこから軽く引き上げた場所、これが十五菽です。これで一番上と、一番下が決まりました。そうすると三菽と十五菽の間で、九菽が取れます。続いて九菽と十五菽の間で十二菽を、九菽と三菽の間で六菽をと頭の中で割りながら操作すれば菽法が決まります。

 ただし、これも昨日の実技の中であったことなのですけど、時々は研修会でお互いにチェックをしないと段々と菽法脉診の指の動きが出来なくなってしまいます。何故かというと、皆さんは指を沈めていく方は得意というか割と正確に出来るのです。ところが、指を浮かす方は思い切りが全く足りない。このクラスの人たちは昨年の実技で既に行っていますから覚えている人もあるでしょうけど、十五菽から九菽・六菽・三菽へと指を上げてきてもらうと、最初の指をスライドさせてきた状態とを比べたなら、「三菽です」と言いながらも圧倒的に指が重いのです。これは、指を上げる動作に思い切りが足りないからです。

 おそらく漢方鍼医会の人たちだけでなく、脉診をしている治療家にはその傾向があると思います。接近や接触を特に強調している勉強会なら別でしょうが、そのようなところは脉自体をほとんど押さえていないはずです。それで菽法を診ている会、あるいは浮中沈の三部で診ていてもいいです、ほとんどの人たちが「脉が診たい」という欲求で指を上げることが不得意です。これは指を思い切り上げなければなりませんし、それから診察の範囲を自分で狭めていることにもなります。

 あまり感心する話ではないのですけど、昨年の夏期研が終わった後に他の勉強会の人たちと実技をする機会がありました。まぁ私の師匠の治療室へ、お礼参りに行った訳なんですけどね。お礼参りといっても殴り込みに行ったのではなく、お土産は持っていきましたよ(笑)。それで「浮脉に指を当ててください」と、現在の助手たちにやってもらったのですがものすごく指が重いのです。人によって感覚が違うことは当たり前なのですけど、やってもらう人によっては「結構痛いぞ」というくらいにまで押さえられた箇所で、「ここで指三本に脉が触れましたからここが浮脉です」と言うのです。軽い人でも指一本や二本にはしっかり触れる箇所を浮だというのです。これは今までの説明や、寸陽尺陰ということを考慮すれば間違いだということは分かりますよね。自分の感覚の中で浮・中・沈というものを決めているのですよね。しかも患者さんごとに浮・中・沈が変わっているのです。そんな状態ですから、伝統鍼灸学会の中で脉診を語っても噛み合わないのも当然なのは、悲しい現実です。

 この三菽の決め方を守っていたなら、最低限漢方鍼医会の中では脉診をする指さばき、浮沈の評価は統一してきます。そして、伝統鍼灸学会の方へこの方法を用いてもらわないといけないだろうと、昨夜の身銭を切って勉強している間に語っていたのですけどね。

 これは本当に大切なことだと思います。今年の夏期研でも実施されますので、菽法の脉診の練習は繰り返し行ってください。特に地方組織へも所属している人は、地方組織の中でもやってください。本部にしか通えていない人は、昼休みにでも本部の先生を捕まえて「私の指の当て方はどうですか」と、しつこいくらいに指導してもらった方がいいですね。私だって、以前に所属していた研修会では暇があれば出会う先生出会う先生を捕まえては、脉の取り方や指の当て方を指導してもらったものです。嫌だと言われる先生はおられないでしょうしアドバイスがもらえると思いますから、せっかく研修費を払って研修会に出席しているのですから、それくらいどん欲にやってください。そうでないと、脉診の基本というものは身に付かないものなのです。

 

 

祖脉、浮沈・遅数・滑ト(しょく)・弦について

 

 入門の時にも祖脉という話は出てきたと思います。中医学でもそうですし今までの教科書では浮沈・遅数・虚実を六祖脉としてきたと思います。ただ、この虚実の脉というものは池田政一先生の話の中でも出ていたように弱い軟弱な脉は虚には間違いないのですけど、堅い脉あるいは跳ねてきているような脉にも虚はあるのです。いや、むしろその方が多いのです。実というのは、ガンガンガンと押し上げてくるような脉ばかりかといえば、これもそのようなことはありません。「結ぼれるが如し」という、菽法で上から下まで途切れない脉のことを原則的には言います。脉状と祖脉でいう「実」というのは若干違うので、そのようになります。今はそのようにだけ覚えてください。

 それよりも七表・八裏・九道の脉状のことが説明されています。これを表していくには例えば「浮にして滑」だとか「沈にして弦」だとか、「この脉とこの脉が合わさったならこの脉になるんだよ」と説明できるのですが、その中でも「これ以上分解できない」要素のものを祖脉といいます。これを考慮すると虚実ではなく滑ト(しょく)の方を祖脉に入れた方がいいのではないかと思っています。このあたりはベテランの先生には異論はないだろうと思われます。また福島賢治先生も言われていますし僕個人も思っているのですが、ここへ弦を入れれば非常に便利だし七祖脉と表現していいのかはこれからの課題ではあるのですけど、ここを基本に考えていけばいいだろうと思います。ここも時間がありませんので、さらっといきます。

