東洋医学 鍼灸ジャーナル Vol.282012年9月号)より

 

... 症例レポート

 

奔豚気の治療から思う

現代のうつ病について

 

二木清文

 

 オリジナルのていしんを用いて、高い治療効果を上げている滋賀漢方鍼医会代表の二木清文氏に、うつ病だと思われた奔豚気病の症例についてご報告いただきます。

 

1965年、滋賀県生まれ。1987年、丸尾頼康先生に師事・兵庫県尼崎市の「丸尾鍼灸院」にて助手修業。1989年、滋賀県彦根市にて「にき鍼灸院」を設立現在、漢方鍼医会本部理事、滋賀漢方鍼医会代表。

 

 現代人はうつ病が多くなったと言われています。確かに来院される患者さんのなかに心療内科に通院中だという方が多くなりました。しかし、近年の患者数増加は少し異常だと感じています。その原因として、メディアにあおられて患者さんが薬の処方を求め過ぎていることや、心療内科を受診しているのだから何かしらの心の問題があると、施術者側が最初から色眼鏡で見ていることが考えられます。

 そのようにして、うつ病患者をわざわざ作り出しているのではないかという疑問に対して、私の考えが一部当たっていたことと、救済の一つの手段になると思われる報告をした

 その患者さんは単なる奔豚気病だけなのにもかかわらず、うつ病の投薬治療を受けて日ごとに悪化して日常生活もできないくらいの状態になっていました。それでもまだ薬を求めていたのですが、それが間違いだったということに気づいてもらえた症例です。

 

 『漢方用語大辞典』より一部抜粋すると、『難経』五十六難では五臓の積の一つで腎の積とされ、症状は「少腹より胸★や咽喉に気が上衝し,発作時には苦痛が激しく,腹痛や,往来寒熱を発し,長期に及ぶと咳逆・骨痿・少気などをあらわす」とあります。つまり、腎もしくは肝からの津液不足による虚熱は、熱の性質から上へ上へと昇るので、息苦しかったり目眩などの症状を引き起こしますが、最も特徴的な症状は動悸です。安静にしていても突然動悸が始まったり、動悸が続いて心配していたら突然感じなくなったりするので、心臓が悪いと思い込んで西洋医学を受診するのですが、検査では全く異常がないので、余計に恐怖を感じるようになってしまいます。また目眩が同時に発生することが多く、そのためパニックになって動悸と息苦しさを混同しているケースも多く見かけます。

 治療としては、津液を増やす選穴をして陰虚証を改善することです。極端な場合には、鍼を当てた瞬間に動悸が治まることもありますし、大抵は初回の治療でかなりの効果があります。通常は数回の治療でほとんど症状がなくなり、経絡治療の分野においてはとても治療成績の良い病です。

 

...奔豚気(奔豚気病)とは

 

.はじめに

 患者:43歳、女性、自営業

 主訴:目眩、ふわふわした感じ、不眠、不安感

 現病歴:この症状が始まったのは半年ほど前からのこと。最初は天井がぐるぐる回っているような感じがして、とても起き上がれないくらいの激しい目眩があったようです。しばらく仰臥してから、病院で点滴治療を受けて、3か月ほどで不完全ながらも回復。ところが、その2か月後に症状が再発すると今度は不眠にもなってしまい、体力がどんどん落ちるので、病院以外の治療もあちこち受けたものの、一向に回復せず精神的にも落ち込んでおられました。

 

 鍼灸治療もすでに受けていましたが、当院の治療は全く痛みがないと知人に勧められて、西洋医学に恐怖を感じ始めていたこともあり、漢方薬と鍼灸治療で再チャレンジする気持ちで来院したとのことです。

 

 最初の訴えは「とにかく眠りたい」ということで、目眩とふわふわした感じの恐怖を早く取り去ってほしいとのことでした。

 助手が最初の診察をしていたので、まとめた情報を聞きながら脈診をしました。胃の気が薄いことは、睡眠不足で体力が落ちているので仕方ないのですが、浮沈の幅が小さいというのが第一印象でした。あちこちの治療を受けているので、必要以上に悪血が蓄積してしまっているだろうと予想されますが、目眩とふわふわした感じが別物として訴えられるのも気になりました。

 

 

病理考察:悪血を中心に捉える考え方と、目眩を中心に捉える考え方の2つが思い浮かびました。中年のご婦人なので、一般的でない形で更年期障害が始まっているとすれば、悪血を流すことが重要です。また、あちこちで治療を受けており、余分な悪血も蓄積しているので、その場合であれば『難経』七十五難型の肺虚肝実証として治療をする必要があるでしょう。

