「鍼灸術は誰のもの」

 

滋賀県  二木 清文

 

    序論 鍼灸師は医療者の自覚を持て

 規制緩和の波は鍼灸業界でも例外ではなく、養成学校の新設・増設によって年間に排出される人数が千人以上も増加することとなりました(もっともこれだけの人数になると学力低下は避けられず合格率も下がるとは思いますが)。

この春にも夢を抱いて沢山の人たちが校門をくぐるのでしょうが、その夢とは一体何なのでしょうか。「手に職をつけたい」と単なる専門学校と同じに考えている人もいるでしょうし「儲けたいから医療関係に進む」と考えている人もいるでしょう。筆者も視覚障害者ですから職業選択の自由度が狭くて盲学校をそのまま進学した節がありますから発想の不純さはこの際目をつぶるとして、何割の人が「医療者になるんだ」という自覚を持って飛び込んでくるのでしょうか。

「鍼灸師は医療者とは違うぞ」という声が聞こえてきそうですが、患者が「先生」と呼ぶのは医療者という目で見ているからで、西洋であろうが東洋であろうが一部のこだわっている人を除けば、身体が治してもらえればそれは医療者なのです。もちろん筆者は医事法規も知っていますから「漢方はり医」と括弧つきで名刺には書いていますが、医師と名乗ったり宣伝をしたことなどは一切ありません。

ちょっと話が飛ぶようですが「尊い仕事をされていますから」と言われたことが一度や二度はあるでしょう。これは患者さんが感謝をしてくれた最大の賛辞ですよね。ところが、逆に「尊い仕事をするのだから心を込めて治療しなければ」と思ったことはないでしょうか。いや、尊い仕事をしたいからとこの業界に飛び込まなかったでしょうか。でも誰が一体・いつ・どこで「尊い」と決めたのですか?治療を受けてもらっている患者さんですよね。鍼灸師の側ではありませんよね。治療そのものだって「してあげる」のではなく患者さんが来院してくれなければ話が始まらないのですから、「受けてもらっている」のではなかったでしょうか。大きな勘違いをされている人がいたなら、猛反省をお願いしたいところです。

かなり強烈ですがもう一つ書き加えるなら、当院は鍼灸専門ですが新患に「鍼の経験はありますかと尋ねると「按摩さんで一緒にしてもらったことはあります」という答えがよく返ってきます。驚くなかれ按摩と同時に行われる鍼灸はこちらは病気の治療だと思っているのに、素人からは全くといっていいほど認められていないのです(もちろん八方美人の言葉遣いの部分も含まれてはいるでしょうが、それでも病院に行った話と比べればどの程度のお世辞と本音かは判断できるでしょう)。それにこれだけの医療過誤が問題になっている時代ですが、素人では判断できないので大抵は問題の起こったところへまずは何度かリターンをするのに、按摩で起こった失敗の場合にはリターンをほとんどしていないようです。この現象に気付いていない治療家が大多数のようで、やはり反省をお願いしたいものです。

 「医療の一翼を担う鍼灸」と自ら言うのであれば、医行為を主導的に行うものとしての医療者という自覚を持たねばならないと思います。

 

鍼は刺さなければ効かないのか ―― 経穴治療と経絡治療

 またまた筆者の毒舌から入りますが、お灸は燃やしきらなくとも充分な効果が発揮されることをたくさん実践されているのに、どうして鍼はささなければ効かないという呪縛を未だにしているのか不思議でならないのです。

お灸に関しては中国では棒灸が一般的と聞きますし隔物灸や知熱灸は日本でも広く用いられています。灸頭鍼という併せ技も世界的に広まっていると聞きます。逆に筆者の勉強不足かもしれませんが透熱灸を行っているのは日本だけで、膿排を目的とした「打膿灸」は事実上継続することが困難という情報です。

つまり焼き切ることが決して悪いことではないのでしょうが、効果さえあれば熱いものを我慢したくないのは誰でも同じことで、艾が燃えることそのものに効果の秘密があると推測されます。そして透熱灸では灸根のことも考えてシビアに経穴を選択しますが、棒灸や知熱灸では経絡の流れが改善出来ればいいのであって艾自体も大きいことから余りシビアに取穴はしていません。これらを考慮すると透熱灸は経穴治療であり、棒灸や知熱灸は経絡治療と大づかみには言えます。

 では、お灸では経絡重視の治療をするのにどうして鍼になると経穴重視になってしまうのでしょうか。理由を考えてみると、一つ目はテクニックと知識は要求されますがシビアに取穴し施術することが容易である、二つ目は複数の愁訴に対して同時にアプローチを考えると名穴といわれるものをいくつも用いたくなる、三つ目は背部の兪穴を用いると全身への影響が大きく手足からの調整を不必要に感じてしまうためではないでしょうか。これらの理由を集約すると、鍼は手早くしかも同時に施術できるために穴性治療が容易であるということになります。

