(これは2018年4月15日、滋賀漢方鍼医会の月例会で総会後に行われた副会長講演を文章化したものです)

 

「かきくけこ教訓」へ至るまで

 

 今年の新年挨拶ということで、「30年目のかきくけこ教訓」と大して話をさせてもらいました。これは東洋はり医学会の経絡治療大学技術講座で行われていたシンポジウム『営業反映の秘訣』で、高知支部の塩見哲夫先生が「かきくけこ」になぞらえて話されていたものをカセットテープがだめになるくらいまで繰り返し聞いて教訓にしてきたのですけど、30年間経過して自分なりに「このように消化をしました」ということをまとめ治したものでした。

 今回はその後ではなく、何故あの「かきくけこ教訓」を自分の治療室へ掲げ続けてきたのかまで、その前の方について話したいと思います。まぁスター・ウォーズが最初に公開されてから15年位して、「実はあそこに至るまでのエピソードがあるんだ」と数字を振り直して話を広げているようなものです。

 

 それぞれに「座右の銘」を持っておられると思うのですけど、例えば『一期一会』のように端的なものを掲げるのが普通なのですけど、教訓ではありますが「人間として」「治療家として」のかきくけこですから合計10項目にもなります。どうしてこれらを復唱するようになったのかを話していきます。

 それは私が先天性の視覚障害者として生まれたことから始まります。視覚障害者ですから盲学校で学んできたのですけど、滋賀県立盲学校しか私は知りません。普通はまず地域の小学校へ入学して、いくつかの小学校から集まって中学となり、高校になると地域なのか電車通学しなければならないか専門課程なのかなど分岐があり、大学へと続いていきますが、15年間も同じ校舎へ通っていました。ここに集まっている先生たちは鍼灸の学校を卒業しているということが、唯一の共通点です。

 

 それで私は米原の助産院で生まれています。その当時ならまだ産婆さんで生まれたというところです。私の親父は現在82歳ですから昔の人で、姉がいるのですけどやはり世継ぎがほしいということで男が生まれたことを非常に喜んで、知らせを聞いたなら嬉しくて一晩飲んでいたという話です。

 ところが、あくる日に会いに行くと驚いたことに両目が真っ白だったということです。焼き魚の目のようだったらしいです。生まれた米原は母親の実家だったのですけど、数日後には長浜の眼科へ診察に連れて行かれているらしいです。ここからどういう過程で先天性緑内障だということが判明してきたのかを聞いていないというか、しっかり覚えているはずの母親が既に亡くなっているので今からではわからないのですけど、それでも結構重度の緑内障だということがわかったみたいです。七ヶ月の時に京大病院へ入院して、一度目の手術を受けています。

 手術後には目の上へ金具が被せられるのですけど、これがかゆくなります。かゆいですし邪魔ですから、金具を取りに行こうとしてしまいます。「触っちゃいけない」と注意されても小学生でもおそらくそれは無理なことで、中学生くらいにならないと自制できないだろうと思うのですけど、七ヶ月の寝返りかハイハイを始めた程度の子供ですから何度手を振り払ってもまた手を金具へ出してくるので、仕方がないのでベッドの枠と手を紐でくくられたそうです。うちの宗教は仏教ですが、十字架のキリストのようにされていたとか。最初は泣き騒いでいたのですが、仕方がないのでそのうちに足をちょんちょんさせて遊んでいたらしいです。

 小学校へ入学してから最初の身体障害者手帳を交付してもらったのですけど、病名が「牛眼」と書かれてありました。緑内障はご存知のように眼圧が高くなり眼球が大きくなり視神経を圧迫してしまう病気ですが、先天性のものだとくりくりしたかわいい大きな目ではなく内部からの圧力によりものすごく眼球そのものが大きくなるので「牛眼」と表現されることがあります。正式な病名ではありませんから現在は診断として用いませんし、なんか差別されているような表現ですね。

 

