陰実証の臨床報告

二木 清文

 

  1.はじめに

今や“漢方はり治療”においては当然認識されていることではありますが、素問・調経論には四大病型として『陽虚外寒・陰虚内熱、陽盛外熱・陰盛内寒』とあります。証の決定が古典鍼灸術においては最も大切なことですが、単に「肝虚」とか「脾虚」では病理を考慮しているとは言えません。病理で最初に唱えられることは寒熱の状態であり、熱の進行過程を把握することにより治療法も選択されるのです。

 

  1.1  陰虚・陽虚について 

陰虚や陽虚という言葉についても既に理解されているとは思いますが初心者のために説明しておくと(かなり荒っぽい表現ですが)、陽気とは暖める作用のことで陰気とは冷やす作用のことであり陽は外側で陰は内側ですから、『陽虚とは外側の暖める作用が不足した状態なので外側が冷えた状態(外寒)、陰虚とは内側の冷やす作用が不足した状態なので内側から熱が外に出る状態(内熱)』のことを言います。但し、陰虚による熱は不足した状態から発生する熱ですから邪による荒々しい高熱を発するものではないので虚熱と言うことになります。

また荒っぽい表現で恐縮ですが身近なもので例えるなら、ファンヒーターの燃焼装置が故障し風だけを吹き出して機械の外装(外側)が冷えてしまった状態が陽虚で、冷臓庫のガスが無くなり庫内(内側)が暖まってしまった状態が陰虚なのですが、陰虚ではわざわざ熱したのではなくモーターの熱で結果的に暖まったのですから虚熱と言うことになります。

 

  1.2 陰盛と陰実について

陰虚・陽虚が進みすぎると寒熱の影響が他方にまで及ぶようになります。陽虚による冷えが中まで冷やし始める → 陰の部に陰性のものが多くなること「陰盛」です。反対に陰虚による熱が突き上がり過ぎるもの → 陽の部に陽性のものが多くなること「陽盛」と調経論で既に明記されています。ここで大切なことは前提として陽虚・陰虚が初めに存在しているという事です。つまり、寒熱の状態とは病理状態を表現しているという事です。

ところで、『実』と言う定義は同じく調経論に「陽気あるいは血や熱が充満停滞した状態」だと記載されていますから、病理からは「陽盛」は外に熱が溜まっていることなので「陽実」と同義であると解釈して差し支えないと私は思います。

今回取り上げている問題の「陰実」ですが、調経論には陰が虚した時に陽気が走って来て熱がこもった状態だと記載されています。つまり、病理では「陰実」とは陰の部に血や熱が充満停滞したことで内熱があり「陰盛」の内寒の状態とは明らかに違うと私は解釈しています。また内熱になりますが実熱であり、陽気が走って来るので初期には熱を帯びていても慢性になると外側が冷えてしまうので陰虚とも違います。

調経論をもう一度整理すると「陽虚外寒、陰虚内熱、陽盛外熱、陰盛内寒」で、病理から陽盛と陽実は同義であると解釈しますが陰盛と陰実は違うと思います。陰実は内側に熱がこもるものの外側は慢性になると冷えている状態を表します。

脉についてはあくまでも一般論でありその他の条件により様々なバリエーションを展開しますが、概ね次のように観察できます。陽虚は沈み陰虚は浮きますが数ではなく、陽盛・陽実は浮いて数で陰盛は沈んで遅になり、陰実は急性熱病で数になっていたとしても陽虚のように表面は少し触れるだけであっても沈めても指に着いて離れない脉位があります。そして、その部分は強いとは限りません(特に脾虚肝実証は脾虚陽虚証と間違えやすいので注意が必要です)。

 

  1.3  病理的には肝実しかあり得ない

では、陰実はどこに起こるのか?腑は陽であり臓は陰ですから臓に血や熱が充満停滞した状態が陰実です。しかし、単純に脉差で「強いもの」を実と捉えたのでは脾虚で腎実とか肝虚で脾実とか心虚で肺実など、指に触れる事があってもそのまま鍼を行えば誤治反応を起こしてしまいます。但し、『陰実』とは呼べなくても肝虚で肺が堅くなっている(肝虚肺燥証)と腎虚で心が堅くなっているケースは理論的には存在するものなので、その場合には治療に工夫が必要だとは思います。

生理を考慮すると全ての臓で『実』が発生するわけではありません。列挙してみます。

★心は元々熱が旺盛なのでさらに熱がこもると死亡してしまう。また、臓ではあるが陽臓なので陰実はあり得ない。

★肺は中空であるから充満停滞はあり得ない。また、陽臓であるから陰実にはならない。

★脾は気血を製造しているところなのでここに熱がこもると直ちに死亡してしまうので実はあり得ない。また、脾と胃は密接な関係にあるので少しでも熱症状が現れると胃腸へ伝導するとも考えられます。

★腎は陰臓ではあるが津液を貯臓しているところなので津液が増えても冷えるだけで熱が停滞することにはならない。また、熱が停滞すると津液を乾かしてしまうので虚になってしまう。

★肝は陰臓であり血を貯臓している。血は熱を持っているので血が停滞すれば熱が充満し陰実の条件を唯一満たしている。

しかし、病は精気の虚から発生するのですから肝実そのものを証とするわけにはいかずに、肺虚肝実証か脾虚肝実証ということになります。さらに真の意味での陰実は難経七十五難型の肺虚肝実証しかありません。

ここで重要点を繰り返しておくと、単に脉差で強いから実ではないと言うことと生理を考えると肝実しかあり得ないと言うことです。

 

  1.4 何故今、肝実なのか?

