てい鍼(ていしん)の臨床実践

 

滋賀県  二木 清文

 

 「鍼灸治療は受けてみたいけど・・・」と、その言葉だけはよく聞きますがどうして踏み切れない人が多いのだろうと考えてみました。もちろん鍼灸院を営んでいる我々は日常茶飯事のことであり経済活動の根幹ですから極当たり前のことなのですが、やはり問題は「痛いのではないか」という先入観にあると感じます。

 

鍼を刺しても出血はしないのか?

 まず尖った針金を身体に突き刺すのに、本当に出血しないのかという疑問に対して考えてみます。

 答えは、まず出血することはありません。鍼灸学校で鍼を握って数週間という学生が何も分からないままにむやみに人の身体へ突き立てたのでは縫い物針と大差はありませんが、手慣れていればそれなりの技術であったとしても鍼灸用具を身体に作用させても出血はしません。

 「えぇっ!採血される時の注射針は痛いだけやのうて出血するでぇ」といわれるでしょうが、まずその大きさが何分の一でありますし、第一鍼先の形状が違います。注射針は衛生面から使い捨てにされており、大量生産のために一本の針金を斜めに裁断することで鍼先の代用ともしていますから、身体にとってはかなり粗雑な構造といえます。液体を通すために空洞構造ともなっていますから堅い素材で出来ており、こんなものを無理に押し込んでくるのですから注射が痛くないはずがないのです。

 注射は痛いものだけれど、鍼灸は痛くないかもなのです。後はそれぞれの技術ということです。

 ではどうして出血しないかなのですけど、「のれん」をくぐるイメージをしてみてください。細胞レベルでは結構人体にも隙間がありその世界では大した大きさではない鍼先なので、「ごめんやっしゃ」とばかりに細胞の団体様をかき分けて奥へと進んでいるだけなのです。先頭が開いていますからどさくさに紛れて後続部隊も続々と勧めているのです。大阪名物「ごめんやっしゃ」そのままですね。

 帰り道も「ごめんやっしゃ」と後退してくるだけなので細胞の団体様には何も乱れがなく、特に混乱がなかったということで出血もないということなのです。自分でも感心しました、実に具体的で分かりやすい説明です。

 

では、鍼は身体へ刺さなければならないのか

 ここは医療関係者、特に鍼灸の専門家で意見が分かれるところです。「鍼とは身体に刺すもんや」「医者なんて少しくらい痛くないと治らへんわい」というのが一般論であり、ほとんどのケースがこれに当てはまります。しかし、心の底では「やっぱり痛いのはかなわんわ」「痛いから医者に行くのが嫌なんや」と、そして「できたら気持ちええ方がもっとええわ」と願っているはずです。

 これは理想論なのでしょうか?鍼灸の専門家でないと分からないことも多いのですが、鍼灸も時代によって道具そのものが変化をしてきており、古代のものと現代ではかなり様子が違っています。

 中国の古典医書の一つ「霊枢」には九鍼十二原篇という文書があり、文字通り九種類の鍼が紹介されています。もちろんそれぞれの用途が違います。その中から現代で最もよく用いられているのが毫鍼であり、テレビに出てくるいわゆる「はり」になります。長鍼や大鍼という名前もありますから当時の錬金術からでも身体に十分突き刺すことの出来る金属が製作出来たことは伺えます。しかし、現代の「髪の毛ほどの太さ」のものはさすがに製作出来なかったでしょうし、ということはむやみに深く刺すこともしていなかったと創造するのが妥当と考えます。

 鍼灸の目的は身体と心のバランスを調整することです。これに異論のある方はおられないでしょう。そして施術には否定論を掲げる学派もありますけど好むと好まざるに関わらず経穴を用いていますから、「いかに経絡を効率的に調整するか」が目的だとも言い換えられます。古代の中国に筋肉を緩めるとか神経を興奮させる・沈静化させるなどの発想はなかったはずです。歴史的なことを少し考察するだけでも、鍼は本来身体に突き刺すことそのものを目的としているのではないことが容易に理解出来ます。表現を変えればその目的が身体に鍼を突き刺すことで達成されるのであれば迷わずに刺鍼することを最優先としたでしょうが、突き刺すことで目的を達成させようとしていたわけではないはずです。

