ニューサイエンスの考察(4)                              滋賀支部    二木  清文

「機械の中の幽霊」を越えて

  「ターニング・ポイント」の中に、こんな会話の例が載っています。子供が高熱を出して病院に連れられて来た時に、母親が「この子は熱があるのでペニシリンを注射してやってください」、すると医者が「この子にペニシリンは効かないんですよ」「貴方はそれでも医者ですか!注射してもらえないのなら他に行きますよ・・・」。

  時計修繕医学の見本を患者側から求めている、今やどこでも聞かれる例です。多分この母親の発想は「悪い部分があれば人体なら手術によって修理してもらえるのだから、病気も薬によって修理してもらえる」というものでしょう。鍼灸院を訪れる患者の多くも同じような発想をしていると思うのですが、それらに振り回されていたのでは経絡治療家でも本当に人類を救うことはでませんよね。何故、こんな発想が出てきたのか?勿論ルネ・デカルトの哲学の影響によるのですが(彼の名誉の為に付け加えるなら、精神と物質を強力な独断により分離して考える還元主義哲学を打ち立てたが、精神は人間にのみ宿るとしたのが失敗で、彼自身は神秘主義と合理主義を共に理解する人物であり、ものまねが特徴を必要以上に誇張するようにその哲学の二元論だけが色濃く誇張されてしまったのです)、それらは多くの著書に任せて、進化論の続きから私なりに考察してみたいと思います。

 

  前回「ポスト・ヒロシマの課題」では、進化はなだらかに進行するのではなく一時の爆発的現象であり、時々袋小路に迷い込んでしまうのだから人類も進化の袋小路に迷い込んだ哀れな種族なのかもしれない、というところまで話が進んでいます。化石の検証からも五千年前から脳の容積も含めて人類の形態はほとんど変わらず、内面のみが発達してきたようです。月並みな表現かも知れませんが「進化とは出発点も目的地も分からない旅」なのだから人間が最終目的地だと信じたいのですが、残念ながら現時点では断言はできないと思いませんか。それの追加証拠として、度々登場するアーサー・ケストラーは人類の病的症状を4つに分類しているので、それについてもう少し書いてみます。

 

      ❶人類だけが同種内殺戮を繰り返す

  なわばり争いの激しい動物でも一方が敗戦の意を示すか敗走することで戦闘は決着し、極特殊な場合を除いては決して相手の命を奪うことはありません。しかし、人類だけが同種内での殺戮ができるのです。大義名分があれば勿論、憎しみで相手を殺せるのは人類だけです。革命戦争・独立戦争・宗教戦争・戦争を終わらせる為の戦争・・・・と、無差別に人民を攻撃する戦争は、人類が現れて以来まるで天気予報図の高気圧のように、移動をするだけで地上から戦争が途絶えたことがありません。

      ❷犠を捧げる儀式を行う

  人類が集団生活を始めてから地方によっては今世紀の始めまで、英雄・子供・処女と多くの人が時には強制的に・時には自ら進んで犠として捧げられてきました。日本でも古墳に埋葬されたリ主君の為に殉死した人が大勢いました。

      ❸前記の項目を撤廃しようとしない

  前項は明らかに矛盾と欺鰻に満ちた行為であると知りながらも、人類が繰り返している事実です。❷については情報化社会の影響によりその形こそ変えられたが似たようなことをしているし、❶については経済問題を絡めながら激化の一途である。これが最高生命体の行動であろうか?

      ❹科学と倫理の著しい成長曲線の差

  そして、最も大切な項目は知性と倫理のアンバランスです。紀元前6世紀にギリシア人は星を眺めて科学の冒険に乗り出し、今世紀には人間を月へ送り込むなど、科学における成長曲線には指数関数のような素晴らしいものがあります。ところが、偶然とは思えないのですが同じ紀元前6世紀にインドでは仏教・儒教・タオイズム(道教)が発生しているのに、今世紀にその形はナチズム・毛沢東主義・スターリン主義と成長のかけらも見られないのです。この科学と倫理の成長曲線の差こそ、人類最大の病状と言えるでしょう。

  さらに、前記の症状をフォン・ベルタランフィーの表現で要約すると、「純粋に人類の進歩とは知的進歩に限られる。果たしてネアンデルタール人が敵の頭蓋骨を割るのに用いた石よりも現代の戦闘方法の方が好ましいと言えるのだろうか?しかし、老子や荘子の説いた倫理基準が現代の我々にも通用することは確かである」。

 