福島弘道先生から「最近の環境悪化は放射能や排ガスそれに伴う酸性雨などの公害だけでなく化学薬剤による食品汚染や不良手術あるいは薬の乱用など百鬼夜行のごとくであります」とよく名調子を聞かせていただきました。

理論的には肝実(お血)は中年以降の婦人に多く見られるもので、それ以外では頻発しません。ところが、前述の言葉のように様々な環境の不良化により現代ではお血が頻発しているのです。若い女性は薬の乱用が激しく生理不順も手伝ってむしろ頻発状況にありますし、食事は全ての人間が毎日取っているもののインスタント全盛で、「気を病む」機会が増えていますからお血という概念が重要になってきたわけです。

さらに湯液では盛んにお血を叫ぶのに鍼灸ではさっぱり聞きません。理論の基礎が積み上がり始めたこのあたりで肝実(お血)に対して特に治療技術を研究する時期に来たのではないでしょうか。同じ漢方なのに鍼灸ではお血の治療はできないとなれば我々は非常に限られた分野だけしか治療しかできないことになってしまいます。外科的処置が必要な場合を除いては古典に基づく治療とは全てに適応できるはずなのです。ましてや検査によって検出できない訴えを我々が救わなくて誰が救うのでしょうか。新しい時代の古典鍼灸術に肝実(お血)は避けて通ってはいけない課題でありメジャーになるビッグチャンスなのです。

 

  1.5 過去の臨床現場では

では、今になって肝実の問題に注目しているのに過去の臨床(東洋はり医学会)では問題が取り上げられなかったのでしょうか。いくつか考えられます。

一つ目は運用する経絡絡も鍼数も多かったのである程度ですが無理矢理にお血を動かしていたのではないでしょうか。二つ目は刺鍼自体が深かったので営気への影響も強かったのではないでしょうか。そして、三つ目は瀉法にも積極的でしたから、特に肝経そのものへも瀉法を行っていたので劇的効果を時にはもたらしたのではないでしょうか。実際に激しい頭痛で苦しんでいた女性に太衝へ瀉法(気持ちがいいと言われるのでかなり深く刺したように記憶しています)を加えて即座に緩解した経験が何度もあります。

より効果的な古典鍼灸術を目指して“漢方はり治療”が創始されたのですが、過去の臨床では結果的かも知れませんが対処できていた問題に再び取り組まなくてはならない事を素直に反省すべきでしょう。特に瀉法に関しては再認識する必要があると痛感します。

 

 

 2.病理の証・脉証の証・病症の証

福島弘道先生は「証とは病の本体であり治療目標」と定義され、池田政一先生は「証とはどこで・何が・何故・どうなったか」と定義されています。それ以外にも証の定義は角度により幾通りにも出来ると思います。問題はどこを基準に命名しているかなのです。

 

  2.1 証は基本的に病理の名前で呼ぶ

「証の定義は角度により幾通りにも出来る」と書きましたが、臨床においては証を三分野に分類できると思います。病理の証・脉証の証・病症の証です。このうち病症の証は体調や体質などを考慮しながら局所に対する陰陽を観察し手技を判断するものですから病そのものを現しているとは言えません。

病理の証と脉証の証は基本的には一致していなくてはなりません。しかし、複雑な病体を観察するのですから診察に即座に納得の出来るケースは少ないものです。特に脉診は主観に流されやすいものですから治療の中心でありながらも、脉の凸凹さえ調整できれば劇的効果が得られることもあるので脉差診に偏重してしまいがちになります。

ここで少し発想を変えてみます。我々は治療の中でいつしか「脉が改善できた」と満足するようになっていませんか?逆に言えば(特に研究会では)脉の改善さえ出来れば患者の症状には耳を貸さない傾向にあります。治療後の状態を絶対的に予言できる実力ある人が診察をしたとしたなら、あるいはドーゼを考慮して説得するケースは別としても最も大切なことは患者の訴えが改善されたかどうかなのです。つまり、病理状態が改善されることが第一で、病理が改善された結果として脉も改善されるのではなかったでしょうか。だから、『証』とは基本的に病理の名前で表現するものだと私は結論します。

様々な意見や問題があるとは思いますが、私の意見を代表するのが肝実証です。後で詳述しますが肺虚肝実証においては腎経より営気を補いますし脾虚肝実証では脾を補って胆を瀉すか心包経を補って胃経からも営気を補います(七十六難で営気への手法は瀉法だと表現されていますが私はあくまでも補法の概念で発想をしたものの病理からは瀉法を行った結果と一致してしまうと言う意味だと解釈しています)。これは証が治療法までを指示しているものであれば「腎虚肝実」とか「脾虚胆実」という表現を用いることになります。これでは混乱の原因になりますし漢方の臨床家には必要のない表現だと思います。やはり『証』は病理状態を表現しているものだとするのが合理的であり最も自然なのではないでしょうか。

かつて私は「相剋関係にある臓と臓のバランスが最も崩れている箇所を証の定義に加えてみれば」という提案をしましたが、病理の理解に有効でありあかしの名称と治療法が異なっても病理が『証』の基本であるならこの主張は正しかったことになります。もちろん肝実証に限らず全ての場合に適用されても矛盾を生じていません。