 九鍼十二原篇でも最初の定I・円鍼・てい鍼(ていしん)は全く刺さらない鍼であり、現代でいう手術道具や叩くことを目的とした鋒鍼・破鍼・員利鍼と続き、最後に人体に刺鍼することの出来る毫鍼・長鍼・大鍼と並ぶことからも、人体への刺鍼依存度は低かったでしょう。

 もう一度結論を繰り返せば、身体に刺鍼することで目的が達成されるのであれば刺鍼も有効ですが、刺鍼が前提で鍼灸の効果を論ずるのはカテゴリーエラーではないかということです。

 

鍼は刺さなくてもいいのか

 では、鍼灸に携わる多くの先生から次のような詰問を受けることでしょう。「確実な鍼灸の治効機序についてはまだ解明こそされてはいないが、接触やまして接近で効果があるとしてしまえば、ますます鍼灸の科学化は遠ざかってしまう」。

 ところが、あの鍼響を患者が求めていると思っておられる方が自分自身でも鍼響が好きだという方が、どれくらいおられるでしょうか?筆者の学生時代には鍼響が好きだという人もいましたが例えば腰や首だけで身体全ての箇所というわけではありませんでしたし、大多数の人は効果の証拠と信じるから拒否こそしていませんでしたが不快に感じることの方が多かったです。学生の行う外来臨床ですから技術もつたないものでしたが、患者さんに「重たいものを感じたなら教えてください」と指示しておいても、恐怖から少しの違和感で騒ぐ人やら深く刺鍼してもらうと効き目があると信じ切って我慢している人など、鍼響の発生は全く当てになりませんでしたし社会人になったとしても確実にその感覚を会得されている先生ばかりなのでしょうか?少なくとも筆者が社会人になってからも、毫鍼を扱っていた時代には確実に感じるということはほど遠い世界でした。

 治効機序が解明されていないのであれば今後も不透明なものにしがみ続けるよりも、本当に患者さんが求めていて確実に効果の得られるものを追い求めればいいのではないかと、筆者は単純ですからそのように発想するのですが・・・。

 それに、先程も書いたように、九鍼十二原篇の書かれた時代には現代のような髪の毛ほどの太さの毫鍼ではありませんから、押し手一杯まで刺鍼することも困難だったはずです。錬金術の進歩とともに毫鍼が細くなり、刺鍼しやすくなり、深い刺鍼をするとテキサスヒットのように根拠もないのに劇的効果を得られた経験も多くなって、麻薬のようにその魅力にとりつかれてしまい、いつの間にか「鍼は刺すもの」「鍼は刺さないと効き目がない」と勘違いしていたならどうでしょう。そこに明治と昭和の二回に渡る漢方撲滅の動きが拍車を掛け、日本では深く刺鍼することで西洋医学から認めてもらおうという思考に陥ってから脱却することが出来なくなっているのではないでしょうか?

 

てい鍼(ていしん)のみで治療は出来るのか?

 滋賀漢方鍼医会に参加した会員でさえ、最初は研修会用の技術で臨床室では実は別のことをやっているのではないかと疑う人もいたりなのですが、これは出来ます。それどころか共通パンフレットを作成して組織をあげててい鍼(ていしん)のみでの治療に積極的に取り組んでいることを宣言しています。なお、漢方鍼医会全体では毫鍼の方が得意だという人もおられるので、強制的にてい鍼(ていしん)治療としているわけではありませんし毫鍼での経絡治療研究も続けています。毫鍼が自由自在に使えるからのてい鍼(ていしん)の技術でもあり、基本刺鍼などでは毫鍼での修練がこれからも必須です。

 理論を一言でいえば、脉診を中核に駆使した伝統鍼灸術であればいいのです。一般的には経絡治療と呼ばれているものであり、漢方鍼医会では池田政一先生も再三に渡り声を大にしておられる東洋医学独自の病理を解釈することによりより深い治療が出来ると研修しています(漢方はり治療と呼称しています)。四診法により証決定し五行穴や五要穴を運用する本治法を行えば全身の経絡は活性化され、局所は経絡の流れを細かく調整するだけなので刺鍼する必要はなく、てい鍼(ていしん)のみで十二分です。

