20回漢方鍼医会夏季学術研修会

 

パネルディスカッション「臨床における良い脈とは?」 

第二席

 

滋賀漢方鍼医会  二木 清文

 

 

【はじめに】

 私は平成元年に開業をしていますから今年で26年、それ以前の学生時代を含めるとこの世界に30年関わっているのですけど、その中で「よい脉」を診る時のキーポイントを何度か変更しています。ですけど、一貫していたことは「いい脉」とは「触っていて気持ちいい脉」だということ、これだけは一貫していました。

 

 それでは、どのようにキーポイントが変化をしてきたのかを話していきたいと思うのですけど、まず間違ってはいけないことであり特に入門部へ参加されている方にはよく聞いておいて欲しいことなのですが、「触りやすい脉」と「触って気持ちいい脉は全く違います。よくやってしまうことが診やすい脉がいい脉じゃないかと思い込んでしまうことで、ベテランの先生には細い脉ではいけないということがよくおわかりなのですけど触覚訓練のまだできていない人には指にしっかり触れられる脉が触りやすい脉ということになってしまいます。でも、これは己を基準にしているのであり、実際に昨日から腹部や肩上部と三点を同時に触って観察をしてくださいという研修をしてきたわけですが、より脉診が上達したいのであれば脉のみに集中するのではなく他の所見と合わせることで「この状態がいい状態なのだから、これがいい脉なんだ」と判断ができるのであり、事実の方が先にあるのです。事実の方が絶対に先で、己の感覚をそちらへ合わせていくということが大切なのです。

 

【事実の方が先にある】

 最初に私が「触って気持ちいい脉」を実感したのは、これは教えてもらった方法なのですがトイレを限界まで限界まで、震えが来るくらいまで我慢をして、その後にトイレを済ませた直後の脉は柔らかくて気持ちのいい脉になっています。想像してもらうだけでも分かると思うのですけど、それまでは全身の節々に痛みが来るくらいまで我慢をしていたのですから全身状態が改善してのことだということが分かりますよね。これは学生時代の経験なのですけど、「この気持ちいい脉を作らねばならないんだな」と最初に実感をした体験でした。

 それはそうなのですが、漢方鍼医会で最初から入会した人は別として私も最初は別の研修会にお世話になっていましたし、学校で教えられるものは脉差診です。それで脉差診から入門したので、各指に平均化した状態での「気持ちいい脉」を目指していました。あのトイレ後の脉はすごく平均化された脉ですし、浮かせて陽経・沈めて陰経という脉差を、あるいは中脉というものを診ながら全てが平均化された状態での「気持ちのいい脉」を目指していました。

 話が少し飛びますが、私は助手修行をさせてもらえるというラッキーに恵まれました。昨日もそうですし今もこの会場にお師匠様が来て頂いているのですが、今でもそうですが口が重たい先生なので、最初に「不問診をしてこい」としか言われなかったのです。他に何も指示をいわれないのでそれをやるしかなく、ずっと自分のインスピレーションをそのまま口にして患者さんに確認をすることで、ある程度の不問診を身につけることができました。本当は口にして表現ができるなら一杯表現したいのですけど、なかなか表現ができません。それと私が助手を入れるようになってからも「不問診をしてきなさい」と全員にいうのですが、できるようになる人とできない人がいて、そのような脉診法が私の根底にはあります。

 

 それで修行を終えて開業してから夢中の数年間だったのですけど、脉診に夢中になっていると段々と分からなくなってくるのです。それでその当時のものですけど、腹診をやはりせねばならないと思い取り組みます。そうすると脉診がまた分かってくるのですけど、今度は腹診が分からなくなってしまいます。腹診のために脉診をしていると今度はまた脉診が分からなくなり、腹診から脉診のことが分かるようになったりということを繰り返していました。