  2.1.1 肝実の脉証での特徴

先ほども少し触れましたが肝実の脉は決して強いとは限りません。素問には「むすぼれるがごとし」とあり、いくら押しても最後まで消えない脉と言う意味です。脉診を初心者に指導する場合に「強いところと弱いところを比較して下さい」と大抵は始めます。何もきっかけがないので仕方がないでしょうし今後もこのように行うのでしょうが、弱い脉は確かに虚でも強い脉は必ずしも実ではありません。

では、詳細は後述するとしてとりあえず肝実の脉の特徴だけを書き出してみます。肺虚肝実証では肺の虚は明瞭ではなく逆に腎の虚が明瞭です。「スカーンと抜けたような脉」と表現してきましたが、もう少し細かく観察すると左尺中は捉えどころのない脉で関上の実が際だっている状態です(腎虚証の場合は尺中にはそれなりの脉状を触れる)。脾虚肝実証では左関上には胆が突いているように感じられるのですが、まさに「むすぼれるがごとし」で押し下げても消えることがありません。

   2.1.2 肝実の病症での特徴

肝の主りによる病症群でも激しく現れるものや内熱による病症が現れます。特徴的なものだけを書き出してみると肺虚肝実証では不定愁訴(肩こり・腰痛・自律神経失調など)がありながらも食欲は旺盛で便秘で肥満傾向です。脾虚肝実証では筋肉症状(時には激症)があったり胃腸の熱による食欲異常や往来寒熱などがあります。

急性熱病の場合には体質には関係なく発生します。肺虚や脾虚の症状と言うよりも肝実の症状のみを現す場合が多いようです。

 

  2.2 菽法脉診との関連

“漢方はり治療”の体系の根幹に菽法脉診の実践があります。しかし、菽法を表現するには全ての脉位の記載が必要となり数値表現も主観に依りますから本文の基礎となった資料文章や技術合宿の現場でさえもどうしても表現が簡便なので文章記述や多人数での実技では脉差診的な表現に終始しがちです(筆者としては討論に妨げのない少人数と十分な実技時間でなければ奇抜な発想への理解は難しいと実感します)。その辺を考慮に読み進めていただきたいと希望します。

ところで、『肝実』については菽法脉診の基本のみで理解しようとすればやや矛盾を生じてしまうことになります。現在までに実践している菽法脉診は相生関係に注力した証に対してのものですが、肝実証は相剋関係に注力した証なのです。

どこにポイントがあるのでしょうか。難経七十五難型の肺虚肝実証では金剋木でありながらも肝の実が強すぎるために相侮となって肺虚となっているのですから肺は多少菽法より離れている程度であり腎の虚の方が明瞭でありますが、脾虚肝実証では木剋土で脾が虚しているのは正常でもその域を超越して相乗となり脉全体が沈みぎみに感じられてしまうので脾虚陽虚証と間違えてしまう傾向にあると思われます。

    2.2.1 肝実と菽法の関連

肝実の脉は繰り返すように左関上が「むすぼれるが如し」で、上から下まで詰まって途切れ無いという意味ですが決して強い脉ばかりとは限りません。肝実証に関してはまず肝実を認めることが先決で、虚を現す先頭文字(肺虚、脾虚)の相剋経は旺気実ではなく邪実により押さえつけられたものですから特徴的な位置にあります。

 「慣れ」の問題なのかも知れませんが、肝実証というものが存在するとして脉診をするのか菽法のみ(これは生理のみで病理を含んでいないと思われますが)を基準として脉診をするのかでは捉え方が大きく異なってくるでしょう。

    2.2.2 全てが整わなければ治療には入れないのか

法脉診の実践では目的の経穴を取穴して脉が如何に菽法の位置へと変化するのかを観察してきました。実際に取穴をしたときに「こちらは整ったがここが整わない」など緻密な観察がなされて成績を上げてきました。しかし、意見を述べ始めたら(ケチを付け始めたら)全ての脉位が納得のいくケースは少なく臨床の現場でも全てを確認できるわけでもありません。高血圧などで菽法そのものが判断しにくかったり不整脈で菽法を全く無視した脉が触れたり病症が重すぎて脉の改善が進まないなど臨床は理論にあわないものばかりです。「どこまで妥協できるのか」と問いかけているのではありません。全てが整わなければ治療には入れないのかと問いかけているのです。

特に肝実証であれば相乗や相侮が強く反映されているのですから理論的にも最初の取穴だけで全てが整うと言うことは期待できません。それ以外のケースでも病理を考えることで治療を進めることが合理的だと判断できれば、最初に取穴した経が菽法に整うことはもちろん前提条件ですが全てが菽法に合致しなくても治療に取りかかっていいのではないかと思います。

    2.2.3 治療経過中の特徴

それでは具体的に全ては整ないものの最終的に完成させることを目標に積み上げていくケースを記載します。肺虚肝実証では腎経の中の経穴を取穴しても瞬時に反応するのではなく脉の変化そのものが緩慢で(つまり衛気を操作するだけでは不十分だという事がここで判明する)肝実は収まるものの陰経への手技だけでは安定しない感じがします(結論は続いて三焦を補い小腸を瀉す)。

脾虚肝実証では脾経の中の経穴を取穴すると瞬時に変化はするものの全体は概ね納得できるのだが左関上だけは逆に騒がしくなった印象を受けます。これは肝の熱が胆に跳ね返されるからだと思われます。それと右関上は浮ききらないように感じますが金剋木が相侮となっているので胆を瀉すと正常な位置へと浮いてくれるはずです。さらに胆を瀉すと左尺中は沈んでしまったように感じますが、これは錯覚で次の処置を行えば納得できるようになると思われます。