 

 まずは浮沈。浮沈というのは、脉が浮いているか沈んでいるかですね。分かりやすいですね。浮脉というのは「病が浅い部分にありますよ」ということを表します。沈脉というのは「病が深い部分にありますよ」ということになります。例えば熱が乱高下するような風邪をひいた場合、子供には夕方になったなら発熱してくるとか、大人でも微熱が取れないというケースはよくありますよね。その時には、体温計で測定していても数値が上がったり下がったりしています。そして脉も当然ながら位置が上がったり下がったりしています。これは結論から言うと陽虚証の風邪ですから、汗がバッと最初は熱いのですが冷や汗ですからすぐに冷えてしまいます。だから熱が出ても、すぐに冷えてしまいます。脉も当然、浮いていたものが沈んでしまいます。脉が浮いている時には、病も浅い部分に来ています。それが沈んでいけば、病が深い部分へ行ってしまったことが分かります。非常に分かりやすいですね。

 浮沈はそれほど診誤らないとは思うのですけど、一つのヒントです。うちへ新しい助手がやってきた時にはまず浮沈と遅数を診させるのですが、あくまでも一つの方法なのですがこの場合は菽法は無視してまずは自分が脉を感じられる部分まで静かに指を沈めていきます。「あっここで自分はしっかり触れられた」と思ったなら、一秒から三秒くらい一気に指を沈めて脉をつぶしてしまいます。そして、素早く先程の位置まで指を戻してきます。指を戻してその次の脉、もしくはしばらく脉が指を突き上げるようであれば浮脉です。病が浅いので指を突き上げてきているのです。沈脉というのは病が深い部分にあるので沈もう沈もうとしていますから、元の位置にまで上がってきません。上がってきても、元の位置までもしくは段々と上がってくるという感じです。浮沈の脉状を会得するために目安にできる、便利な方法です。

 

 次は、遅数です。これは一呼吸に対して四を基準として、五以上を数つまり早い、三以下を遅とします。数脉というのは、熱を表します。遅脉というのは、冷えを表します。それでですね、「これはどっちの呼吸やねん」という話があるのですけど、これは術者の呼吸を基準とすればいいのです。当然のことですけど、病が重篤で寝たきりの人や風邪で高熱の人はハァハァハァと呼吸が浅いですからこれに合わせていたなら遅脉なんてあり得なくなりますからね。ですから、術者の呼吸でいいわけです。

 ここで時間節約のために少し話をまとめてしまいますが、浮沈と遅数の組み合わせだけで病が重いのか軽いのか、うちの治療室では病が順調に推移しているのか逆の推移をしているのかという意味で「順逆」などという表現をしているのですけれども、これが分かります。熱がある病が浅い部分に存在しているなら、それは正常な状態なのです。昨日から風邪をひいて発熱しています、どこかで打撲をして表面が腫れていますというのは普通の状態です。三年や五年も経過している慢性の腰痛がある患者さんは病が深くなっており冷えても来ているでしょうから脉なら沈で遅になっているはずです。ですから、浮数もしくは沈遅なら病が順だということになり、治しやすい状態にあると言い換えてもいいかも知れません。

 ところが、浮遅あるいは沈数という脉になっていたなら、これは病が浅いのに冷えているか病が深いのに熱があるということなので病理的にも病症的にも非常に込み入った状態です。これは病が逆行しているということで、治しにくいはずです。これだけで病が手強いのか、それとも普通に治療をすれば多分対処できるのかの診断が出来ます。

 

 三週間ほど前に来院されたほとんど胃に穴の開きかけていた胃潰瘍の患者さんなのですけど、来院された時には膝の痛みばかりを訴えられるのです。「私は太ってもいるし先天性股関節脱臼の手術もしているからやっぱり出てきてしまったんだわ」と嘆いておられたのですけど、診察をするとそのようなことではなかったのです。脉が沈数になっていたのです。そして背部にも強い張りがあるのです。患者さんは「とにかく膝を治して欲しい」といわれるのですが、「膝は熱を持っているだけの話だから本治法をすれば治るけど沈数という状態は絶対におかしい」と説明しました。患者さんの話では背中が張るのとご飯が食べられないということはあったのですけど、お腹を触診すると中や下の辺りで指がゴボッという感じで沈むのです。空虚な感覚だったのです。その瞬間に「痛い」という反応であり、「これは胃潰瘍ですよ」と説明しました。

 胃潰瘍の脉というのは不問診で診断できるのですけど、脾の脉が盛り上がった上で空虚となっています。それでいて案外と陽経の部分というのか表面は突き上げてきてはいません。盛り上がっているくせに空虚なのです。このような脉もありましたから、これは完璧に胃潰瘍だということですぐに本治法をしながら腹部にはホットパックを当てて温めていると、「すごくお腹が楽になりました」との感想でした。