 いえ、数年前にてい鍼(ていしん)のみの臨床へと切り替えたのですが「痛みを発生させない」「感染症の危険がない」と消極的な選択をしたからではなく、衛気・営気の手法をより忠実に再現するにはてい鍼(ていしん)の方が適していると判断したから積極的な転換なのです(衛気営血という表現は難経ではなくその注釈本が用いたものです。)。

 難経では「精気の虚が補えれば病は回復する」とし、素問・霊枢を踏まえた上で治療法則を確立しています。その運用には衛気と営気に対する手法を用いると書かれてあり、邪気を抜き取るような手法については触れられてはいません。本治法にはシビアな取穴が要求されるだけでなくより繊細なテクニックも要求されるので、古代の粗雑な毫鍼では困難が創造されるのでひょっとしなくても本治法はてい鍼(ていしん)で行うことを前提にしていたのではないかと個人的には考えているくらいです。

 

 では、簡単に衛気・営気の手法について書きます。これは漢方鍼医会で検証したものであり、多少工夫は必要ですが毫鍼でもてい鍼(ていしん)でも同じことです。

  衛気の補法 = いわゆる「気」に対する補法であり、陽気を補う手法と言い換えてもいいでしょう。自然体で立ち、押し手の重さは皮毛よりも重くしてはならない。鍼は角度でいえば三十度以下のなるべく水平に近い状態とするが、これは鍼そのものの重さで作用が深くならないようにするためである。静かに接近または接触し、静かに気が集まるのを待ってから素早く抜鍼の後速やかに鍼孔を皮毛の重さで閉じます。

  営気の補法 = 経脈中の気を補う手法のことで、陰気を補うと言い換えてもいいでしょう。どんな手法でも自然体が原則で、押し手の重さは血脈または肌肉程度とする。鍼は角度でいえば六十度以上の立てた状態とするが、これは鍼そのものの重さにより作用する深さを調整するためである。静かに接触させ時によっては少し鍼を握ったり緩めたりしながら気が集まってくるのを待ち、気が集まれば素早く抜鍼し速やかに血脈または肌肉の重さで鍼孔を閉じます。

  重さの表現について = ハッキリ書いて申し訳ありませんが、ほとんどの鍼灸師の手は重い、重すぎます。按摩をする手と鍼灸をする手が同じでは困りますし、野良仕事をしているようなごつごつのざらざらした手では患者さんは気持ちよくありません。手が重すぎるために「気」が感じられないと書いても過言ではないと考えています。「偉そうなこというな」といわれるでしょうから、次のようにしてみてください。押し手となる側の手で(右利きなら当然左手ということになりますね)、なるべく軽く反対側の三角筋を触ってください。この時に触られている三角筋側で手が触知出来るようであれば既に血脈や肌肉の重さであり、「軽い」という表現には該当しないのです。皮毛に応ずる「軽い」という重さは、確かに接触はしているが、触られた側からは触知出来ないという重さのことです。自然体さえ出来ていれば、自己満足の診察を求めて探しまくらなければそれほど困難なものではありません。

  自然体とは = まず「自然体」という言葉そのものについてですが、武道やその他各種の分野でそれぞれの意味で用いられるため、適切な用語ではないかも知れません。けれどそれぞれに用いているのですから、向こうも適切でないかも知れないということで、ここでは「自然に気が入る体制」、つまり臍下丹田に何もしなくても気が込められる姿勢のことと理解してください。立ち方に一工夫するだけで実現出来ます。

 自分ではいい姿勢で立っているつもりでも股関節の形状から実はつま先が開いているので、自覚的には「内股」の状態とします。これはビデオや写真などで客観的評価をすればすぐに判明することでもありますし、自覚的な「いい姿勢」と「内股」の両方で深呼吸をしてみればその違いが直ちに客観的に判明することでしょう。

 

どうしててい鍼(ていしん)治療へと変えたのか?

