参考提供

 

ニューサイエンスの考察(番外編)                滋賀支部    二木  清文

             健康的に「死」を迎える  

  「そらそらもっと早く」、あまり早く走るのでしまいには足がほとんど地面に着かず空中を滑って抜けて行くようでした。(中略)アリスはびっくり仰天して見回しました。「あら、私達ずっとこの木の下に居たんだわ。何もかも前とそっくり同じじゃないの」、「勿論そうじゃよ」と女王は言いました。「どうあって欲しいんじゃな」「それはね、私の国では・・・」アリスはまだ少しハァハァ言いながら言いました。「大抵どこか他のところに行き着きます、私達のようにどんどん長い間走ったら」「それはのろい国じゃ」と女王。「ところでよいかな、ここでは同じ場所に居るためには力の限り走らねばならないのじゃ、どこか他の場所に行きたいのなら、少なくともその2倍の速さで走らねばならないのじゃぞ」

(ルイス・キャロル著「鏡の国のアリス」、角川書店版より)

  この童話の一節、何気なく読んでいると私達の生命現象を実に的確に表しているのではないかと思うのです。何故なら私達は新陳代謝が活発で全力疾走をしているうちは成長を・体力維持を続けられるのですが、新陳代謝が不活発になり同じ地点にさえ立ち止まれなくなるから老いるのではないでしょうか?

  しかし、老いることは身体的問題であり、知識の蓄積だと思えば決して悲しいばかりではないし、「若さ」とは新しい考え方が受け入れられる人からにじみ出てくるものだと私は思います。そして、最終的に「健康的に死を迎える」ことは可能だと考えますし、これからはそうなるべきだと思うのです。

 

「死」のイメージ

  さて、いささか大上段に構えた題名の上に、童話で始まった内容ですから首をひねっておられる方が多いかもしれませんね。私の言いたいことを簡単に言い換えるならば  「死のイメージは脅迫をしながら後から作られたもので、現 在多くの人々が終末期を病院でチューブにつながれなくても人間らしく最期を迎えられるはずだ」 ということです(この後なるべく易しい言葉で説明しますから)。

  まず、死ぬことは後から作られたイメージであるという証明ですが、死刑制度が民衆への見せしめのものだということです。昔は町中を引き回したり張りつけにしたりして「死ぬことは恐いぞ恐いぞ、だから犯罪は犯すな」と脅迫の為に使ったのだと思います。ですから、殺されることは痛くて苦しくて悔しいことかもしれませんが、死ぬことそのものは恐くなくてもいいはずです。

  実際に、臨死体験(一度死亡と診断されたのに息を吹き返す体験)をした人からは「鮮やかな世界があって既に逝った人達と再会した」とか、飛び込み自殺未遂者からは「とても素晴らしい体験だった、もう一度体験してみたい」という話ばかりで、痛くて苦しいなんて言葉を聞きません。

 

十返舎一九のパフォーマンス

  次に、「尊厳死宣言」や自然葬といった一連の動きを見てみると、他人任せで死にたくないという意思を殆どの人が持っているみたいですね。中には「墓石を自分で建ててから死んだ」「葬式の用意が全部できていた」なんて話を聞きますが、最期まで人間らしかった例が沢山あるのです。

  『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九は死に際に弟子に命じてすぐに火葬を行わせました。すると、ドンドンパチパチピーヒャラピーヒャラと花火が打ち上がるではありませんか。芸能人でもあった彼が自分の身体を使ってただ一度だけ行えるパフォーマンスだったのです。奇妙なことに、彼は死期を悟っていただけではなく、間際まで誰にも気付かれないうちに身体に方向まで考えて花火を結び付ける体力があったことになります。つまり、 死ぬということは敗北ではなく、逆に健康的に死を迎えることさえ可能だということです 

 

健康にはそれぞれのレベルがある

  通常は『健康』という言葉を何も不都合がないという意味に解釈していますが、例えば目の見えない人や耳の聞こえない人や車イスの人には健康という状態は有り得ないのでしょうか?決してそんなことはありません。『健康』とは即ち生きているという意味と同じであり、様々な状態レベルがあるのです。

  病気は健康の反対語ではなく、健康という大きな円の中のある小さな円だと考えていただきたいのです。それが「健康的に死を迎える」第一歩です。

 

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