 それでたまたまだったのですが、明くる日に娘の眼科検診があったので市立病院へ息子の子守のために付き添って出掛けていたなら、「先生こんなところでどこか悪いんですか?」とその患者さんから話しかけられてきたのです。「悪いはずないやんか、それよりあんたは何してるんや?」と逆に質問をしたなら「お医者さんの秘書をしているのでここが職場なんです」とのこと。初めて職業を知ったのではありましたけど、「膝はすっかりよくなりましたけどやっぱりお腹は痛いので温めています」とのことでした。「どこのお医者さんの秘書なのかなぁ、内科のお医者さんだったりして」と冗談で別れたのですけど、病院勤務の人が胃潰瘍で鍼灸院へ通院してきたという話でした。それで、浮沈・遅数だけでもこれくらい見抜けるのです。

 

 次には、滑ト(しょく)。ト(しょく)とは、切れない刃物で竹を切ったような時の表面といわれ、そのような時には切り口が粗雑になりますよね。そのようなイメージをされたならいいと思います。あるいはマンションだと無理ですけど昔の家で畳に砂糖をこぼしておくと蟻が上がってきますけど、それを上から触ってしまったような感じとイメージして頂いてもいいかも知れません。これは渋っているということであり、渋とも表現されていますね。経絡の流れが渋っているということです

それでト(しょく)脉と滑脉ではどちらが痛みの脉かということでは諸説あるみたいなのですけど、私としてはどちらもあると思っています。ト(しょく)脉で痛みのあることはありますし、滑脉でも痛みを表していることがあります。

 ト(しょく)脉は、その一番の代表が風邪の時の脉です。ご家族でも自分の時でも結構ですから、風邪の時に脉診してください。そうしたなら今説明したように、竹を切れないナイフで切ったような切り口あるいは畳に蟻が上がってきているような、そのような脉状が触れないかを探してみてください。慣れてくれば「あなたは風邪をひいていますね」ということが言えるようになりますし、程度も分かるようになってきます。当然ですがト(しょく)脉にも程度がありますので、ひどいト(しょく)脉とか軽いト(しょく)脉などあります。当然のことですけど、ト(しょく)脉で熱がこもっているような状態だと節々が痛くなります。

 滑脉というのは、これの逆のことになります。ト(しょく)脉というものが脉診出来るようになってくると、滑脉も脉診出来るようになります。これはすべらか過ぎる脉ということです。経絡が暴走しているということですから、これは痛みが伴ってくるでしょう。

 

 次には弦です。弦は弓弦のごとくであり、これこそ痛みを現す脉です。例えば右の腰が痛かったりすると、患者さんの右手の脉が弦をおびやすくなります。左の足首が痛むなら、左の脉に弦をおびやすくなります。弦よりもさらに痛みが強くなると、これは緊脉となります。緊脉とはより細くなった上に跳ねた感じのする脉状なのですが、細すぎて跳躍して跳ねているという感じではなく動きがぎこちないという印象をイメージして頂いた方が正しい表現に思います。 ただ、これも病的な弦脉か正常な弦脉かという違いがあります。浮沈と遅数については、正常な範囲かどうかについて先程述べました。滑ト(しょく)については、あまり正常な範囲というものはありません。でも、弦というものについては正常な範囲かどうかという違いがあります。一番分かりやすいのが、中学生くらいの脉です。「いくら治療しても跳ねが治まらないなぁ」という感じがするはずです。これは思春期はものすごく成長しているのですから伸びる力がすごいのですから、弦があってもいい状態なのです。病的な状態ではないのです。もしも伸び盛りの子供にあちこち治療をして「弦が取れたから」となったなら、帰宅させるとうちの子供がぐったりして頭も痛いといっているのですけど」なんてことになりかねません。春は微弦がいいといいます、春はどんどん芽吹く時期なのですからこの時に少し弦が入っていたなら外へ外へと発散していこうという身体状態を表しているので、これは正常な生理的な弦の状態なのです。これが行き過ぎないように、あるいはどれくらいまでなら大丈夫なのかということを考えておくことです。

 

 

四大病型と祖脉との関連について

 

 

 四大病型というのは、陽実・陽虚・陰虚・陰実のことです。

 

 陽実というのは、陽気が充満・停滞した状態のことです。ですから、風邪で発熱しているような状態のことになります。この時には浮数であればいいのですが、病症があるいは病理が陽実なのに浮数になっていなければおかしいです。

 

 陽虚というのは、陽気が不足した状態です。だから表面が冷えています。この場合には沈遅になっていればいいのですけど、先程説明したように熱が乱高下しているような状態では脉だけが速く、脉が沈んでいるのに早いということは要注意です。鍼を刺しすぎたりでもしたなら、陽気が吹き飛んでしまいます。

 

 陰虚ですが、これは陰気が不足したということで虚熱がでている状態のことです。虚熱がでているということですから、脉は浮き若干速くなります。これが浮きが足りないとか、数になっていなければおかしい。でも、逆に陰虚の時に浮数であれば病型と合致していることになります。

 

