心身一如の医学を目指して心理学を考える

  ── “今、ここ”の探求 ──          

二木 清文

 

 

『自我とは一つの観念であり、動かしがたい事実ではない』

ア・コース・イン・ミラクルス

 

『客観的』と言う言葉があります。当たり前の説明ですが、誰が見ても同じに見えると言う意味です。そんな事が本当にあるのでしょうか?今までは信じていた事ですが、まずはとても簡単な実験をしてみましょう。目を閉じて自分の呼吸に集中して下さい。それでは、どうぞ....

 

普段は気にもしなかった呼吸のリズムや心臓の鼓動や内臓の動きなどが感じられた事と思います。我々が「現実」と呼んでいるこの世界には少し注意を向けるだけ、でこんなにも身近に気の付いていなかった現象が溢れているのです。そして、気を付ければ感じる事の出来る幅広い世界に浮かんでいるかの様なのです。
  

これをもっと具体的に例えるなら、我々が住んでいる地球の陸地は7分の1しかないのにほとんどが陸地のように錯覚をしています。さらに地図では明確な境界線が描かれていますが、遠くからではそのように描いても間違いではありませんが、実際の海岸線は波が押し寄せては返し満ち潮や引き潮により、それは無境界のうちにつながっているものなのです。つまり、どの部分に焦点を合わせるかで見える世界が違ってくるのですから、「現実」とは自分で組み立てているものなのです。今、自分が何を求めているかで決まるのです。

“今、ここ”が全てなのです。

では、“今、ここ”を求める旅に短い時間ではありますが一緒に旅立ちましょう。

 

心理学については古代のソクラテスやプラトンの時代から語られ続けてきました。しかし、その最初から唯心なのか唯物なのかと「心身」と言う言葉があるように心と身体は分離されてしまったのです。そして、デカルトやニュートンの思考に根ざした機械論的還元主義に心理学も傾倒をして行ったのであります。

魚に手を叩いてからエサを与える習慣を繰り返すと手の音に反応するようになったりエサを見せると胃液を分泌する「パブロフの犬」等の条件反射や、オペラント(条件付け)反応と言う横木を押さえるとエサが出てくる仕掛けにどんな反応を現すかを見た「スキナーのねずみ」等の実験が発表され、生理学の言葉だけを用いて心理を語ろうとする試みがなされました。この試みは確かに思考パターンを説明するには有効ですが、この行動主義心理学と言われる学派は動物と人間の本質的違いを認めていませんでした。そのために精神病の理解が深まるにつれてその比重は軽くなってしまいました。

 

人間の精神病を研究した学派に、ジーク・ムント・フロイトを頂点とする精神分析学派があります。フロイトは当時ヨーロッパの女性にみられたヒステリーに対して催眠療法を見て強い衝撃を受けました。フロイトはその分析から独力で「無意識」の存在を開拓しました。これは、意識と呼んでいるものは心理全体からは氷山の一角であり自我を超えた領域の存在をも示唆したのでありますが、フロイトはそれを牽引する理論を生涯において三度変更し、無意識の持つ強大さは個人には全く関係のない次元で既にプログラムされたものだとされていました。そのために分析はあたかも外科医の如く一切の感情を加えてはならないと、患者と直接目を合わせないようにカーテン越しにいなくてはならないとさえ言わせていました。やはりこの学派も機械的に精神を分析できると考えていた事には違いはなかったのです。

このような分析方法では、誰一人として精神病にかかっていない人間はいない事になってしまいます。(確かに現代人は何らかの精神病症を持っているとは言われますし、歪みのない人間とはどのようなものなのか・存在をするのかも説明が出来ないのは事実ですが)。

 

ところで、「健康とは身体的や精神的な面ばかりではなく自然や社会をも含む環境とのダイナミックなバランスから生じる幸福感」と定義をしたのはフリッチョフ・カプラです。身体の調子が良ければ心はウキウキ楽しくて幸せを感じると言う事を表現しているのですが、心が身体を抑えつけて病気を発生させている場合にも「健康とは幸福感と同じだ」と考えている医者なら対処ができるはずなのです。

私もアルバイトで幾人かの看護婦の卵たちと出会う機会がありましたが、彼女たちと医学論議の中でいつも喋る事があります。「医者に行くと言う事は身体が治ると言う事だから本当なら楽しくて仕方のないことではなかっただろうか?それがほぼ例外なく苦痛を感じていると言う事は、期待に応えていない不親切な行為しか行われていないと言う事だろう。僕らが生まれる以前から医者嫌いと言う言葉は存在してはいたけれど、その言葉を生きながらえさせている僕らが本当は一番悪いのではないだろうか」と。