 

 

    3.腹診

病理状態が改善された結果として脉が改善するのでありますから、当然の事ながら同時に肩上部のこりや腹部も改善されているはずです。脉診は四診法で切診の中に含まれるのですが、ここでは客観的観察として腹診を取り上げてみたいと思います。「腹診の研究」としては特に別原稿を用意しておりますので、ここでは一応「肝実を応用するためのツール」として話を進めさせていただきます。

 

  3.1 腹診研究の経過と意義

難経七十五難型の肺虚肝実証を発見した当時、治療法は参考書が半分で直感が半分で導き出したものですし理論も充分に飲み込めず夢中だったと同時に自分でも半信半疑でした。その時に思い出したのが池田政一先生の講義の中で紹介された難経流の腹診でした。西洋医学的な内臓腹診は足を立てて腹部の緊張をゆるめてから臓器を触察していましたし経絡腹診では足を伸ばして軽く触れることのみに集中してきたのですが足を伸ばしたままで「強く押さえろ」と言われたのは新鮮な驚きでした。

腹診の目的は素早く客観的に証の判定を手助けするものですが、腹診も触覚行うものですしそれ以外の要素(特に選穴)があるので腹診のみで治療に移れると主張しているのではありません。私の腹診導入の目的は脉診を脉差診偏重より解放し脉状研究の手助けをすることなのです(別原稿では前半が腹診で後半が脉診という構成になっています)。

 

  3.2 腹診の概要

第四回夏期研の症例発表で私は腹診の説明で難経流に『癪』と言う表現を用いましたが、本当に『癪』そのものなのかという疑問と混乱から『腹診点』という名称に変更することとしました。腹診点の概ねの位置は次の部位です。注意点がいくつかあるので付記しました。

@右腹診点は右季肋部で腹直筋の外縁

A左腹診点は左季肋部で腹直筋の外縁

B上腹診点は腹部中央上部で鳩尾付近

C中腹診点は腹部中央で上カン・中カン付近

D下腹診点は腹部中央の下部で反応は鈍麻として現れるが、現在はこの腹診法では使用していません。

診察には示指・中指・薬指の三本くらいでかなり強く押さえますから遠位指節間関節に力点がくるようにして指先はむしろ反らせます。えぐったり押し込んだりしないように垂直に押し、抵抗が「ある」「無い」の二者択一で判断します(中間の判断はありません)。そして、抵抗が「ある」部分のみに注目し、以下のように診断します。実に単純ですから、是非追試してみて下さい。

❶肝虚証 = 左腹診点のみ

❷腎虚証 = 左腹診点と右腹診点が同時に現れている

❸脾虚証 = 右腹診点のみ。但し、バリエーションがあり同時に中腹診点が現れていれば脾虚肝実証。

❹肺虚証 = 上腹診点。これもバリエーションがあり上腹診点に右腹診点が同時に現れていても肺虚証。上腹診点に左腹診点が同時に現れていれば難経七十五難型の肺虚肝実証。

  3.2.1 陰経実の腹証

ここで言う「陰経実」とは 肝虚肺燥証(肝虚で虚熱により肺が乾燥して肺の脉も堅くなっている)と腎虚で心実(腎虚の虚熱により心が熱せられて心の脉も堅くなっている)の臨床で注意が必要な肝実以外の理論上考えられるもの のことです。肝実以外に脉が堅くなっている場合は津液不足によるものですから腹部でも乾燥し堅く、胸には熱があり、特に熱の突き上がり方が激しいものは動脈の拍動を触れます。

  3.2.2  肝実の腹証

ところが、肝実では津液不足が深刻でない場合もあるので必ず乾燥しているわけではありません。表面が突っ張り軽く押さえても痛みがあります。脾虚肝実証の場合には右脇下硬があります(慣れるまではよほど注意しないとわかりにくい、中腹診点と併せて触れば判る)。肺虚肝実証の場合は胸の熱も程度の判定に参考にしていただきたい。

  3.2.3 お血の腹証

これも慣れないとわかりにくいのですが際の周囲(特に下腹)で奥に堅い硬結がある感じがします。表現は難しいのですが臍下で中年以降で肥満している女性の腹部は脂肪だらけなのに「子宮筋腫にしては浅いな」と思える固まりです。肉眼でも確認できるそうですが、細絡を触診で判別できる方なら軽く触っても診察できます。

 

 

  4.病理と治療法

さて、具体的ケースについて書き出してみます。なるべくバリエーションを多く収録するためにそれぞれについては簡略化しましたが(池田先生ではありませんが)全て臨床を基本に体験したことのみからの出典ですので各先生方の追試をお願いいたします。

 

  4.1 難経七十五難型の肺虚肝実証

治療法則として最も有名なのが難経六十九難でありますが、同時に七十五難についても掲げられるものの【過去の遺物】のように扱われてきました。難経で画期的なことは相生的治療を打ち出していることなのですが、この部分は相剋的治療であり六十九難とは違い名称と治療法が一致しない上に汎用性もない限定した記述になっているからではないでしょうか。

しかし、わざわざ別項として掲載しているという事は特殊ではなく頻繁に存在することを意味しているのではないでしょうか。さらに病理を考えれば陰実とは肝実のみで、真の意味での肝実証は肺虚肝実証のみだとすれば別の難に改めて書き出されていても不思議ではありません。