 ここに四大病型にプラスして陰盛というものがあります。陽虚が進みすぎて、身体の中まで冷えきってしまった状態のことです。この状態になると、おそらく一人では立っていることも出来ません。手も何もかもガタガタガタと震えてくる状態となります。私は三度くらい診察したことがあるのですけど、うちの助手が虫垂炎になった時とうちの親父がお腹を壊した時ともう一人診察したことがあります。本当に手が震えてきます。これは本当に沈遅となり、どのケースでも脉が触れないくらいにまで沈んでいました。これはもう鍼だけでなく、ホットパックなど外からも別に温めてやらなければ治療が出来ません。

 

 そのような状態を脉からも見極めていくのですが、陰実とは陰気が虚したところへ陽気が走ってきて充満・停滞した状態のことを言います。ですから、陰気が充満した状態のことではありません。陰気が多くなり過ぎたというのか本当は陽気が少なくなり過ぎたのですけど、陰気だけが残った状態のことを陰盛と言います。それで陰実とは陰気が虚したところへ陽気が走ってきて充満・停滞したものですから、肝実のことになります。

 この時には、急性であれば熱が高いのですから陽実と類似の病症となりますし、脉もそのようになります。ちょっと経過してくるとそこまでの熱はなくなってくるので陰虚と類似したものになってきます。それが進みすぎると、C血(お血)というものは循環を阻害しますから中心部には熱が残っているのですけど周囲が冷え始めてきます。ということで、実は陰実特有の病症というものがほとんどありません。自発痛があるというのが唯一の病症だと捉えて頂いて良いと思うのですけど、それ以外にはないのです。しかも、今説明したように陰実というものはどんどん変化をします。その時に陽実なのか陰虚なのか陽虚なのか、どのタイプに合わせて標治法を行っていくべきか脉でトレース、つまり追いかけていけるかが治療のポイントとなるでしょう。

 ということで四大病型と祖脉、浮沈と遅数の関連を常に頭に入れておくことが治療をスマートに進めるポイントではないかと考えています。少なくとも私、二木の臨床ではそのようにしておりますし、素早くこなせているつもりです。

 

 

総按と単按について

 

 

 さて、基本的な脉診での指の当て方から菽法での指の動かし方やまず最初に祖脉を診察する意義と話が進んできて、「おいおい脉診する指は一本ずつ当てていくのかまとめて当てた方がいいのかどっちやねん」という疑問を持たれていることでしょう。多少話を混在させながら進めてしまってもいましたし、この後に治療法則での基本脉型へと話が続くのですけど、「どっちやねん」についてここで整理しておきましょう。

 術者の示指・中指・薬指の三本を一度に脉診部位へ当てることを、総按といいます。これは片手ずつの総按と両手まとめての総按、どちらのことも表現しています。研修会での実技や発表に際しては、片手で行ったものか両手で行ったものかまで付け加えておくならより親切でしょう。しかし、流れで概ねどのようにしているのか理解できますし専門家同士の話にいちいちの前置きもうっとうしいので、通常は総按を強調したい時だけ説明していますね。イメージからも実際からも分かるように、脉全体としての評価をすることが出来ますし、あっちとこっちの比較をしながらの評価も出来ます。診察の最初に脉診する時には、まず総按で指を当てていきます。

 これに対して指一本ずつで脉診することを単按といい、これもイメージや実際から分かるようにその部位の脉状を詳細に観察することが出来ます。つまり、総按でまず全体を脉診してから単按でより詳細に脉診していくというのが、一般的な手順でしょう。「必ずそのようにしてください」というのではなく、我々の診察に限らず何かを分析しようという時にはまず全体を眺めて変な部分を見つけだしそれを追求するというのが当たり前の手段ですから、ちょっと親切に順序をお話ししただけです。

 でも、入門の時に実技で手ほどきを受けて身体へ浸みていることでしょうけど臨床家養成講座なのですから臨床家となるために、敢えて一般的な流れをくどいですがお話しします。研修会では主訴や愁訴に始まり色々と病理考察に必要な問診をじっくりしながら徐々に触診を進めていきますけど、臨床室ではそんな時間はありませんし患者さんとしてもどこかに触れて診察してもらわないと不安でしょうから、問診しながら脉診も同時スタートとなるでしょう。最初は全体把握が必須ですから、総按で指を当てていきます。この時の注意点は、菽法の決め方で実例も交えて解説したようにいきなり自分の指で感じられる深さまで指を沈めてしまわないことです。脉診にはインスピレーションも大切だと何度か繰り返していますけど、この時点の不問診で色々な病状を発見するのもよくあるケースです。

 ちょっと話が脱線しますけど、治療という場面になると患者さんとの信頼関係が大切であり感情移入もある程度仕方ないと思いますし、個人的には適度な感情移入できなければ治療はうまくいかないケースが多いと経験しています。「文句ばっかりの変なおっさんやなぁ」と心の中で毛嫌いしていたなら、そりゃ手法もいい加減になってしまうかも知れませんよね。逆に「好みの姉ちゃんなんだよなぁ」とか「症状がなかなか回復しないので気の毒なのに」などと思いつつ治療をしていても変に力が入ってしまうので、感情移入しすぎてしまうのも問題はあります。ですから、診察から診断は客観的な立場であるべきで、その戒めのためにも最初に脉診するときには三菽の重さを心がけておかねばならないのです。