今まで眺めてきた心理学派は機械論的に解釈をしようとしています。実際に先端の解剖学ではミクロの単位まで解析が進んでいるのに、いくら細かく解剖をしても精神がどこに存在を機能局在をしているのか、どこで爆発的エネルギーを発生させるのかは解明ができません。人体の中で唯一解明の出来ない部分はシナプス結合のわずか 10オングストロームの隙間だけなのです。つまり今までの心理学や解剖学からは『人間とは10オングストロームの中にいる機械の中の幽霊だ』と定義せざるを得ないのです。

 

これに対してアメリカで発生した「人間性心理学」と言う学派は、アブラハム・マズローを中心に、「フロイトは貴重な人間の病んだ半面を提供してくれたが、今や我々は健全な半面を補わなければならない」と積極的に人間的側面を取り上げました。

マズローはピークモーメント(至高体験)を調べました。ピークモーメントとは、野球で非常に苦手なバッターに対した時に突然ウィークポイントが見えて理想的に打ち取れたり転落事故の最中にひらめきがあって命が救われたなどの事で、すがすがしい感情を持つものです。ピークモーメントを体験している人は90%を越えているのに「妄想じゃないのか」等と言われるのを恐れて内に秘めているケースがほとんどですが、これを調査する事によって被験者にもこれらを語る言葉とアイデンティティーが得られたのでした。

これにより自我を超える領域が健全に存在する事が確認出来ました。人間が他の動物とは一線を画している部分を健康的側面より強調したのです。人間性心理学は、人間の精神をヒエラルキー(階層構造)になっていると想定できる点で、フロイトが意識は氷山の一角だからこれを超える部分があるかも知れない程度だったものが、自我を超える領域は見えないだけの確かに存在する積み上げられた部分だと受動的ながら証明しました。

 

その当時LSD等を用いて精神病の治療を行っていたスタニスラフ・グロフは、その分析から自我を超える領域の存在を確認し開拓を目指すべきだと発表をしました。これを聞いた聴衆から「あなたの見解はマズローとそっくりだ」と紹介を受けて、トニー・ステッチを交えての会合により、自我を超える分野を積極的に開拓する学派としてトランスパーソナル心理学と言う学派を創設する事に合意がなされました。

トランスパーソナル心理学は、積極的に自我を超える領域を開拓しようとする点が他の学派と異なる最大の特徴であります。オカルト指向と勘違いされる所ではありますが、あくまでも科学的手法や実体験に根ざして正常な人間の一部の開拓を目指しています。

ここでトランスパーソナル心理学と混同される学派があります。パラサイコロジー(超心理学)は、潜在能力によりサイ(超能力)現象を主に研究する分野です。トランスパーソナル心理学(超個心理学)は、個人を超える領域の積極的開発であり能力の開発ではありません。

 

トランスパーソナル心理学の論客ケン・ウィルバーは、その著書「意識のスペクトル」に於いて意識の様々な状態を色(帯域)として表現し、そのレベルが生成される過程を説明しアプローチを解説しています。

ウィルバーは心理を理解する「知」の様式には二種類あるとし、一つは観察するものと観察されるものが存在する二元論的様式であり、もう一つは主体と客体は本来は一つであったという一元論であります。「心」を理解するには 一元論的様式を用いなければならないと迫られます。何故ならこれから説明する精神の生成過程は自己中心的が故に周囲をねじ曲げて自らが創り出してしまった世界にほかならないからです。基礎知識のない方には底辺から話を進めるべきかも知れませんが、精神の生成過程から高いレベルより自我へと降下をするスペクトルが形成されるようにを追ってみましょう。(図「意識のスペクトル」、春秋社『パラダイム・ブック』より)

  心のレベル   我々人間を含めて動物や植物や星、言い換えれば「命」とは一体いつ・どこで発生をしたのでしょうか?「何故」と言う悪い癖を排除すれば全ては「宇宙」から発生をしているのです。「心」とは宇宙と一体であり、観察者も観察されるべきものも本来は存在せずに全ては一つのものだったのです。したがって以下に述べるレベルは本質的には幻影であります。そのように言われても素直に受け入れがたいとは思いますし、この領域は様々な宗教や伝統でも抽象的言葉に留まっています。例えば仏教では「シュンヤータ」(空空しばしば虚空と誤訳されていますが単なる空間ではなく源から拡がる空間を現す)や道教の「タタータ」(あるがまま)等、全一の世界であります。「悟り」の世界とも言い換えられます。「その瞬間に追い求めて来たものは自分の中にあったのだと、それを追い求めて来た努力そのものがただ々邪魔で、大笑いをして一杯のお茶を所望した」と修行僧の言葉にあるように、今は『つねに・すでに・あるもの』と表現するしかないでしょう。