 筆者は穴性治療そのものを否定しているのではありません。むしろ経穴の重要性は脉診流経絡治療を行っている先生ほど身にしみていることで、特に本治法に用いる経穴の性質をよくわきまえておかないと証決定が正しかったとしても充分な効果が発揮されないだけでなく、誤治反応さえ起こすことがあるからです。「そんなにややこしいのならやっぱり経絡治療なんてやめておこう」とまた声が聞こえてきそうですが、本治法による選経・選穴は経絡を踏まえた上に穴性を最大限に発揮させるのですから、経穴治療との実力差は桁が一つや二つ違うと表現してもオーバーではないのです。あるいは背部の兪穴に施術するとしても、例えば筆者が自らの胆石を落としたように経絡を大きく動かしておいた後とそうでないのとでは同じ手技でも身体への影響力は相当に変わってきます。

経穴治療でも卓越した鍼灸師なら治療後には脉は整っているものですが、脉診しながら治療をされればもっと楽に素早くしかも複数の患者を同時に扱えるのに惜しいなぁといつも思います(ここの部分については「TAO鍼灸療法」13・14号に詳しい記事を投稿してあります)。

 

西洋医学とどのように共存するのか

 しかし、現実問題としては今持っている技術と知識によって明日も治療しなければならないのです(もちろん更なる向上を目指して研修会に出席することは怠ってはなりません)。そこで問題となるのは西洋医学とどのように共存をしていくかということです。

 「無理のない程度のものを扱いややこしいものは病院に送ればいいじゃないか」と、地域の業団体の集まりで言われたことがありました。この先生には申し訳ないのですが、研修会に全く出席されておられないことが一発で判明し、お山の大将でしたからその後は学術的なお話をしてはいません。先ほども書いたように「尊い仕事」と判断してくれるのはこちらではなく患者さんですから、難病に取り組んでそれを克服したときにこそ本当の喜びが沸きあがってくるものです。この「本当の喜び」を味わってしまうともう病み付きとなり、悩むことや胸を締め付けられるほどの心苦しさに七転八倒を繰り返すのですが、また取り組んでしまうのです。

机上の空論に振り回されながらも介護保険が走り出している時代に西洋医学と共存する方法とは、西洋医学では期待の薄い不定愁訴へのアプローチと難病治療の二通りだと感じます。これ以外の方法もあるでしょうが、リハビリの領域に踏み込むことは得策ではないとも感じます。

 本誌2000年12月号の繰り返しにややなりますが、不定愁訴は西洋医学では期待薄といいながらも医師達が鍼灸を始める可能性があるので安心していられないと思います。医師法という法律は考え方によっては非常に恐ろしい面も持っていて、医療行為に対しては制限がないのですから経穴の位置だけでなく経絡を知らなくともやったことのない鍼灸を行っても構わないのです。これが当たり前になってしまうと「鍼灸は残ったけど鍼灸術は滅んだ」と将来に言われかねません。これを防ぐためには難病治療にも取り組むことで、医師には絶対真似の出来ない経絡を最大限に活用した接触鍼による治療をしなければならないと考えます。すなわち経穴治療では簡単に真似をされてしまいますから、経絡治療をそれも脉診を駆使した経絡治療でなければ独自の診察法も持てませんしますます複雑化する難病治療にも対処しきれないはずです。

 

「鍼灸術」は預かっているもの

 先日こんなことがありました。(出張専門の人が悪いと書いているのではありませんからあしからず)筆者は往診があまり好きではありません。なぜならエスケープできる場所もなければ意志が伝わりすぎて息が詰まってしまうからです。何よりも「絶対に治さなくてはならない」というプレッシャーに絶えられない小心者なのです。しかし、親戚や子供の時にはそうも言えません。研修会の帰りには助手を連れて一杯呑みに行くのが恒例となっていますが、たまたま前夜は忘年会をしていたのと雨だったのでそのまま帰路についていると、「子供が朝から発熱して頭痛で苦しんでいる」と携帯電話が鳴りました。家には何度も電話があったそうで、迎えに来てもらえるとのことなので往診することになりました。幸いにして前の冬に往診したときのように何時間もかからず、雑菌が後頚部のリンパ節を腫らして発生させている頭痛と判明したので一時間ほどで終了となりました(小児鍼については機会を改めて経絡治療の立場から書きたいと思っています)。

今回も「絶対に治さなくてはならない」と腹をくくっての出陣でしたから、いつも以上に効果が上がる代わりにいつも以上に疲れが出ました。そしてお金はいただかずに帰りました。往診の時には筆者はお金をいただいたことはないのです。このあたりは賛否両論あるとは思うのですが、筆者のステータスとしては往診の時にはお金はいただきたくないのです。