 それで徐々に全体に指を沈めたり上げたりしていると、「ここに着目すべきかな」という部位があるはずです。そうしたなら単按へと切り替えて詳細に検討して、また全体のバランスがどうなったかと総按もしてと、交互に使い分けていくことになります。それから片手ずつ脉診していくのか両手一度の方がいいのかという疑問もあるでしょうけど、答えはどちらも必要ですし出来るようになってくださいということになります。陽池へ拇指を当てながらの脉診方法では両手が一度に診察しやすく、全体把握へ利点があります。その反面で、特に菽法の高さを決めるのが難しかったりします。拇指を当てない脉診方法は患者さんの手首を反らせてあげないと正確な脉診にならないので、術者が手首を反らせる補助をせねばならないので片手ずつの総按となるのが必然であり、両手を一度に脉診しづらいものです。しかし、脉状観察にはより正確な方法だと言えます。同じ結論の繰り返しですが、どちらの方法も出来るようになるのがベストだろうと思っています。

 またまた話が脱線しますけど、陽池へ拇指を当てた脉診と当てない脉診のどちらも行った時、これまた総按と単按の時のように触れられる(感じられる)脉が違ってきます。これは実験していただければすぐ再現できることなのですけど、最初に脉診してから患者さんのお腹を撫でてみるとか手足を消毒すると、脉状がごっそり変化することがよくあります。あるいは脉診が難しい時には腹部へ散鍼するということを教わっておられるように、わざと脉状を変化させることをしたりもします。助手時代は標治法を先に行うスタイルの鍼灸院でしたから本治法を先にするというのは開業して初めて経験したことなのですけど、手足を消毒したなら脉が沈むばかりでなく逆に浮いてくるケースが多いことを知った時には、ちょっとカルチャーショックでしたね。

 それではどの時点の脉を診察すればいいかとなれば、答えは簡単です。もう以前の脉は触れられないのですから、今の脉を診察することになります。よく「鏡」で例えているのですけど、鏡は正面から見た時・左から・右から・上から・下から眺めた時、それぞれ違った画像を見せてくれるのですけどどれも正しい画像です。つまり、脉診とはどのような情報を求めているかで違った情報を返してきてくれているのであり、どの場面でも脉は正しいのです。それだけに「こうなっているはず」と潜入観念を持って脉に触れていたならそのように脉はなっていると錯覚してしまうものでもあり、お互いに白雪姫の意地悪な継母にならないように気を付けましょう。

 

 

六十九難と七十五難の基本脉型について

 

 

 それでは、ここからは脉図を参照しながらとなります(図は http://www.myakushin.info/shinkyuin/myakukei.htm から表示できます)。肝虚証・脾虚証・肺虚証・腎虚証の図がありますけど、次の難経七十五難型との比較をするために腎虚証で説明をします。

 まず左手の脉からですが腎は虚、肝は平、心が実、脾が実、肺が虚となっています。命門は、ここでは証決定に参加していないので無視しておいてください。六十九難というのは、例えばこの腎虚証でいえば腎が主に司っているものは津液であり、津液が不足すると虚熱が発生します。重篤な場合には宣発・粛降が、つまり肺が津液を発散させたりあちこちに散らばっている津液を集める力が最初に弱まったために、あるいは腎での津液不足がいきなり発生しているなどどちらのケースもあるでしょうが、肺経まで補ってあげねばならないかも知れません。だから治療としては、腎経から肺経の順で治療を進めます。親子関係ということになります。自経である腎の一つ上の親まで治療をするというのが六十九難の治療の原則です。

 脉の並び方からいうと先程説明した通りなのですが、これを親経から眺めると分かりやすくなります。肺が虚、腎が虚、肝が平、心が実、脾が虚ということで虚虚平実実という並び方になっています。その二番目の虚が「証」の名前になっていきますよ、というのが難経六十九難の基本脉型です。それから治療の考え方としては、本経(自経)をさらに助ける補完的な意味で親の経絡まで補うというのが六十九難の考え方です。このようにすれば、非常に治療がはまりやすいですよということを示してくれています。

 (注意)この説明は、あくまでも基本的な説明です。六十九難は選経論ではなく選穴論であると主張されている場合もあり、また選経論にしても親経から自経へと補う順番を逆にしている研究会も多くあります。どちらが正しいのか?どれが正しいのか?を論争するのではなく、まずは治療効果があるのかが大切です。「その点で言えば親子関係にある経絡を連続で補うという考え方そのものが基本になっているよ」と、難経の著者はほほえんでいるように思えたりしています。

 

 次に七十五難型です。肺虚肝実証なのですが、比較のために腎からまたなぞってみます。腎は虚、肝は実、心も実、脾が平、肺は虚。どのように違いますか?では、腎の親である肺からいきますと、または虚が始まっている箇所からカウントすると表現してもいいのですが虚虚実実平となっています。先程との違いは、虚からカウントしていくと虚虚平実実であり七十五難型の場合には虚虚実実平となっていて、平の位置が違っています。