お血の要因が多発している現代に七十五難型の肺虚肝実証が存在していないはずがないのです。「むすぼれるがごとし」なのですから肝実の脉に対しての診断基準に問題があったと思います。基本的に証は病理の名前で呼べば問題は何もありません。特殊な証ではないのです。

  4.1.1 急性熱病による病理

病は精気の虚から始まります。病が始め軽症だと表裏の関係で収まっているものが相生・相剋の関係へと進行します。肺を古典では「相傳の官」と述べていますが、これは「肺が心を助ける」と言う意味です。心の非常に旺盛な陽気を肺気が巡らせているからです。巡らせなければ心熱が肺を剋することになります。肺の気の循環が悪くなってくると当然肝に熱がこもります。これは肺が虚して太陽経に熱がこもり陽明経から少陽経へと進行すると肝を温めてしまいます。あるいは肺虚で腎も虚して、肺気と腎気の巡りが悪くなったために血の巡りも悪くなり肝に血熱がこもる時に脾虚にならずに肺虚のままで進行するものが急性熱病の肺虚肝実証なのです。急性熱病の場合は体質に関係なく発生します。

  4.1.2 慢性症による病理

何らかの原因(中絶や出産などですから中年以後の婦人に多発します)によってお血が発生し、その熱が腎の津液を乾かしてしまうケースです。従って気鬱症状があっても不思議ではありません。逆に気鬱から生じることもあり得るでしょう。「腎虚で肝実」とも表現されているようですが肺虚肝実証には間違いはなく、結局は肺気の巡りが阻害されていることが病の本体です。

陰実の病型は「内熱」です。肺虚肝実証も長年の慢性になると表面は冷え始めてしまいますが内熱は残るので便秘なのに食欲は衰えないので肥満となり、肩こりや腰痛などの不定愁訴ばかりを訴え浅黒い皮膚で下腹が堅ければ疑ってみる価値があると思います。男性の場合には激症(過去・現在を問わない)によって循環障害を起こしている場合に多いようで胃腸もしくは便の状態は訴えますが一過性のもので肥満や不定愁訴とは直接関係ないように思われます。

  4.1.3 治療法

具体的な手法は後述しますので、ここでは治療手順のみ記述します。

まず腎経から営気を補います。何かの参考書で「復溜を補う」と記憶していたので発見した当初は復溜のみを用いていました。これは現在の確率からしても非常に高いのですがバリエーションが無いというのはおかしいと思っていました。追試の結果、明らかな肺虚肝実証で復溜を用いるよりも効果の高い(復溜では充分ではない)ケースを発見し検討するとお血の度合いによるようです。お血の度合いから太谿(軽度)・復溜(中程度)・陰谷(重度)と使い分けると効果的なようです。

続いて腎経と同側の三焦経の陽池にも営気を補います。次に反応と脉を確かめ小腸経から軽快な瀉法を施します。

  4.1.4 難経の解釈

私ごときが古典解釈をする立場ではないのですが脉の変化と理論の関係を掲げておかないと難経七十五難の治療をしているとは言えないので挑戦してみました。

【経に言う、東方実し西方虚せば南方を瀉し北方を補うとは何のいいぞや】とあり、【代わる代わる合い平らぐるべし】とあります。相剋関係を利用してお互いの作用により平らになることを狙っていることがうかがえます。

続いて【南方は火、木の子なり 北方は水、水は木の母なり 水は火に勝つ 子よく母をして実せしめ、故に火を瀉し水を補い金木を平らぐることを得ざればなり】とあります。東方は肝で西方は肺だと明記されていますが南方と北方については明記されていません。難経七十五難では肺と肝には直接手を下さず治療経過が述べられています。六十九難で「実すればその子どもを瀉す」とありましたが、実を落とすために一つ飛び越えた母経を補うという飛躍した記述とも受けとめられそうですが、この難の狙いは相剋関係を利用して平らにすることですから影響力がどのように伝わるかを表現していると思われます。

前置きが長くなりましたが脉の変化に合わせて具体的に説明します。脉差では肝(実)心(実)脾(平)肺(虚)腎(虚)になっています。腎経から補うと水剋火で心の実が押さえられ、心の実が収まることで火剋金が解消され肺の虚が救われ、肺の虚が盛り返すので金剋木で肝の実を押さえようとします。肝はたまらずに影響を木剋土で脾に伝えようとするのですが脾は平なので跳ね返され、挟み撃ちとなってとうとう肝の実が収まるのです。脉をよく観察すると肝の実が落ち始める前に心や肺が上記のような変化をしています。ところが、これでは腎経は出発点であっても何も恩恵が無く、脉は出たように見えますがあまりしっかりしていません。そこで命門を水と解釈し「命門の火」を補うという意味で表裏であり原気の代表である三焦経の陽池にも営気を補います。

発見当初はここまでしか判らなかったのですが条文とは合わないので苦心の末に敏感な患者の協力を得て発見した結果は実に理論通りだったのです。即ち、問題は南方を瀉すことですが、これは陽経に跳ね返されてきた熱のことです。南方と解釈できるものでも心と心包は肝実を落とすために働いていますし三焦も活用してしまったので残るは小腸だけです。(活用できるのは支正くらいですが)反応を探って軽く瀉すと実にいい脉になります。

 