  超個的レベル   このレベルは宇宙と一体だった次元と自我の次元との間に位置する領域で、「神秘体験をした」と言う時にはこのレベルまで上昇をしていると思われます。大乗仏教では「アーレオリ」と言われ超個的意識の収納室としてユングの「アーキタイプ」(元型)と同義に解釈されていますし、ヒンズー教の「シャリーン」は原因となる本体と言う意味で、本当に存在するかどうかは別として幽体離脱や透視やテレパシーなど潜在能力とされている現象はこの領域に由来すると言われます。

  実存のレベル   自己を意識し始める領域です。自分を意識すると「私」と「世界」、つまり見るものと見られるものの第一の二元論が発生します。「私は身体である」とは言わずに「私は身体を持っている」と普段表現をしていますが、これはあたかも車や住宅を所有しているのと同じ感覚であります。そして「死ぬ事は生存からの破滅だ」として人間は死の恐怖から狂ったように逃走し、生と死の一体性が理解出来ずに、「生」に執着する第二の二元論が発生をします。

  生物社会的レベル   社会に生きる為の知識を貯えるレベルです。通常は意識化されていません。この領域はあまりにも短い為にハッキリとは現れてこないケースが多いようです。しかし、社会的知識の貯水槽として働く為にいつしかリアリティーと勘違いをしてしまい、映画のスクリーンのようにこのレベルはどこまでも独自色を表さないままに影響を及ぼします。

  自我レベル   このレベルは通常の生活をしているレベル、あるいは最も多くの人達が属しているレベルとも言えます。アイデンティティーはさらに下降し、今度は一見死なないかにみえる観念に逃げ込んでしまいます。観念に逃げ込んでしまう為に、冒頭で行った実験のように「私の身体」でありながら身体感覚の殆どを手放してしまっています。宇宙との一体性から主体と客体の第一の二元論が発生し、生と死の第二の二元論から、今度は自分の肉体をも切り離してしまった第三の二元論を発生させます。

  哲学のレベル   生物社会的レベルが世間の常識と言ったフィルターになっているのに対して、このレベルは個人に由来する倫理観によって個人的フィルターを形成します。そして、この倫理観は自分に源を発しているにも関わらず好ましくない自身(自分)を否定する第四の二元論を発生させ、次の「影のレベル」を形成します。

  影のレベル   精神療法が主に扱った分野であり、精神病と言われるものはこのレベルにあると思われます。さらに狭められたアイデンティティーは個人的哲学にそぐわない好ましくない自分を否定し第四の二元論が発生します。しかし、源が自分にある為に好ましくない排除した部分は影のように着いて回ります。影とは嫌われるだけで切り離そうとしてもブーメランのように戻って来ます。歪められた自画像がさらに狭められると、自己のほんの一部のみしか認められなくなりペルソナ(仮面)を被り精神病へと落ちてしまいます。

 

以上が「意識のスペクトル」の生成過程ですが、これを逆順に統合をする事がセラピー(治療)であります。

 

スタニスラフ・グロフは徒労も多かった精神療法に限界を感じていた一人で、LSDを用いた研究グループに参加をしました。そこで彼が見せつけられたものは、めくるめく自我を超える世界を体験する被験者の話でした。その分析は統一性を保ち、LSDが非難を浴び禁止された後に自ら開発したホロトロピックセラピーにおいても全く同じ結果が得られた事から、その分析は超個のレベルが健全な形で存在する事をより説得力を持って証明をしています。

グロフは実験の積み重ねから「意識の地図   カート・グラフィー」理論を完成させました。これは、それまでの精神医学では異常とか狂気と言われていたものをモデルに組み込むものであります。「意識の地図」はそれまでの精神医学の扱ってきた自伝的レベルに加えて、『誕生と死』を扱う「基本的分娩前後のマトリクス   BPM」と、超個のレベルの三つから成りますが、これらは「スペクトル心理学」と十分に対応をするもので、この二つを組み合わせる事により意識の分析が効果的に進められるものと思われます。