 「えーっ脉型をいちいち考えて行かねばいけないのかなぁ」と思われているかも知れませんし、池田政一先生はこのようにして変形での治療というものも出来るのではないかと少し発言されています。ただ、七十五難には「西方虚し東方実すれば即ち北方を補い南方を瀉し」という条文になっているので、ガッチリ固定されていますから肺虚肝実証であるこの型しかあり得ないと解釈されますので、治療法は別としてこの脉型だけを覚えていただければいいのではと思います。

 陽経の配当については別の図に示したとおりであり、これはご存じのことだろうと思います。

 

 次は七十五難型の治効機序についてです。まず「北方を補い」ということなのですけど、条文の後ろの方で「東方は肝なり西方は肺なり」とありますから、これだけしっかり規定されたなら北方とは五行を眺めたなら腎しかありません。それで「北方を補い」ということなので腎経から営気の手法を行います。これは陰実ということなので血を動かさねばならないので、営気の手法ということになります。通常なら鍼をすると、あるいはツボに触れた瞬間に脉が変化するのですけど、七十五難型の治療がなかなか認められていないとか発見されてこなかったというのは脉が即座には変化をしないためだろうと思います。

 そこで治効機序の解釈となるのですが、腎へ手法を行うと水剋火が働いて実である心が抑えられます。心の実が解消されると、火剋金の関係も正常に戻って必要以上に押さえつけられていた肺が救われます。肺が救われてくると、金剋木の関係が正常に戻ります。肝は実ですから逆に肺を押さえつけていたので、例えるなら「お前は本来と違って押さえつけに来たならいかんやろ、取引先のくせに設けさせてもらうべきところを押さえつけたらあかんやろ」というような感じで、肺が金剋木の関係で肝を押さえに行きます。すると肝は取引先の脾に対して木剋土の関係で「この借金お前にやる」みたいにして影響を押しつけようとするのですが、脾は平なので「私のところは今、健全経営なので借金なんぞいらん」ということでこの押しつけを追い返します。このようにして肺と脾から挟み撃ちになって仕方なく渋々と借金弁済をするようなもので暴れていた肝実が落ち着くことになります。このような治療過程をたどるために、腎経のツボに触れたり鍼をしても肝実が落ちるには少し時間が掛かり脉もすぐには変化しないのです。

 でも陰経そのものに瀉法というのは、この場合は臓気と表現してもいいでしょうし精気と表現してもいいのですが、ぐいっと抜いてしまうような手法を行うのは決して賢い方法だとは思えません。だから直接的な方法はせずに何とか気を動かすことで営気の手法でC血(お血)になり働きがおかしくなっている肝を正常に戻すには、このような方法がいいのではないかと臨床追試しています。先ほども引用しましたけど今朝の福島先生の話だと「型にはめるな」ということですから、七十五難型の治療方法はこれだけではないかも知れません。一般的には「釈迦保水」という治療原則が述べられているのだと解釈されていて色々と試みられてもいますから、皆さんの臨床の中でもっといい方法が見つかったなら、その時には私にも教えてください。ただ、今のところはこの方式で相当に臨床成績がいいので、私はこの延長線でもっとよくならないかと研究を進めていきます。それらを持ち寄るというのが、研修会のあり方だと思います。

 次の図は、肝実が落ち着いた後にはどのようになるのかを表しています。「北方を補い」の次には「南方を瀉し」と書かれてあります。文字の解釈だけなら次は心もしくは心包となるのですが、でも腎からの手法により心と心包の変動は片付いています。それよりも腎は肝実を処理するためのスタート地点ではあったのですけど、自分自身には何も利益を得られていません。スタート地点には利用されていても、腎そのものには利益があったという解釈にはなっていません。ということで「左腎右命門」と漢方医学では配置をされていますので、この命門を補うということで腎へ手法を加えた同じ側の陽池穴へも営気の手法を行います。これがですね、どこからこのような方法を引っ張り出してきたのかが思い出せないのです。どこかの本で復溜の次には陽池を用いるということが書いてあったのか、それとも古い講義の録音を聴いたのか。「これは七十五難型のはず」と思って治療へ初めて挑戦した時に、「一本で終了ということはないはずだから」と閃いてやってみたのです。その後に何度か七十五難型に遭遇するようになって試行錯誤を繰り返すのですが、ここの部分(同側の陽池への手法)を抜かしてしまうとどうにもうまく治療できないことが判別できました。それで「北方を補い」ということには、命門も含まれているのだと解釈をします。

 (注意)その後の臨床で、継続治療により肝実の状態が安定していると必ずしも陽池穴を持ち入らず一本のみで本治法終了というケースがあることも判明してきました。治療を重ねていると時間経過とともにC血(おけつ)がぶり返してきてもすぐ流せてしまうため、腎絵も影響を及ぼせるためではないかと考えています。そういう意味では陽池穴への施術は血熱の除去に働いているとも考えられますけど、これは今後の課題です。あるいは七十五難型はC血(お血)の処理そのものが目的であるのかも知れません。