 生まれて間もなくは左目の方には光への反応があったのですけど、右目はなかったそうです。ところが二歳手前で左目が急速に濁ってきてしまい、「あぁこの子供は物心ついた頃には全く光を知らない人生を送るんだな」と両親は思ったそうです。ところが奇跡的にその頃から右目が見えるようになってきて、幼稚園の物心ついた頃には右目が見えていて左目は全く見えなくなっていました。

 他人との比較はできませんから、全員片目で見ているのだと思っていたものです。「ゲゲゲの鬼太郎」のような感じですね。でも、触ってみれば目は2つあります。小学生の時に盲学校の生徒は片目というケースが結構多かったので、「両目で見たなら2つに見えないのか?」と教員へ質問をしたことがあります。「一つですよ」という返答に不思議がっていました。「あなたたちは2つ耳があっても一つに聞こえていてオーケストラだったなら左右で違うものも聞き分けられているでしょ、だから目も一緒で一つに見えているけど端っこになると右のものは右目で左のものは左目で見えている感じになる」と、またまた不思議でした。現在の高性能なヘッドホンで音楽を聞くような感じで、殆どは中央に聞こえていてさらに立体的な表現がわかるようなものなのかと想像しているのですけど、やはり私には未知の感覚です。

 一番視力が良かったときには0.2くらいあったのですけど、立体的に見えたという経験が一切ありません。ですから、キャッチボールはできませんでした。こんな風ですから、先程の「みんな片目で見ているのだろう」のように勝手に思い込んでいるところが多い幼少期でした。

 

 ところが一番最初に「自分の世界と世間一般の感覚はずれているんだな」と痛感した出来事がありました。高校一年生の時に「びわこ国体」があり、当時の全国身体障害者スポーツ大会も開催されることから障害者スポーツへ参加するようになったことです。

 滋賀県立盲学校は県内に一つしかない盲学校といいながらも、昭和の最後の方で全校生徒が少ない年でも110名程度、多いと150名はいて私が小学校の時には180名くらいいたかも知れません。単独の府県でそれも滋賀県でこれくらい在籍しているのですから、近畿の都会の盲学校はマンモス校にもなっていたので「目の悪い人はこんなにも多いんだ」と思っていました。

 車いすの人たちがいることは知っていましたし、手話がありますから聾唖者の人たちもいることを知っていましたけど、障害者の八割くらいは視覚障害者ではないのかという錯覚をしていました。少なくても半数くらいは視覚障害者だろうと思っていたのですけど実際に参加してみると、85%が肢体不自由者だったのです。聾唖者のほうが多くて、視覚障害者は5%程度だったのです。これは驚き以外の何物でもありませんでした。平昌パラリンピックでも視覚障害者はアルペンに一人出場しただけであり、そういう割合だったのです。「目の見えていない人は世間も見えていないんだなぁ」と感じました。

 

 もう一つ衝撃を受けたのは、伝統鍼灸学会へ参加したときでした。経絡治療といえば漢方鍼医会あるいは東洋はり医学会が幅をきかせているのだろうと信じていたなら他流派が非常に多くしかも勢いがある、そして東京ビッグサイトで初めて日本伝統鍼灸学会と全日本鍼灸学会が共催した大会だったのですけど刺激治療の人たちは経絡治療の10倍はいて、「わざわざそんな小難しいことを」のように見られているような雰囲気がありました。開業をしていて既に助手も使っている立場にまでなっていたのですけど、鍼灸の世界でも「まだまだ見えていないことだらけだ」と強烈に思い知らされました。

 こんな狭い世界で育つ条件だった私なので、「一期一会」のような一つの言葉で人生を語るスタイルは会わないと感じたのです。たくさんの言葉で自分の中で考えながら消化をしながらがいいのではと思っていたところ、「かきくけこ」で表現されていたものが何度も何度も復唱しながら消化していくのに「天の声」だったわけです。

 