 そんなことをしていると当時は東洋はり医学会の相克調整ですから、肺肝相克なら肺・脾・肝から時には腎にまで鍼を入れるものですから、心と心包はまとめてしまうので陰経は五つしかないのにそのうちの四つに鍼を入れたりしていました。そして陽経ですけど、陰経が三つだけだったにしても四つでもそれとは無関係にあちこち鍼を入れるのです。気が突くと、ひどい時には十二経絡のうち十一も、本治法で八つや九つの経絡へ鍼をするのはざらで凸凹治療になっていたことに愕然としました。「こらあかんな」、という感じでした。

 その頃に出会ったのが、漢方鍼医会発足の動きでした。昨日も学習をしましたけど、この時に菽法脉診を紹介されたことはものすごい衝撃でした。肺の脉は三菽にあって正常なのですが、浮かせて陽経・沈めて陰経ということになっていると陰経なのでぐっと押さえてしまい、肺の脉はそんな押さえた位置になくて当たり前なのに「脉がない」と、肺経を補う治療をしてきたのです。これは古典(難経)に書かれていることと違っていたのだし、それを実践するための脉診があったのだなぁと思い知りました。

 この菽法脉診を取り入れるようになってきた時、同時に『脉診とは鏡なんだ』ということも思うようになりました。鏡というのは正面から見た時、右から見た時、左から見た時、上から見ても下から見ても全く違った画像を返してくれます。それでどれが正解なのかといえば、どれも正解なのです。そのように見たければそのような映像を返してくれる、先程は浮かせて陽経・沈めて陰経という診察をいかにも悪いことのように表現してしまいましたけど、でも治療法として成立していますし難病も治癒させていますし、あるいは奇経治療での脉診などもありますし、脉診というのはこちらが診たいという要求に対して情報を返してくれるのですから『脉診とは鏡なんだ』と思ったのです。ですから、他の脉診法の批判をする必要は、それで治っていくのですから一切ないと思います。ただ、一番効率のいい脉診を求めていきたいなと思うようになっていきました。

 

【呪縛の時期】

 けれどこの頃は、一手目に菽法を重視してどこが一番菽法から外れているとかここを菽法に戻したいとかこだわってやるのですが、呪縛なのか最後は指に均等に触れる脉を作ってしまうことにどうもこだわってしまう時期が、相当に長く続きました。これは昨年に伝統鍼灸学会で京都へ行った時に新井会長とちょっと飲みながら「実はこのようなことだったんです」と話したなら「そんなことないよこちらもそうだったよ」、という返答でした。

 それでも年数が経過して段々と呪縛が取れてきた頃に、これは歴史的考察をすればごく当たり前のことだったのですけど「難経は片手ずつの脉診をしていた」と伝統鍼灸学会で聞いた時、これも衝撃的でした。完全な思い込みをしていたわけです。“難経”のかなり後に“脉型”という本が出てくるのですけど、そこで初めて両手を一度に脉診すればどうですかということが書かれてあるのです。だから、それ以前の古典で書かれている脉診は、片手ずつ脉診をしていたのを基準に書かれているのであり、それを踏まえて読まなければならないのです。

 でも、私は先程触れた不問診もしますから、不問診というのは両手同時に脉診をしないと分からないのです。そのようなことも手伝って、脉診は両手同時に行うものだと思い込んでいましたから余計に衝撃的でした。

 片手ずつの脉診もやってはいたのですけど、呪縛から解き放たれたことによってかなり違ったものが見えてくるようにもなりました。以前から本治法の一本目で菽法ピッタリの脉、つまり3,6,9,12,15の菽法の高さに治まる脉を作れることが時々あったのですけど、毎回ではありませんでした。呪縛がありましたから、一本目でそれなりに菽法近くの高さに治まっていた脉を、わざわざ崩していたのですね。今だから正直に話せることなのですが・・・。この菽法の高さに完全一致する脉を作ることが、当たり前になってしまいました。

 