 

 それでは「南方を瀉し」ということなのですけど、心と心包は既に処理が済んでいますし三焦も「北方を補い」の命門という意味で使ってしまいました。残りはどこでしょうかとなれば、小腸経しかありません。小腸経へ先程の肝実の熱がはじき出されてきているので、ここへ陰気を補ってやるということで営気の手法を行うと滑らかな良い脉になりますし持続力もアップをしてきます。本格的な臨床投入の段階になっても、当初は小腸経への処置は行っていなかったのです。「どうも、もう少し違うなぁ」という未消化の感覚であり、治療成績がうまく持続されるケースもそこそこはあるのですが持続力のないケースもあったりで、どうもこれは肝実の熱を表面まで引っ張り上げては来ているのにちゃんと最後まで処理をしていないのではと考えるようになりました。

 それで高校生の女の子だったのですけど、敏感な患者さんがおられたので了解を得てあちこち触らせてもらったのです。余計な場所はなしですよ、経絡だけですよ(笑)。そうしたなら小腸経が一番良い反応だったということで、考察をしてみたならこのような解釈へと繋がってきたのです。臨床とは生き物であり、患者さんは常に師匠だということを改めて思い知らされた経験でしたね。

 (注意)これもその後の臨床で、現在は小腸経への施術を行っていません。ある時には小腸経への施術で脉も症状もよくなるのに、ある時には施術を加えると脉状は怪しく肩上部は逆に堅くなることを発見しました。そのうちに小腸経への施術を加える方が悪化することが多くなり、これは腹部を用いての客観的手法修練により手法の評価がより的確となったので精密な手法が行えるようになったためではないかと思われます。言い換えれば手法が甘いと小腸経への施術は剛柔の働きにより肺を助け全体がよくなっていたと思われます。ですから、最初の手法が完璧であれば補助を継ぎ足す必要はなく、小腸経への施術は精密な手法に至らなかった時に生み出してしまった副作用だったのでしょう。

 

 

不問診のススメ、典型的な脉状から病状を見破る方法

 

 

 ものすごい駆け足で話を進めてきたのでありますけど、何度か出てきたように私の臨床室では不問診がかなりのウェイトを占めています。これは師匠の師匠が、そういう人だったからです。師匠が入門された時には「不問診をしろ、それが脉が一番よく分かるようになる方法だ」と言われたそうで、私もそのようにされました。そして、うちの弟子にもさせています。患者さんというのは、弟子が間違ったとしても「あぁお弟子さんがやっていることだから」となってくれますし、それが当たっていたなら「先生いい教育してますね」とまぁこちらのいいようにばかり捉えてくれます。患者さんの反応を利用させてもらっているわけです。

 脉診には、インスピレーションというものも必要です。それから脉状を頭と文字と合わせようとしても覚えられないものがたくさんあります。私は覚え切れていませんし、今の立場だから言えることですけど覚える気もありません。

 ここからは、私が言葉にできた不問診の脉状をお話しします。ものすごく分かりやすい取っかかりなのですけど、ぎっくり腰の脉があります。これは片方の脉がすごく細くなり、もう片方の脉は開いてしまっているのです。大抵は左手の脉、つまり心・肝・腎の脉が細くなっていて、右手の肺・脾・命門の脉が開いています。「よく分からないんですけど腰が痛くて」という患者さんに、「これはぎっくり腰ですよ、突然に痛くなったはずだから」「へぇーよく分かりますね」「脉診というものはそういうものなんですよ」と臨床室での会話になります。典型的な発生の仕方をしていなくても、ぎっくり腰の場合にはまず脉診だけで見抜けます。うちの助手でも一度か二度くらい典型的な脉状を触らせたなら、「ぎっくり腰らしいです」「どこで判断した?」「脉診からです」と報告を受けています。勤務をして一ヶ月か二ヶ月もあれば、的確な診断が出来ているというのは嘘も何もない実話です。これが一番分かりやすいですね。

 次は骨折の脉状です。これは両方の寸口が強くなっています。女性に圧倒的に多いのですけど、椎骨が亀裂骨折を起こしているケースがあります。何故か若い人に多く見受けられます。老人なら俗に言う「むしゃげる」という状態で、もろくなったのでそのままつぶれたのですから納得できるのですけど、理由がよく分かっていません。また以前に私の足首の剥離骨折について臨床家養成講座の中でお話ししたことがあったのですけど、その後にも足首を強く捻挫したのがどうしても回復しきれないという患者さんが来院されたので脉診してみると両方の寸口が強いので、「これは剥離骨折をしているよ」と伝えました。どんな骨折でも見抜けます。それで骨折を確認する方法ですが、遠い場所から打診をするとその箇所へ響いてきます。そうそう、数日前に来院されたダンプ運転手のおばちゃんですけど、どうも腸骨が陥没骨折をしているみたいなのです。どれくらい前から陥没骨折が発生しているのかはハッキリしないのですけど、とにかくこの六年間で疼いてどうしようもなく三回入院したとのことです。その時にレントゲンで陥没をしていることは分かったみたいなのですけど、「手術をするか?」と尋ねられたので「どんな手術を?」と問い返したなら、「うーん」と医者がうなっていただけだと言います。手術の方が先でどんな方法で手術しようか後で考えている状況でしたから、手術は断ったそうですけど。疼きが治まると退院してくるらしいですが、説明をしてから遠くから打診をしてその箇所へ響いてきたので「これなら信じられますから治療をします」という話になりました。