 

  自伝的レベル   これはスペクトル心理学の「自我レベル」に相当するもので、現在までの出来事や未解決の問題に対応します。グロフはここに凝縮体験(COEXシステム)と言う概念を付加する事を提案しています。COEXシステムとは、モザイクのように似た体験、例えば4才の時に兄弟に悪戯をされて刃物を飲み込んだ等の体験は同じ様な恐怖体験と一連の固まり(クラスタ)を形成し、何か共通項となる恐怖を伴う体験をするとクラスタが想起され連続的にそれらが呼び起こされます。共通項には生命の危機を感じさせるものや窒息状態や自尊心を傷つけられたと言うものまであります。さらにCOEXシステムはBPMの特定のレベルに関連すると推測出来ます。

  基本的分娩前後のマトリクス   これはスペクトル心理学の実存レベルに相当します。自己イメージが外れると無意識が自覚化し、ほとんどの人が情緒的・身体的苦痛を感じる再体験をします。この苦痛が限界を超えると全人類の苦痛を体験しているかのようにさえ感じられます。自伝的レベルでは死にかけた体験のある人だけが想起する現象ですが、このレベルではほとんどの人が麻酔や鉗子の使われ方など誕生時の精神外傷と同一化させ観察する事が出来ます。BPMは個人的無意識と集合的意識や伝統的心理学と神秘主義との重要な境界線となっています。それではここでもう一度静かに目を閉じて下さい。あなたが子宮から押し出されて誕生をするまでの再体験をしてみましょう。

BPM1 ─ 子宮の中での母胎に守られ自らを守る必要もなければ食事をする必要もない、いわば「至高」の状態であります。何も心配のいらない状態ではありますが、いつまでもそこに留まれる訳ではありません。いわば、現在生きている状態からいずれ追放をされるのに似ています。

BPM2 ─ 子宮から押し出される分娩の第一段階です。天国だった子宮から狭い産道に押し出されてしまう「楽園追放」の状況で、急激な状況変化に恐怖をします。

BPM3 ─ 出口なしの窒息状態の分娩の第二段階です。狭い産道の中で窒息状態となり、しかも出口は見えてこない窒息の恐怖状態にあります。しかし、「楽園」に戻る事はもはや不可能で、先を目指すしかありません。

BPM4 ─ 母胎との分離が完了し、新たな世界に誕生する分娩の第三 段階です。狭い産道から抜け出し新しい世界へと飛び出すと、そこは見るもの聞くもの全てが初めてで新鮮な世界であります。初めて自らの力で呼吸し母胎との完全な分離により「楽園」から新たな世界への旅立ちが完了します。  

グロフはBPMを「誕生=死」と全く同じではないかと述べています。「死亡」という体験は誰もが一度は通過をするものの、誰もまだ体験はしていないので断言はできませんが、あまりにも「臨死体験」との証言が近寄り過ぎているのです。BPMは精神外傷や人格変容を極めて合理的に説明できる事にも理由を求められます。逃避・逃走反応には、このようなメカニズムがあるのではないかと推測されます。誕生精神外傷を治癒するには、もう一度それを体験する事だと言えるでしょう。

  超個レベル   文字どおりスペクトル心理学の超個レベルに相当します。BPMの領域を超えるとトランスパーソナルな帯域、ユングが「元型」と呼んだ領域を証明するかのように人類誕生のプロセスを目撃するなど個人を超え宇宙や全存在のあらゆる情報と接している事を示唆しています。それは宗教の枠組みに近いものだと思われます。

 

では、トランスパーソナルな状態とは特殊なセラピーや体験がなければ踏み込む事は出来ないのでしょうか実は通常の生活では踏み込めないものの特別でもない行動によって簡単に入り込める領域なのです。

例えば100m競争をしているとします。わずか15秒前後のレースなのにスタートから30m・50m・ゴール直前と様々な事を考え、あるいは普段悩んでいた事などを解決する糸口をつかんでいたりします。この時間は、やはり時計では15秒しか経過をしていないのに本人には1分や時には果てしなく長かった時間にさえ感じている体験を誰もがお持ちでしょう。つまり、時間とは純粋なものではなく、自らが作り出している幻想だと言う事が再び証明されました。