 経絡治療を実践されていない先生方にはバカバカしい話と一笑されているでしょうし、経絡治療家の先生でもすぐにやってみようという気にはなられていないことだと思います。「刺鍼しない鍼灸で患者さんが満足してくれるのか」「手応えのない施術に確信が持てるのか」と投げかけられる疑問は富士山を越える勢いで積み上げられることでしょう。そこで、筆者がてい鍼(ていしん)のみの治療へと変化した具体的ないきさつを示すことで、なんとか理念だけは理解いただけるのではないかと期待します。

 まず難経七十五難型の臨床実践をするようになって、衛気と営気の手法を確実に使い分ける必要性に迫られ試行錯誤の中で、一応の形だけは独自に作り上げていました。臨床が進む中で五行穴・五要穴に対する毫鍼の操作がこちらの意図を越えて極端に反映してしまうことを感じ始めていました。そのような時に劇的な症例に遭遇したのです。

 患者は高校二年生の男子。二週間前にバスケットの部活中に接触トラブルから背筋の肉離れを起こして来院していました。一回の治療で完治し部活を続けていたのですが、また同じ部位が痛むといいます。二週間程度でありメンテナンス優先の指示も出していませんでしたから不注意からの再発だろうと軽く考えていたのですが、治療直後は楽になったとどんな動きをしても大丈夫だったのに明くる日に痛むといって来院します。その日も楽になったと帰宅したのですがまた明くる日になって来院。4日目の朝には父親からの電話で「確かに夕食の時までは何もいわずに普通に動いていたのに今朝は抱えてやらないと動けない状態だった」との報告を受けました。

 この日はもう仰臥位になることも出来ないほどの痛みであり、本治法は何度検討しても間違いなさそうです。横にいた助手までもが不安そうな顔つきとなり、筆者自身はもっと混乱していました。本治法の後に神頼みではありませんが即席で瞑想をしてみて気が付いたのです。肉離れだからある程度の深さが必要だと決めつけていたが、もし原因が血の変動ではなく気の変動に主体があるとすればどうだろう?毫鍼を用いるとどうしても数ミクロン単位ではあるが刺さってしまうために、接近や厳密な接触という手技にはならないので、完全に衛気のみに作用させるということは不可能なのかも知れない。もうこうなれば「賭け」の域ですね。小児鍼用にいつもポケットに入っているてい鍼(ていしん)を取り出し、座位で苦しんでいる患者の背部に軽く数カ所のみ施術すると、あれほど苦痛の表情を浮かべていた患者がすぐ笑顔となり、周囲の方がビックリしてしまいました。この結果から物理的作用は確かにあるのでしょうが衝撃を加えているとは考えられないのでよく問いただしてみると、セミダブルのベッドに寝ているとのことなので普通の布団に変えてみさせると、明くる日からは痛みの発生がなくなりました。セミダブルの境目に背中がはまり込み、寝ている最中に肉離れを再度裂いていたと結論しました。境目で寝ることが気持ちいいといつしか身体が覚えていたために、このような無限ループに陥ってしまったのでしょう。痛みが再発するのですから普通なら本能的に交わすはずなのが身体が勝手に覚えているように動いてしまったのが「気」の変動だと理解されます。

 この症例から衛気のみを操作しなければならないケースを重視するようになり、初期では毫鍼とてい鍼(ていしん)を左右に振り分けて施術してみて艶がより出る方を選択していたのですが、自然に身に付いたテクニックによりてい鍼(ていしん)での施術でリアルタイムに腰椎ヘルニアが目で見ても分かるくらいに改善したりを経験すると、これは用鍼の問題ではなく手技によるものだという確信に変わっていきました。

 かなりをてい鍼(ていしん)に置き換えている最中に、漢方鍼医会本部で行われた講義の中で大阪漢方鍼医会の森本繁太郎氏が独自に形状に改良を加えたてい鍼(ていしん)を既に使用しているとの報告を聞き、早速紹介を受けて使用してみました。この「森本てい鍼(ていしん)」では抜鍼時に問題となっていた小里式てい鍼(ていしん)から形状が工夫されているので脉の出来上がりもそうですが全体のスピードアップが図れるようになり、テクニックの検討をより深めることが出来ました。

 

衛気・営気の手法の確立

 先程も七十五難型の治療法則を実践するためには衛気と営気に対する手法が必須であり、独自に臨床はしていたと書きました。しかし、独自のものには落とし穴も大きいものですし、一人だけの技術では医学とは言えません。その当時に漢方鍼医会では会務とは少し距離をおいた地点から学術の集中討議をするようにと学術検討常任委員会が設置され、「難経を忠実に再現するには衛気と営気の手法について集団的に確立する必要があるだろう」との声が挙がってきました。森本氏を中心にそれぞれが研究していたものを持ち寄って検討し、三年間に渡る夏季学術研修会を通じて現在ではほぼ確立されたと宣言しても差し支えないところまで到達しています。それが先程の概略です。