  4.2 脾虚肝実証

脾は胃と共に気血を製造する源でありますから、源が虚しているのに『実』は本来はあり得ません。しかし、停滞することはあり得るので真の意味での『陰実』とは言えませんが脾虚肝実証は重要です。脾には気血も津液もありますから脾が虚すと血を貯臓する肝も虚すのですが熱の伝導によりお血や血熱が停滞して発病してしまうと肝の虚は関係なくなります。特に急性熱病は体質に関係なく、脾虚証に占める割合は非常に高いと言えます。特徴としては脾の症状よりも肝の症状ばかりが目立っています。ここでも再び照明されることですが寒熱は病理状態を表しているもので、証は病理の名前で呼ぶのが最も適当ではないでしょうか。

脉は沈んでむしろ弱いくらいのときが多いようです。このため脾虚陽虚証と間違えていた節があったと思います。脉差で表現すれば脾虚は納得できますが左関上が「跳ねている」とは言いながら「実」とは慣れるまでは納得しにくいかも知れません(むすぼれるがごとし脉になっています)。肺は錯覚でやや沈んでいるように診え腎も錯覚で沈んで診えるので腎虚とも間違えやすいのですが、腎経を触ると極端に沈んでしまうので菽法の位置に落ちついたのか沈んでしまったのかを区別する必要があると思います。

  4.2.1  急性熱病による病理

外邪による熱は太陽経から陽明経そして少陽経へと進行し(あるいは直接に少陽経を犯す)、少陽経は深いので即座に腑の熱となり胆は肝と密着しているので熱実となります。あるいは、脾がしっかりしていると胆に侵入した熱を陽経に跳ね返すはずが腑の熱が脾の津液を乾かしてしまい脾虚肝実証となります。風邪などで発熱し節々が痛むという時には脾虚肝実証を疑って有効だと思われます。熱の差し引きがあり月経時の熱に注意が必要です。脉が沈み気味なので発熱がないと肝虚陽虚証と間違えやすいのも特徴です。

  4.2.2 慢性症による病理

急性熱病のものが移行し脾の津液が虚して肝の支配部位に熱が停滞したものですが、酒の飲み過ぎ・交通事故・産後の気鬱・誤治・薬の乱用なども原因に考えられます。飲食からも胃腸の熱が波及して発症すると考えられます。筋肉に熱が停滞しているものには慢性になっても激症のままで留まっているものがあり、この場合には局所の処置が巧妙であったとしても脾虚を補い津液を増やしてから胆を瀉す処置を行わないと効果がありません。この病理によるものは病院の検査では「何ともない」と言われるものに多く(あるいはしっかり病名は言い渡されても効果がないもの)頻繁に遭遇しているはずです。個人的には脾虚証の半分近くはこの病理に属すると感じています。

  4.2.3 お血を主とする脾虚肝実証

出産・流産・中絶や月経時の発熱などで下腹にお血が溜まるものです。脾虚ではありながら内熱があるので胃が熱せられて本意ではなくとも働き続けるので食欲は落ちません。更年期障害や自律神経失調症もこの病理によるものが多いと思われます。

難病や奇病と言われるものは当然お血が停滞しているものですが、気血や津液が製造できれば肺虚肝実証の不定愁訴だけで留まれるものが脾が虚しているために悪循環が悪循環を誘発して西洋医学では全く理解の出来ない症状を連発するのではないでしょうか。奇病(脳疾患を含む)はこの病理によるものが多いと思われます。

古いお血では肝実の熱画人の津液を乾かしてしまうことがあり、「腎虚で肝実」と表現されるものはむしろこの病理の方が的確ではないのかと私は推測しています。

  4.2.4 治療法

脾虚肝実証は真の意味での陰実証ではないので難経六十九難型で治療できるはずです。但し、病理を考えれば一時的に肝実になっているだけなので脾を補えば(根本に手が加われば)肝に手を下すことはカテゴリーエラーとなりますし臨床でもそのようなことはしていません。治療法はまず手順と脉の変化を記述し、解釈については後にまとめました。

 4.2.4.1 急性熱病と慢性症

脾経を補います → 全体は改善しながらも右尺中の浮き方は足らず左関上はむしろ指を突くようになります。公式的には心包を続いて補うのですが、これを飛ばして胆経(懸鐘を用いることが多い)を瀉します → この時点で右寸口は改善されますが膀胱は沈んだように錯覚されます。次に三焦や胃などを用いて調えます。

 4.2.4.2 お血の場合

脾経に触れると脉は暗くなると言う感じなので、ビックリされるかも知れませんが心包を補います → 沈んでいた脉が浮き柔らかくなります。続いて胃経の三里から営気を補います → 左関上の実が見事に収まります。小腸経を軽く瀉します → 全体に艶が出ます。

 4.2.4.3 治療法の解釈

急性熱病と慢性の場合は脾を補った後に心包を探ると脉が崩れてしまいます。これは肝に熱がこもっているのに陽気の旺盛な心を補おうとして病理状態を後退させるからではないでしょうか。肝実ですが熱は少陽経から侵入したものであり脾もしっかりして熱を跳ね返す力が復活したのですから病理とも合わせて胆経を瀉せばいいことになり、熱が処理されるので左関上は落ちつきます。

お血タイプの場合は脾を補ってしまうと肝に停滞している血にさらに継ぎ足される結果となるので脉が暗くなるのではないでしょうか(急性熱病と慢性では本来は肝虚であるものが外から温められている)。脾を補わずに心を補うと熱は一時的に増えるかも知れませんが血は増えていないので流れが良くなり脉が明るくなると思われます。そこで六十四難を利用して胃経から左尺中(腎と膀胱)へ影響するように営気を補えば腎の乾かされてしまった津液が復活し(心の力も手伝って)肝のお血を流し始めてくれるでしょう。陽経に押し返された熱を七十五難と同じように小腸経から瀉します。