【私の思う胃の気脉】

 この菽法の高さに完全一致する脉が作れるようになってきたなら、根底にあの「気持ちのいい脉」が常にあることに気付きました。これはほとんど結論になると思いますけど、胃の気脉そのものを触れるということは命絶の一歩手前でないと他の五臓の働きが止まってしまった状態でないと触れることができないのですけど、でも参考資料の中にも書かれているように例えば四時の脉だとか五臓正脉だとかこの菽法だとかがピッタリとでてくる状態になっていれば他の脉状も大抵は整っているはずです。私の臨床の中で、今一番胃の気がハッキリとでているだろうなという状態に近づけるには、3,6,9,12,15の高さに五臓がそれぞれ治まった脉を作ることが、一番胃の気がでている脉だと実践しています。

 

 話を少し別の角度からしますが、昨年にオランダからの見学者がありました。日本人ですから日本語を喋ってくれていたのですけど、向こうで勉強をされていて中医学ばかりだということです。脉診というものを習ったことはあっても座学だけで、実際に脉を触ったのは私の治療室へ来た時が初めてでした。ですから、触覚訓練もなければ脉を診て何か評価するということも初めてだったので、どうしても自分が触りやすい脉をいい脉だといわれてしまいます。

 それで高血圧の方が来られたのですけど、「この脉をいい脉だと思いますか?」と尋ねたなら、うーん、やはりいい脉に思いたいです」という反応なのです。これはどうやって説明しようかなぁと思った時、腰痛の強い患者さんが来られたのです。その患者さんの脉を触らせて、これはいい脉ですかと細くてつんつん指を突いてくる脉なのでその人には触りやすい脉だったわけですけど、「この足を延ばした状態では腰が痛いですよね」と患者さんに尋ねると痛いという返事です。そこで膝枕を入れました。すると「あぁ楽になりました」と、患者さんの声です。脉が柔らかくなって触って気持ちいい感じがしますし、お腹も肩上部もすっと緩んでいます。

 これが事実ですよ」と尋ねたなら、「触っていて確かに気持ちいい脉だと変化が分かりました」となり、いい脉の説明をすることができました。

 全てではないにしても、かなり病症の強い患者さんの場合に楽な姿勢へ変化させてあげると脉が柔らかになった時、このような脉は胃の気脉が前面にでてきているので、これを観察して覚えておくことは大切ではないかと思っています。

 

【不問診のヒント】

 それでは先程にでてきていた不問診で、言葉に治せるものについて一部紹介したいと思います。

 ぎっくり腰の脉は左右で太さが異なり、片方は昨日の研修で行った「気の抜けた脉」のような開いた感じで、片方は細くなっています。これは気血の巡りが途中で突然に悪くなっていて、渋滞している部分と流れがあやふやになっている部分があるということで、おおむねは左が細くなって右が開いた感じになっているのですけど、その逆もあります。これは実物を一度体験させてもらうと、次から「あなたはぎっくり腰ですね」と言えるくらいになります。

 骨折の脉は、両方の寸口が同時に強くなっています。結論は半月板損傷なのですけど、先週から来院されている患者さんですが膝が痛いのだけれどよく分からないといわれて、一年以上通院しても病院で原因も分からなければ夜中が痛むということです。それで脉診をすると、両寸口が強いのです。おそらくこれは半月板損傷だろうとこの時点で分かります。半月板損傷の場合は、膝蓋骨を真上から押さえて膝蓋骨の下側で痛みがあるかと質問をするのですが、痛むといいますからこれで間違いなしとなります。過去にレントゲンをしたり造影剤を入れて検査をしていた人なのですけど、「半月板損傷など治るのか?」と質問されたことがありますが、半月板損傷はハッキリ言って治せます。

 胃潰瘍の脉は、脾の部分になる右関上が中抜けになっているような脉状です。

 熱のこもったような状態というのは、               ちょうど六菽くらいのほんの少し指を沈めた高さで小魚が跳ねているような、ぷつぷつぷつと指に来るような脉をしています。腰痛がひどくてひどくて自発痛がしているという人にこのような脉を見かけたなら、「頑張ってお風呂に入っているでしょう?」と尋ねると「入っています」となりますから、「そらあかんよ」とつながっていきます。