 筆者が毫鍼ではなくてい鍼(ていしん)を選択した理由は、鍼が「しなり」を起こすことを利用するか逆の発想でダイレクトに反映させたいがゆえに利用しないかの違いであり、毫鍼とてい鍼(ていしん)のどちらもの研究はこれからも必要だと感じています。鍼の「しなり」を利用する毫鍼での方法としては、刺鍼時の角度に幅を持たせることが出来るため呼吸によってコントロールされる力具合で手法を実現出来ますが、鍼を強く握ってしまう傾向になるので微妙な手技加減に個人差が大きくなります。逆に「しなり」を利用しないてい鍼(ていしん)を用いるということは意図した手法が反映されているかどうかの判断が容易であり、経脈内と経脈外の気を交流させるにも厳密な反応を示してくれますが、前提は自然体が出来ることであり少しでも強く鍼を握ってしまえば目的の達成は出来ません。それでも難経をより忠実に再現するために、筆者はてい鍼(ていしん)を自然に選択しました。

 

将来に向けて

 筆者の治療体系は何度も繰り返しているように経絡治療ですから、脉診や腹診・体表観察をしてある程度の不問診も出来るだけでなく漢方病理の考察により付属しているはずの病症を言い当てるなど、それだけで素人の患者さんには相当な驚きなのですが最近になってですが積極的に用具の説明も行うようにしました。

 相次ぐ医療ミスの報道や医療訴訟での敗訴に加え、SARSなど新たで強力な感染症の発生、狂牛病や鳥インフルエンザなど食物衛生の不安が広がり、これらの状況の中で鍼灸のイメージアップを図るには「痛くありませんよ」とお題目を繰り返すだけでは誰も振り向いてくれるはずがないからです(本当に痛くなければという条件付きです)。しかもインターネットの発達はお茶の間での情報収集を可能にしているだけでなく、情報蓄積のスピードを飛躍的に向上させたので、いい噂も悪い噂もたちまち広がってしまいます。例のごとく悪い噂の方が数倍のスピードで聞こえなくてもいいところまで広がりますしね。だからこそ共通パンフレットも製作しホームページではプロ・素人に関係なく今までの資料を全て自由に持ち帰って頂けるようにしました。

 「刺さらない道具で治療出来ます」というのはどうでしょう。もちろん治療効果そのものがなければ話になりませんが、てい鍼(ていしん)のみで治療が出来るというのはやっと古典の世界にかなり戻ってきたというのが個人的印象なのです。てい鍼(ていしん)のみでの治療に切り替えて数年、やはり当初は激痛の際に毫鍼で刺鍼したいという欲求というのか不安感が何度となくありましたけど、自己治療の中で局所に毫鍼を突き立てるということは一時的には病症の回復をもたらしても経絡の流れ全体からすればマイナスにこそならなくても大きくプラスに働いたという経験がなく、てい鍼(ていしん)のみで統一した治療を行った方が遥かに成績がいいので今は治療ワゴンに毫鍼を準備することもなくなりました。

 池田政一先生が漢方鍼医会十周年記念大会の記念講演中で話されていたことなのですが、経絡治療学会の夏期大学でのアンケートに「西洋医学に根ざした鍼灸を求めていたので混乱した」という回答があったそうで、「これは元々鍼灸学科で学ぶこと自体が間違っていて西洋医学に根ざした医療をしたいのであれば医学部に入学すべきなのだ」と。西洋医学的なことや物理的なことを基準に考えるから「鍼は刺鍼しなければ効かない」という発想になるのであり、漢方独自の生理・病理を基準とするなら刺鍼する必要性など絶対条件ではないはずです。鍼灸で操作出来るものはあくまでも「気」以外にはありませんから。

 

 筆者は臨床成績がよりいいのでてい鍼(ていしん)のみに切り替えたのであり、後ろ向きの転換ではありません。これからの鍼灸はこのようになって欲しいとの願いから、読まれる人によっては自慢話に読めたでしょうが報告と提案を書かせて頂いたものです。

 

二木 清文

522-0201 滋賀県彦根市高宮町日の出1406

http://www.myakushin.info

myakushin2001@hotmail.com




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