特にお血に対する解釈は「こじつけだ」と言われそうですが、これらは全て臨床成績が上がっているものに対して正当性を与えるために導き出された解釈であり、机上の空論を展開しているわけではありませんので是非とも追試をお願いいたします。

 

 

  5.手法について

手法については既に貴重にして綿密な研究を受け継いでいます。しかし、以前から指摘されていたことですが血(特にお血)に対する手法は確立されていません。血を直接操作できるものには刺絡がありますが、手法は瀉法で効果は補法と言われますがいつでも用いれるわけではありません。灸頭鍼も効果的なようですが補法なのか瀉法なのかハッキリしませんし、これもいつでも用いれるものではありません。

気(衛気)が動けば血も動くはずですが、お血治療に対しては営気を直接動かす手法が必要ではないでしょうか。

  

  5.1 自然体について

治療家は天空の気を受けて補瀉を行っているのです。身体をねじって力の入った姿勢では補瀉は非効率になるばかりでなく鍼も痛みを生じます。最も自然な形で立つことが基本となります。これは簡単な実験によって体得することが出来ます。

まずは下圧に対してです。起立して適度な高さの台の上で押し手を構え顔を下に向けたり正面を向いたりして下さい(顎を出さないように)。すると、どんなに軽くなるように注意をしたとしても頭が下がったのでは下圧が掛かってしまうことが明白となるでしょう。それから自然体と共に気を付けて欲しいのが鍼の持ち方で、持つ場所は鍼体でリュウズの境目あたりでせっかく気を送ろうとしているのですから指先は鍼先を向いていなければなりません。差し手も鍼を持つ母指と示指以外を丸めている人がいますが、やはり少しでも加重を掛けないように(形状や鍼管を挟んでいるなど臨機応変に)残りの三本のいずれかで支えるべきです。

次に立ち方です。足は肩幅に開き『自分では』足先が平行だと思うように立ち深呼吸をします。そのまま足先を若干内側に向けて『自分では』内股ではないかと思うところで深呼吸をしてみれば驚くほど深く、しかも臍下丹田に自然に気が入ることでしょう。補助をする人がいるなら足先の角度によって肩上部の堅さが変わり、『自分では』内股くらいの感じで痛みを感じなくなり最も力が抜けていることが立証できます。

この姿勢こそが自然体であり、脉も驚くほど出るようになります。

  5.1.1 衛気の補法

自然体で極めて軽く接触程度で行うのが衛気の補法です。決して刺鍼するのではなく鍼の重みで刺さる気持ちです。鍼を皮膚に当て「ハァ」と息を吐くだけでも刺さってしまうもので、これでも深いと思います。

余談ですが、『催気する』と表現しますがどう言うことでしょうか。初めて私が指導を受けたときは鍼の動かし方が中心でした。しかし、これでは気を扱う医学とは言えません。『催気』とは気を採集し送り込むことなのですから「指先に気を付けること」だと私は指導しています。「気を付ける」とはそこに気を集中させているのですから、即ち『催気』ではないでしょうか。

衛気の補法では、むしろ鍼は動かさない方が太く柔らかな脉が得られ臨床成績がよいようです。

  5.1.2 営気の補法

初めて七十五難を発見したときに指で経穴を探っていて脉の変化が緩慢なので鍼も長く行う必要があるだろうと直感しました。そして、臨床から現象的には細かな操作ではありますが衛気に対する手法とは異なった営気に対する手法を次のように行っています。

自然体で立つことが基本です。血の気(=営気)を動かすのですから衛気により反応はかなり緩慢で手法を施す時間が長く掛かることと鍼が深くなることが主な相違点です、しかし、絶対に刺してはいけません。

方法@   慣れないうちはリュウズをやや堅く持ち静かに接触し続けます。やがて疲れから鍼が微妙に揺れ始めます、それが営気に対する手法へとつながります。

方法A   これに慣れればより効果的に営気を操作できる段階に入れます。経絡を揺さぶる気持ちで鍼を微妙に立てたり寝かせたりすれば営気に対する手法となり短時間で大きな変化が得られるようになります。

 

  5.2 瀉法

池田政一先生が「陽気を補うのが補法で陰気を補うのが瀉法とも言い換えられる」と講義の中で発言されていたことがあります。ここまでの考察からも熱がこもった状態を解消するために瀉法を用いるのですから、熱の状態に合わせて使い分ける必要があるでしょう。臨床経験から瀉法では最初から下圧を掛けた状態と掛けない状態では脉の変化が大きく違うと言い切れます。つまり、その調節は下圧の程度にあるのです。

瀉法ではいずれのバリエーションでも最初から下圧は加えておくと臨床成績がよいようです。本文では営気を用いた治療では既に太陽経まで熱が押し戻されていると考察されるので軽く「陰気を補う」程度で下圧もほとんど掛けず瞬間的処置で十分だと思われます。脾虚肝実証の急性・慢性の場合には強制的に熱を排除する必要があるので「積極的に陰気を補う」ことから徐々に強めて最終的な下圧は相当に掛けで抜鍼するとよいようです。

 

  5.3 営気に対する手法は補法か瀉法か

結論から書くと私は陽気を補う心構えで営気に対する手法を施していますし、迎随や抜鍼時に鍼口を閉じる操作も行わないと臨床成績が上がらないので補法を行っていると思っています(だから営気に対する補法と書きました)。しかし、本文では肝実の処理に対して営気の手法を用いているのですから瀉法と言うことになってしまうのでしょうか?