 しかし、突然の激しい目眩から発病していることを考えると、単純に悪血でまとめてしまうことには無理があります。不眠を考慮すると、腎あるいは肝の蓄積する津液が極端に不足してしまっているとも考えられます。

 脈診以外に、腹診や雑談的に追加の問診をしましたが、この段階では決定的な診断は下せませんでした。

 他のベッドも並行して治療をしているので、証決定は該当する経絡を軽擦することによって、二者択一することにしました。臨床現場では患者の身体から答えをもらうことは珍しいことではありません。できれば完全推理の病理考察から確認のために軽擦を行うべきなのかもしれませんが、データ蓄積のために結論からストーリーを完成させることは邪道ではないと考え私は臨床実践しています。

 悪血や津液不足、脈診と腹診の反応からも、腎が絡んでいる確率は非常に高かったので、まず腎経の原穴付近を軽擦すると脈も腹もすぐに充実してきました。大切なことは次の一手まで見極めておくことであり、悪血として肺虚肝実証で治療するのであれば、次は三焦経の陽池を用いることが必須なので確認してみると、これは極端な数脈になってしまうので、明らかな選経の間違いと分かります。

 腎虚証として親経の肺経を軽擦すると、せっかく菽法の位置に全体が落ち着きつつあったものが段々と浮いてきてしまうので、剛柔選穴で小腸経を軽擦します。すると、胃の気が充実し患者の呼吸が深くなったことから、今回は腎虚陰虚証と決定しました。

 

 剛柔選穴について簡単に説明します。定説はまだはっきりしないものの、相剋経の陽経を使うことにより、陰経(臓)を助けようとする選穴法です。この場合は、金の性質である肺を助けたいので、火剋金の火の陽経である小腸経を用いることで助けが出せるようになります。陰経(臓)自身は直接補うほどではないものの、全体のバランスを診て助けが必要である場合や、追い打ちで補いたい時に用いています。

 

 結果的には六十九難型の治療法則を変形したことになりましたが、筆者の所属する漢方鍼医会では「治療法則がこのように解釈できるから」と1つのパターンに縛られることなく、その場その場で柔軟に対処しています。そのため「学術の固定化はしない」と宣言もしています。

 

 本治法は二木式ていしんの45mmタイプを用いました。患者さんは女性なので、右の治療側を確認して復溜と陽谷に衛気の手法を行いました。『難経』五難にある菽法の位置に脈が落ち着いたことを確認し、本治法はここで終了です。気が全身の経絡を一周してくる半時間程度を目安に、そのまま何もせず患者にはベッド上で休んでもらいました。

 標治法は二木式ていしんの55mmに持ち替えて、横臥位で軽く背部に衛気の手法による散鍼をするのみで、治療量がオーバーしないように注意しました。「これだけ?」という表情をされていましたが、それまで受けていた治療によって“壊されていた”わけですから、まずは“壊さない”ことが大切であり、今までの治療を打ち消すくらいに考えて行いました。

 

 証決定をした時に初めて気づいたこともあり、自分の愚かさも恥じながら、治療中患者さんに「動悸を感じていたはずですが?」と質問してみました。すると「胸苦しさばかり気にしていましたが、指摘されれば確かに毎回動悸がしていました」と言うので、「それが病の正体です」と説明しました。

 そして奔豚気は西洋医学にそのような概念がないので検査で見つかるはずはなく、鍼灸が得意とする病であることも伝えました。ただし、相当にダメージが大きく体力も弱っているので、しばらくは治療当日と次の日くらいまでしか治療効果が持続しないこと、数回経過すると「あれは一体何だったのだろう」というくらいに症状が消失することも付け加えました。

 

 初診から8回目までは週に2回ずつのペース、9回目から12回目までは5日おき、13回目から22回目までは1週間に1度、そして23回目からは2週間に1度来院してもらっています。現在は、夕方から若干ふわふわするものの持続するものではなく、睡眠は平均5時間程度で、眠れなかった明くる日は昼寝で補えるようになり、自動車の運転も家事も普通にできるようになって、治療卒業へ向けてゆっくり治療回数をペースダウンしている途中です。

 初期では治療当日には5時間ほど眠れるものの、次第に睡眠時間が短くなることを繰り返していました。その焦りから、4回目と5回目の間に心療内科で出された抗うつ剤を服薬したところ、まぶたが閉じなくなり全く眠れないことがありました。これは患者にはとてもショッキングな出来事であり、3回目の治療で動悸が一気に改善したことから、当院での治療方針の方が正しかったことをもう一度理解できたので、安定に向かっていたスタイルを崩さないほうがいいと納得して、ここからやっと腰を据えて治療に臨んでもらえることになりました。