チャールズ・タートはこれらの現象を子細に検討し、「変性意識」と名付けた通常の意識に対して薄いスクリーンを隔てて超個の意識状態が存在している事を積極的に提案しています。変性意識は意識が異常な状態に陥ってしまったのではなく、むしろ限局した分野から本来の広大な分野へと解き放たれた状態であります。体外離脱や透視やテレパシーなども「リアリティーとは自らが作り出したもの」とすれば、むしろ当然の事であります。

 

「リアリティーとは自らが作り出したもの」という証明は、アイン・シュタインの相対性理論からも説明が出来ます。理論からは空間と時間は別物だと我々は感じていますが、空間と時間は本来、四次元時空連続体として区別されない一体のものなのです。すると、四次元以上の次元が現在の我々には体感は出来ないものの存在をするかも知れません。私はオカルトを求めてはいませんが、今までに受けた様々なセラピーの中で、多次元に跨って存在する意識体からメッセージを受け取る「チャネリング」に唯一、納得できる答えを導いてもらえた経験があります。

私は先天性の視力障害者として生まれましたが、親戚を見渡しても遺伝を疑う余地はありません。無理に理由をつけるなら分娩時の圧迫により緑内障になったと言えます(死ぬ過程よりも死ぬ瞬間に恐怖を感じているのでBPM3に問題があると自己分析をしています)。

「どうして目が見えずに生まれてきたのですか」との質問に、あっさりと「いらないから置いてきた」と答えられてしまいました。現在の私の仕事を見てもそうなのですが、目が見えない故に様々なチャンスに恵まれて成長が促進されてきた節が大いにあると認めます。受け入れ難い方も多いかも知れませんが、「此の世には自らが設定をして生まれてきたのだ」と私は直感をしました。これを確かめると「その設定を忘れてしまっている人達が多いのです」との答えでした。

「死ぬ事とは何ですか」との問いには「誕生と同義です」との答えでした。細胞レベルでは常に脱落と再生を繰り返し、つまり、死と誕生を繰り返しているのですから昨日と今日とでは違うのだし、現在と次の瞬間では違うのだから常に死にながら生まれていて誕生と死は同義だと言われました。ただ自覚的には切れ目が認識出来ないので誕生と死が別物だと思えてしまうのだとも言われました。

 

駆け足でしたが我々の心理構造を探求した結果、何が最も大切かと言えば現在の自分そのものである「今、ここ」と言う自覚であります。リアリティーとは自らが作り出したものなのですから、邪な我欲に依らない限りはあなたが望んだものは全て実現をするのです。

「今、ここ」が全てであれば、「無限」とは果てしなく広がる空間ではなく隔たりのない事であり、「永遠」とは過去から未来への膨大な時間の流れではなく無時間性の事だと言えるでしょう。とても鮮やかに残る思い出はいつまでも鮮烈なだけでなく、新たな広がりを持っている事によっても証明がなされるでしょう。

心と身体を再び統合させるには「今、ここ」を自覚する事なのです。

 

最後に、とても簡単な臨床例を報告します。一例目は鬱病を自覚していた患者で、初回は親戚に付き添われて来院をしたものの二回目は案の定「鬱陶しいから」とキャンセルの電話だったので、「仮面を被って自分の名前も消すような行動は気持ちが良いですか」と尋ねて、奮起させ仮面を脱ぐ事に成功をしました。二例目は16才の時に交通事故で左半身麻痺になった患者に水泳を勧め、奮起はしたものの「思うように泳げないからやっぱり夢を見てた」と半分スネるので、麻痺側は浮かんでしまう事から「沈み方が判れば浮き方も判る」と沈む練習をさせると、すぐに泳げ出しました。二つとも「今、ここ」を理解させただけなのです。

鍼により脉を調整できる技術が何よりも大切ですが、患者の心理によっては脉が崩れてしまったり、あるいは自らの力で脉を整えてしまう事もありえます。

「医者嫌い」と言われない為にも、心理学的アプローチも試みて行きましょう。

 

  参考文献

C+Fコミュニケーションズ 「パラダイム・ブック」   (日本実業出版社)

フリッチョフ・カプラ   「ターニング・ポイント」      

                         「タオ自然学」

チャールズ・タート    「サイ・パワー「       (以上、工作舎)

ケン・ウィルバー    「意識のスペクトル」 ⑴・⑵

         「アートマン・プロジェクト」

スタニスラフ・グロフ    「脳を超えて」        (以上、春秋社)

ジョン・リリィー     「意識の中心」         (平河出版社)

エクトン     ハ 「ECTON」         (VOICE)




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