非常に難しい問題だとは思うのですが、手法は補法で病理的には瀉の働きをしてくれると解釈してはどうでしょうか。営気に対する手法を肝実証以外のものに用いても誤治反応が出てしまい適材適所なのですから、陰気を補う瀉法と区別する意味でも「手法は補法で病理的には瀉法」だと思います。

 

 

  6.治験例

過去の『漢方鍼医』で発表した「証の考え方について⑵」の中で収録したパターンについては割愛し、心包を補い胃経を補うパターンのみを取り上げます。

患者は二十四歳の女性、会社員。主訴は全身の疼痛。発病は三年前のアメリカ留学中で最初は肘関節の違和感と軽い疼痛でした。その後は指先がむくみ微熱が持続し膝関節がこわばり痛み喉に左右共にハッキリ判る大きな腫瘍ができました。疼痛は不定期に強くなったり弱くなったりするようになりましたが消失したことはありません。帰国後に様々な検査を受けましたが病院ごとに異なった結果で服薬もしましたが効果的な治療法はありませんでした。来院時は朝のこわばりと膝関節の疼痛がひどいとのことでした。

他覚的には腹部が固く下腹に黒い固まりがありました。脉は沈んで細く菽法に最も近いのが肺で脾の沈み方と腎の薄い脉が気になりましたが肝の「むすぼれるが如し」脉は明瞭でした。病理を考察すると元々は脾虚の急性熱病で四肢の疼痛が始まったものの誤った治療により慢性化し、不運にも間違った治療が繰り返されたためにお血となって停滞し腎の津液をも乾かし不定期に疼痛が変化しているものと思われます(西洋医学的には雑菌の混入が原因ではなかったかと推測しています)。つまり、脾虚肝実証でもお血によるものに該当し下腹の堅さはお血だと結論しました。

治療は脾を探ってみましたがやはり脉が暗くなるので心包を補うと脉が明るくなり瞬時に下腹が緩み始めます。続いて胃経の三里に営気の補法を行うと左関上は静まり下腹が緩むだけでなく喉の腫脹も小さくなります。続いて小腸に軽快な瀉法を行いました。

経過は途中で風邪の処置を優先したこともありましたが証は一貫しており下腹の固まりと腫脹は回数ごとに視覚的にも小さくなり、六回を過ぎると急速に疼痛も軽くなり朝のこわばりも短いとのことです。現在も治療中です。

 【症例2】これは本文編集中の私自身の出来事です。治療室の拡充と助手の増員に加えて本文を含めた数本の発表を半年に渡り同時進行で処理していたため、忙しいことは好きなので肝実体質と思われますが疲労が重なり腎の津液は不足がちとなり肺気の巡りも悪くなり肺虚肝実証で自己治療をしていました。ところが、一段落着いたのでリフレッシュも兼ねてゴールボールの合宿に参加して(これが国際チーム養成の強化合宿とは聞かされていなかった)

仕事を再開してから判明したのですが練習中に肋骨骨折をしていました。最初は助手にそれまで通りに肺虚肝実証で治療してもらうと肺が菽法より遥かに沈んでしまって固くなり脾は浮いてしまいます。

何故、順調に経過していたものが突然に適用できなくなったのか?骨折という第三病因の作用は強制的に病理の再考察を迫られるものであるからです。骨そのものは腎の主りですが運動中の外傷ですから肝血の不足状態が主要因であり血を急いで生成するために脾虚が発生し肝虚・脾虚の状態になります。しかし、外傷からの熱は直接少陽経に侵入し肝をも温めるので肝虚は消えてしまい脾虚肝実証と判断しました。治療は太白を補い患側の懸鐘に下圧を相当に掛けながら瀉法を行っていると自発痛が即座に取れていきました。後は三焦経の陽池を補い適宜に患部周辺の処置をして順調に回復しました。

 

 

  7.考察

技術合宿で出された疑問への解答を含めた形で今回再編集をしました。相変わらず脉の表現は分かり難いのではないかと反省しております。最後に今回の考察と若干の問題提起をさせていただきます。

まず熱の進行状況を病理として理解し把握することが重要ではないかと考えています。傷寒論とどのように関連するのかはまだまだ検討中なのですが、太陽経・陽明経・少陽経と熱が進行し逆順で排出されるのではないかと想定しています。そう考えると肝実証は自然であり治療法にも矛盾はないと思います。

次に全ての脉が整わなくとも完成を意識して治療に移ると言うことも大切だと思います。病理の考察とは病の本体を見極めることではありますが同時に治療経過や予後の判定をも推測するためのものなのですから、相剋的な変化をしているものは当然最初の取穴だけでは全ては整わないはずで、その見極めのためにも病理はますます重要となるのではないでしょうか。

問題提起としては瀉法を用いるべき脉の判定です。現在のところは病理を中心に少しだけ強い指圧による取穴で判断しているのが実状ですが、訃音材料も多く結果は得られているものの確かな“漢方はり治療”への道しるべが欲しいのです。

大変な長文となってしまいましたが、先生方の臨床追試によるご意見を是非お願いいたします。

  参考文献

福島弘道  『経絡治療要項』      (東洋はり医学会事務局)

池田政一  『古典の学び方』『難経ハンドブック』 (医道の日本)

漢方鍼医会 『漢方鍼医』             (漢方鍼医会)




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