 項目だけになりますがもう一度紹介しておくと、

  『人間として』

か 感謝する人間でなければならない

き 気のつく人間でなければならない

く 苦労を惜しむ人間ではいけない

け 謙虚な人間でなければならない

こ 心の広い人間でなければならない

  『治療家として』

か 感覚を磨かねばならない

き 「気」「気迫」を持たねばならない

く 工夫をしなければならない

け 決断力を持たねばならない

こ 根性を持たねばならない

 

 ざっと話をしてきたのですけど、身体障害者手帳に「牛眼」と書かれるほどでしたから緑内障の程度が非常に重く眼科医から「この子供の視力は二十歳くらいまで、二十五歳までには失明するだろう」と言われました。眼圧は正常なら10程度のものが、常に20から30くらいはあったらしいので、そのように予測されたのでしょう。小学2年生の時に左目からの涙が流れ続けて止まらなくなってしまい、彦根市立病院へ行くと眼圧が40から下がらなくなっていたので二度目の手術を受けています。

 その頃だったと思うのですけど、ほぼ毎日頭痛がしていました。癌の末期症状などを除いては、緑内障は人間の病気では最も痛みの強い病気だといわれています。ところが小学校も低学年では「こんなものだろう」くらいにしか認識がなかったものですから、後頭部の頭痛は発生するものだと思っていました。これがちょっと眼圧が上昇していたり雨の日だったりすると、窓枠に虹が見えるのです。電灯の周囲にも虹が見えていました。「俺は虹が見えているぞ、たくさん虹が見える」と自慢していたのですが、これは眼圧が非常に高い状態で限りなく全盲へと驀進しているサインだったとは後で知りました。そんな危ない小学生でしたけど、痛みということについてはこういう時期があったので耐えることが当たり前の修正が、身に染みついてしまっています。

 次に中学生になると思春期ですから身体がかなり変わってきているので、この頃に眼圧が上昇すると頭痛そのものは耐えられるのですが頭を上げていられなくなってしまいました。まだルーペを使って墨字(普通字)を読んでいましたから、教科書を読むことが苦痛で全く勉強に集中できなくなってしまうのです。毎日のように保健室で寝ているという時期があったのですけど、これが困ったことに給食の時間帯になると痛みが和らいでしまうので周囲から思い切り突っ込まれていたりしました。

 次に高校生になると、一年生のある日突然に強烈な眼球の痛みが発生したのです。最初は左目の痛みでした。けれど高校生というのは部活をしても生徒会活動をしても勉強以外なら何をやっても楽しいですから、「見えない目だからいいか」のようなところがありましたね。それが今度は右目の痛みとなり、こちらは見えている目ですから大変です。地元の眼科では診断が出ないので京大病院まで検査に出かけたなら、検査入院をいわれてしまいました。検査入院中も眼球の痛みが続いていました。そうしたなら今度は突然左目の眼圧が上昇してしまい、60にまで達してしまったのです。60にもなると膨張が大きすぎて、まぶたが閉じなくなっていました。緊急事態なのですけど、その夜は若い研修医の女医さんしかいませんでした。緊急オペをしようかどうか、随分おろおろされていたらしいです。もう少しだけ様子をということで朝まで待っていたところ、自覚的には排水溝の詰まりが取れて水が抜けていくような感覚だったのですけど急に眼圧が下がってしまい、さらにそれ以後は左目の眼圧が上昇することは未だにありません。

 この現象もよくわからないものでしたが、やはり右目の痛みは取れないままでした。トノグラフィーという眼房水の流れを測定する機器は検査中ずっと痛みがありますし、アプラネーションという眼圧測定の機器を研修医が行ったときには組織が傷ついたことがあったので「一度反対側に座らせろ」と暇つぶしもしながらの検査入院が続いたのですが、二週間で退院することになりました。「退院するのはいいけど痛みが全く変わっていない」「これはどういうこと」と、研修医に詰め寄りました。そうしたなら今でも斉藤先生とはっきりお名前も覚えているのですが、研修医が30秒ほど考えてわかりません」「ごめんなさい今の西洋医学ではわかりません」と答えてくれました。