 1週間に1度のペースとなってからは、睡眠時間にばらつきがあるものの、精神的に安定したため不安感がなくなり、焦る気持ちもなくなって楽しんで通院してもらえるようになりました。治療は腎虚陰虚証で変わりなく、標治法もあまり増やさないようにしています。焦りはないものの、患者さんは再発してからの心の傷がいまだに大きいので、「昼寝をしに通ってください」と言うと笑われました。

 

 奔豚気でこれほど治療回数が必要なケースは初めてです。病の本体が見えるかどうかが、回復に影響を与えることを改めて感じ、病理考察から証決定を行うことの重要性に身が引き締まる思いです。

 それまでに受けていた鍼灸治療も痛みはあまりなかったとのことですが、刺される恐怖についてはかなり警戒されていたので、ていしんのみで治療していることがプラスになりました。治療効果は毫鍼でも同じだと思われますが、同じなら痛みが絶対に発生しないほうがいいと筆者は思います。大切なことは病理考察であり、証決定に基づく本治法があるかどうかです。

 “二木式ていしん”はオリジナルのデザインで、45mm55mmを普段でも使い分けるようにしています。龍頭に平面の部分を設けて、示指がピタリと伸びるように工夫したつもりが、使い方によって力まで入れてしまう人がいました。本治法では少しの力加減が致命傷になるので、余分な力が入らないように10mm短いバージョンを製作したことが、2種類のていしんを使い分けるようになったきっかけです。こうしたことは、デザインした本人も、足下をすくわれかねません。標治法の場合には、長いほうが治療のスピードが上がるので持ち替えているのですが、持ち替えることによって、指先感覚の訓練にもなっています。

 

 開業した頃は、鍼灸治療の効果を自分で見極めたくて、服薬をすぐにでも止めてほしいと指示していた時期がありました。しかし素人の場合、病状が悪い方向へ変化した時にできる処置は服薬することくらいであり、服薬を禁止することがストレスにに直結して治療全体が不調となったケースもあり、明らかに脈状や状態がおかしくて薬が間違っていると判断できる時以外は、服薬について強く指示しないようになりました。それから薬は常習性があるので、鍼灸治療に大きな影響はないと筆者は現在は感じています。

 不眠の方は睡眠薬を止めたいと訴えられて来院される患者が多いのですが、完全に脱却できるケースは少ないのが現状です。しかし、これもお守りを持っているという安心感で眠っているだけであり、確実に鍼灸治療後に睡眠時間が増えていたら、効果があったと判断して「その気になったら少しずつ減らしてください」という程度に指示するようになってからは、毎晩の服薬が止められたというケースは多くなりました。精神安定剤も、同じ対処をしています。

 

 ところが、服薬のなかで厄介なのは抗うつ剤です。多種多様な種類があるだけでなく副作用も多種多様であり、しかも体調が良くなったという事例を筆者は聞いたことがありません。むしろ、抗うつ剤を処方された段階で、患者が「私は精神病なんだ」と病状への降伏宣言を自分に出してしまっているケースが多く、鍼灸治療に来ているのに「ほんまに本人が病気から卒業する気があるんかいな?」と感じることがあります。

 またメディアにあおられてうつ病だと自分で勝手に判断する人や、簡単に抗うつ剤を処方する医者も珍しくないので、服薬中の人に対するアプローチはこれからの課題です。

 

 今回は証決定の段階で奔豚気に気づけたことと、抗うつ剤の副作用があまりに強かったので、服薬を中止されたことが回復へのキーポイントでした。

 この症例から、うつ病だと診断されているものでも、実は奔豚気ではないだろうかと注意をしていたなら、この症例以降でいくつも遭遇し今は鬱病の半分以上は奔豚気ではないかと思っています。抗うつ剤を服薬していなければ、すぐに治療を卒業できたケースも多く、途中から証が変化して慢性疾患の治療に切り替わり鬱病などどこ部屋らという表情で通院されているケースもあります。

 関西特有の“ボケ”と“ツッコミ”で、笑いが絶えない治療室だったので、今までうつの治療は苦手だったのですが、一つ突破口ができたと感じています。

 

 なお、文中にあった理論の詳細や漢方鍼医会のことについては、当院のホームページに各種の資料が用意してあります。




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