 我々は経済人でもありますから治療行為によってお金をいただき、いかに治療室が繁栄をするかを常に考えています。それで当然です。言い換えれば「時間の切り売り」をしているのですから一度に複数のベッドを回っていても期待通りの効果さえ出せればいいのです。また筆者の言葉ではありませんが「患者さんからはお金を取ってあげなければ治そうという気が沸いてこない」というのも事実でしょう。逆に時間外の診療を申し込まれると「時間の切り売り」を提供外に求められるのですから倍額を請求しています(これも賛否両論かもしれませんね)。しかし、本誌の中でどなたがかかれていたのか忘れてしまって恐縮なのですが「うがった見方をすれば我々は人様の弱みに付け込んで仕事をしているともいえる」とあり、全くその通りだと重い「高いお金を出したのに効果がなかった」と期待を裏切らないように努力はしています。

 それを踏まえて筆者は思うのです。我々の行っている鍼灸術とは一体誰のものなのだろうかと... 確実に言えることは己の才覚と努力によって培い育ててきているものです。しかし、そこに至るまでには沢山の失敗はなかったでしょうか。いや、これからも失敗は繰り返してしまうはずです。己の才覚と努力とは言いながらも、患者さんが自らの身体を投げ出して何度も教訓を与えてくれたからではなかったでしょうか。筆者の師匠である丸尾頼廉先生は開業に際して、「患者さんの顔を見れば数字がはじけてしまうのだが算術にはならず仁術に徹せよ」と「患者さんは常に師匠と思え」という言葉をいただきました。そうなんですよね、技術の半分は患者さんから預かっているものなのですね。

 だから筆者は「普段預からせてもらっている技術でお役に立てるなら」と、往診の時にはお金をいただいたことがないのです(もっともほとんどの方が後で御礼として何かを持ってこられますが、これは人としての感謝という意味でお金以外は受け取っています)。儲けることも大切ですが誰かの犠牲によって成り立っている技術なのですから、次の人に少しでも恩返ししたいという気持ちを込めればそれだけでいいのではないでしょうか。それが技術向上への最短距離だと実感しますし、究極の営業繁栄の秘訣とも実感しています。

 

終論  押し付けの医学は誰も望んでいない

 21世紀に突入し、ますます医学は発達のスピードを増していくことでしょう。それに比例して新しい病気も発生してくることでしょう。医療過誤の報道と並んで気になるのがテクノロジーに頼った医療技術のステップアップです。生体肝移殖はいまやあたりまえの治療法となり生態肺移殖も世界に先駆ける勢いで成功しつづけています。それで生命が実際に助かっているのですから文句はありませんが、その「飛び道具」を出さずに初期段階で処置が出来たはずの事例も多かったはずです。まるで一時期流行ったプロレスの「電流爆破デスマッチ」みたいなもので、相手が大ケガをしようが何であろうが勝負に勝ちさえすればいいみたいに筆者には移るのです。武士道と書けばこれも古風ですが、誰でも一度は死ぬのですから筋道を立て意地を貫くときには徹底的に戦い潔く身を引く綺麗な人生... はちょっと美辞麗句過ぎますか?

 筆者は「鍼灸術は預からせてもらっているもの」と思っていますから、常に患者さんと喜びを分かち合い治療室は笑いに満ち溢れてて欲しいのです。実際に関西の「よしもと」のノリで、下手な漫才よりもおもしろいと会話を楽しみに来ておられる方も多数です。

筆者は先天性の緑内障ですから特に高校生の時には原因不明の眼球痛も加わり、スポーツもしていましたから外傷が絶えず内臓疾患以外では病院に通ってばかりいました。そこで自分が開業するときには、「病院で嫌だったと思うことは90%の人は同じように嫌だったろうし自分がこうだったら良かったのにと言うことは80%の人も同じように望んでいるだろうからそれだけを実現しよう」をコンセプトとしました。予約制で時間を守るとかベッドの数とかパンフレットの話など色々ありますがこれは別の機会に譲るとして、押し付けの医療など誰も求めていない・患者さんが主導権を持たない医療など医療ではないと思うのです。我々は知識を有して技術を預かっている身として、病体を分析して治療のプランを提案し回復の手伝い役に徹するというのが本来のインフォームドコンセントではなかったでしょうか。

確かに鍼灸術は西洋医学に比べて患者さんが希望を言いやすい割に治療順序はプランどおりでないとうまくいかない物です。だからこそコミュニケーションのしっかりした押し付けでない「預からせてもらっている鍼灸術」という意識が大切なのではないでしょうか。




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