 胃潰瘍の脉状については、先程に述べていますね。それからこれはあまり遭遇したくないというのか、遭遇してしまったならどのように対処するのかはその時になってみないと分からないのですけど           末期癌の脉状というのは、先程説明したト(しょく)の状態がものすごく強くなったもので指の下で蟻が這い回っているような感じです。治療室の床が抜けたのではと思えるほど、ビックリしたことが何度かあります。

 このように脉診とは患者さんが嘘をつけないものであって、不問診というものも出来ます。不問診が出来るようになるとますます治療家は信用されるようになって、患者さんはどんどん来院されるようになります。でも、不問診にうつつを抜かしているととんでもないミスもしてしまいます。だから、腹診や体表観察や望聞問切の四診法の中からでも引っ張り出せないものを不問診で補っているというのが私の治療スタイルです。、良い治療家というのか、パイオニアとして鍼灸を開拓していくポイントとなるのではないかと私は考えています。

 もう一つ追加ですけど、人体をメカニズムと捉える西洋医学に脉診の概念も理論も受け入れられないのは当たり前ですが、世界各地の医学の中には脉診をする医学があります。理論が違いますので脉診も違うのですけど、それらには学ぶべきものが多くあります。けれど、ここまで脉診が追求されているのはおそらく我々の行っている鍼灸医学の分野だけでしょう。予後判断は病体の経過から予測して行っているものですが、脉診のみがアクシデントさえなければ予言のできる医学だと、私は信じていますし今まで実践をしてきました。

 ですから普段は不問診をしていますけど、その反面で脉診至上主義に陥らないようにと常に戒めもしています。

 では、時間も超過していますので私からの話としてはここで終わります。

 

 

質疑応答

 

 

  質問 七十五難の説明で、腎を補ってから小腸という話でしたけどこれは火剋金ということであって腎に対する剛柔選穴とは違うのでしょうか?六十九難での腎虚で、腎と肺を補うのを、腎と小腸の剛柔選穴で行う方法とは違うのでしょうか?

  二木 七十五難型は、全て営気の手法で治療を行います。私の理解というのか臨床では剛柔選穴の場合には衛気の手法でしょうから、手法の違いがありますので剛柔選穴とはなりません。また蛇足ですが、仮に小腸経への営気の手法が剛柔だったとしても、その影響は肺経に与えられるものでしょう。

  質問 小腸経も営気の手法ですか。

  二木 そうです、小腸経も営気の手法です。七十五難の場合には、全て営気の手法を行います。

  質問 もう一つですが、肝実の熱を小腸に浮き上がらせてというお話をされていましたが肝実熱というのは病理的には胆に波及されるのではないかと考えられるのですけど、どうして小腸経なのでしょうか?

  二木 これは今日は脾虚肝実証のことを説明しなかったからなのですけど、胆の方から熱が入ってくるという形があるのです。これは病が陽経から順番に深い部分へと侵入してきて、一番深い少陽経の中でも胆は肝の中へはまり込む形となっているので、胆が病によって温まることによって一緒に肝まで熱を持つという肝実の状態があります。この場合には、病理的にも胆へ営気の手法により陰気を補うことで治療していくことになります。七十五難はそうではなく、肝そのものが熱を持っているのですから胆にも多少波及しているかも知れませんけど「北方を補い」ということで出来る限り肝実熱を外側へ押し上げてきたのですから、一番外側の太陽小腸経まで押し上げてきたという解釈にも繋がって営気の手法を用いれば病理的にも納得な訳です。

 (注意)七十五難型の治療については、前述の注釈の通りこの発表時点と現在では異なってきています。現在は小腸経への施術を加えておらず、小腸経への施術が効果的に働いていたのは腎経への手法が甘いための副産物だったと考えています。質問者の指摘が、正しかったことになります。

 しかし、変わらないのは脾虚肝実証の場合にはまず脾経へ衛気の手法から入り、続いて胆経へ営気の手法を行いますが、、肺虚肝実証の場合には腎経も陽池へも営気の手法を行っています。つまり、陰経への入り口が衛気の手法か営気の手法かの違いがあります。

 (注意)講義中にも話していますが、「臨床は生き物」ですから今後も変化していくことが予想されます。また全く変化をしなくなっては、環境に応じて変化している病体に気付かなくなったのですから治療家としての発展も止まってしまったことになります。常に最新の情報を手にし切磋琢磨できるように、治療家は研修会への参加を欠かしてはなりません。




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