 その頃の私は鍼灸を職業にするなどとは考えてもいませんでした。同じ盲学校の中に養成課程がありますから将来はそちらへ進むのかなぁ程度にしか思っていなかったのですけど、この言葉には感動をしました。わからないことをはっきり「わかりません」と、それも西洋医学の立場なのに発言することはとても勇気がいることだと逆に感動をしました。まだ高校一年生のくせにですが、将来に自分が医療で説明をしなければならない立場になったなら、わからないことは「わからない」、ごめんなさいは「ごめんなさい」ときちんといえる、そういう人になりたいなぁと思いました。

 

 次に専攻科理療科へ進学すると、自己治療というレベルではないですけど自分で毫鍼が持てるようになりましたからこめかみや天柱・風池などへ刺鍼をして、刺鍼することそのものがおもしろい時期でもありましたから繰り返していました。そのうちに色々と工夫もしながら結果的には自分の刺鍼によって、眼球の痛みを治癒させることができました。これで「自分は鍼の道でいきたい」と思うようになりました。

 障害者スポーツで知らない世界の方が大きいということを知りましたから、もっと鍼によって知らない世界を広げていきたいと思ったからです。それで三年生の夏休みに、大阪の宮脇先生の治療室を見学させていただきました。ここで驚いたことは、当時の宮脇先生の治療室はベッドが三台だったのですけど午前中だけで9人くらいはされていたと思います。奇形治療をテスターでまず判定しPM鍼を入れて奇形灸をして、本治法と標治法にまたお灸と誰かがつきっきりで治療をされていたのですが、それでも午前中だけで9人というのはすごい数でした。おそらくですがベッドの数が足りなくなってしまうというのが理由の一つだったのでしょうけど、「この治療はここまで回復しましたからこれでいいですよ」とか「かなりよくなっていますから次で治療は終了しましょう」など、治療の終了宣言を出されていました。「あっこれだ!!」と思いました。

 「自分が治療室を持つようになったなら、こういう治療の終了宣言を出す治療家になろう」と、このときに絶対的に思いました。そして下積み修行へ入りお師匠様のことはあちこちで話をしていますから本日は割愛しますけど、私が実際に治療室を自分で始めるときに考えて実践したことは、眼球の痛みなどで高校生の時から病院をたくさん受診していて病因で嫌だと感じること、例えば待ち時間がやたら長いとか出される薬も本当に必要なのかとか。自分が嫌だと思ったことはおそらく90%のひとは嫌だと感じているはずなので、自分がこうだったならよかったのにと思うことは80%の人たちも同じように考えるはずなので、だから「自分が嫌だったと感じたものは一切やらない」「自分がこうだったならよかったのに」と思うことだけを実現しようと思いました。一つの例としては予約時間をきっちり守る、治療中に説明をしても理解し切れないはずだからパンフレットを作成する、BGMではなくラジオを結構な音量で流して色々な角度で情報を伝える、そして「笑いがある治療室」を目指そうとしました。もちろん治療の終了宣言が出せる治療家でなければなりません。

 

 こういう下地があっての「かきくけこ教訓」へとつながっています。私は本当に小さな世界しか知らない状態で育ってきてしまった人間であり、薄いスクリーントーンを隔てたところに大きな世界が広がっていたことに、何度も何度も衝撃を受けてきました。そして今も私が見えている世界は、年齢や経験に伴って社会人として恥ずかしくない程度には広がったと自負はしているのですけど、それでもちっぽけなものかも知れません。

 だからこそ「かきくけこ」と5項目の教訓を並べることで自らを戒め高めていこうと、いつも思っています。一言の「座右の銘」では私は足りなかったことが、おわかりいただけたでしょうか。皆様も自分の生い立ちや境遇から、それぞれの人生の教訓たる言葉を持って歩いてください。




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