  さて、ここまで私は常に逆理的表現を用いてきたし、多分これからも逆理的表現を用いるのは、正当な理由が少ないのを検証するよりも端的で早いからです。こんな絶望的将来を予言するようなことを書いてたら「二木は本当に臨床家なのか」と疑われそうですね。しかし、私は臨床家です。素晴らしい『命』の為に経絡治療を基本に頑張っている(つもり)なのですが、現在の我々は「生きている地球“ガイア”」の住人として余りにも身勝手過ぎるから、生意気だけど何かの変化につながればと、意見させてもらっています。

  “ガイア”について少し説明すると、ジェームズ・ラブロックとリン・マーギュリスによって提唱された理論で、NASAの火星探査計画の中から偶然生まれたものです。火星の生命存在の可能性を検討する為に大気分析を用いた研究の末、「揺らぎ」の存在しない安定し過ぎる大気状態に生命は存在しないという結論を得た。バイキング宇宙船の探査結果は生命は存在しなかった。その時、もし火星から地球を眺めて大気分析をしてみたらどうなるだろうかとラブロックは発想したのです。地球の大気は「揺らぎ」ながら自己修復性・自己更新性を有するシステムであり、まさに地球そのものが『命』を持って「生きている」のです。そこで、“アース”は岩石の惑星を意味するところから、生命体としての地球を区別するにはギリシア神話の大地の女神“ガイア”という名前がふさわしいと「ガイア理論」は出発しています。

念のために付け加えるなら、ガイアはノーベル賞授賞物理学者のイリヤ・プリコジーヌの考案した「散逸構造」理論に見事に合致した科学システムであるし、決して思考を持った動物のような存在を意味しているのではありません。機会があれば“ガイア”の持つ意味の素晴らしさについても書いてみたいと思います。

 

  有名な表現である「機械の中の幽霊」(The Gost in the Machine)は、哲学者ギルバート・ライルが著書「心の概念」(1949)の中で、肉体と精神との事象の間に通常立てられている区別を攻撃して、敢えて軽蔑を込めて用いた言葉です。後にもっと凝った表現で「機関車の中の馬」とも表現されたのですが、要するに時計修繕医学をもたらす精神と肉体を分離して考える科学万能主義(還元主義)のパラドックスへの挑戦なのです。

  実際、人体についてもDNAの構造からアミノ酸の化学式まで全て解読されてしまっているのですが、唯一解析できないのは神経繊維の結合部分の空間、100〜300Å(1オングストロームは10-8mm)のシナプスの隙間だけなのです。しかし、科学者は構造が分かっても何故別々の働きを細胞がするのか、意識はどこからくるのか、生命誕生のメカニズムはどうなっているのかというプロセスは説明できないのです。こんな時には、人類の存在は宇宙の存在の当然の結果である、と「人間原理」を持ち出して苦しい説明をしてくるけど、個人的には絶対に認めたくない。つまり【機械の中の幽霊】とは、「人間とは、神経結合のわずかの隙間に存在している幽霊なんだね」という皮肉を込めた意味なのです。

  そんな馬鹿な話はない。我々は生命統制機構である経絡を通じて気を動かし健康を回復しているのです。決して機械の修理をしているのではありません。そこには「治して欲しい」という患者の気持ちと、「治してあげたい」という治療家の気持ちが一体となって初めて可能になるドラマがあるはずです。確かに『心』は脳から発生しますが、脳を超える実体なのです。『心』の存在なくして人体は語れないんじゃないでしょうか?

 

  30周年記念講演の冒頭でカブラ先生は、「本質的な危機は認識の危機なのです」と発言されています。人間も進化の袋小路に迷い込んだ哀れな種族なのかも知れないのだから、認識の危機を避けて安易な時計修繕医学に走っているようでは、本当に絶望が待っているだけでしょう。それを乗り越えるには、我々自身の手で進化を進める以外にはないと思うのです。どうやって進化するのか?我々が等しく持てる武器『心』の進化、それも「より高次元の心    スーパー・マインド」の発動以外にはないと思うのですが・・・

  人間が「人体という機械の中に住む幽霊」ではないと信じているから、ホリスティック医学の精神は必要だし、人間は自ら変わってゆかねばならないと思います。

        参考文献

バーバラ・ブラウン          「スーパー・マインド」              (紀伊國屋書店)スティーブン・ホーキング    「ホーキング、宇宙を語る」              (早川書房)アーサー・ケストラー        「機械の中の幽霊」                    (ぺりかん社)

                            「還元主義を超えて」「ホロン革命」

フリッチョフ・カプラ        「タオ自然学」「ターニング・ポイント」

ケネス・ペレティエ          「意識の科学」

エリッヒ・ヤンツ            「自己組織化する宇宙」

ジェームズ・ラブロック      「ガイアの時代」                    (以上、工作舎)




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