 脉診というのは、このようなことができるようになってくるととてもおもしろいのですが、不問診というのはインスピレーションが非常に大切であり、チャレンジしていただければと思います。

 

【臨床で気を付けていること】

 私が治療で気を付けていることなのですけど、それは今まで脉の話をこれだけしてきたのに脉診至上主義に陥らないことが一番大切だと思っています。脉だけを診ていると、「こうなんじゃないかな」と思って診ていると、訳が分からなくなってしまいます。我々は他に注意をしてくれる人が普段の治療の中ではいないので一国一城の主ですから、先程も述べていたように己の感覚をどうしても優先したがります。それこそ悪くすれば「あんたの性格が悪いからや」のように思えてきたりするのですけど、ですから脉診至上主義に陥らないことが大切だと思っています。

 もう一つですが、これは脉診でしかできないことなのですけど治療終了時には数脉は必ず落ち着けるようにしています。浮沈とか硬い脉とか、それから時々あるのですけど柔らかすぎる脉とか、このようなものを全て納めようとするとかなり無理があります。滋賀漢方鍼医会の会員が先週の月曜日から三日間連続で見学に来ていたのですけど、まだ入会して間がない方なので「この脉をどこまで治療すればいいのですか」という話になり、一度では無理のあるケースがありその時には最低限数脉を押さえるという話をしていました。

 結論にかなり近づいてきたのですけど、「俺が治してやるんだ」という気持ちにならないこと、これが絶対に大切だと思います。先輩たちから、それも三千年も前の先輩たちから受け継いできた技術というのは、その先輩たちの努力もそうなのですけど多くの犠牲の上に成り立っているということを、常に忘れてはならないと思います。自分たちが努力して獲得した技術なのですけど、「これは半分預かったものなんだ」という意識を持っています。

 

【鍼の持ち方について】

 その他で気を付けていることなのですけど、鍼の持ち方があります。

 漢方鍼医会では毫鍼を使っていない人の方が多いと思うのですけど、井上恵理先生が柄を二部長くして長柄鍼というものを作られたのですけど、これは示指をしっかりと伸ばすための鍼です。色々と森本てい鍼を見せてもらった時も衝撃的だったのですけど、自分の手に合わせたものを作りたいということで、写真のような二木式ていしんを作りました。今は45mm55mmの二種類を使い分けています。

 それで鍼を持つ時なのですが、示指を伸ばして一本のみで垂直近くにまでできている写真なのですけど、こういう風に鍼が持てるように、示指を伸ばす練習をまずします。この状態でゆっくり拇指を重ねていって、そっと触ったくらいが鍼を持つ力じゃないかと思っているので、このような練習をしています。

 さらに、残り三本の指が大切です。残り三本の指を上手に使うことですが、昨日の実技の中でもあったことなのですけど、刺し手の残り三本が丸くなっていると毫鍼はそうですが、ていしんでも鍼を強くしか握れません。それで残り三本の指が上手に使えていれば、あれだけ太い「二木式ていしん」なのですけど、衛気の手法にもしっかり対応ができます。

 

【終わりに】

 最後になります。先程「多くの犠牲の上に成り立っている技術なんだ」ということを話しましたが、私たちにできることというのは高い高い山を築いてきてもらったのですけど、その上に薄っぺらい石を一つ重ねることくらいじゃないのかなと思います。でも、そのようなことを自覚しながらも次の世代へ伝えていくことが大切だと思い、いつも研修会に参加させてもらっています。

 

 

【グループ質問】

 

 

  14班 ちょっと変な質問になってしまいますが、胃の気を補うのは食事が大切だと思うのですけど、私たちの治療で鍼とお灸というのは何をしているのでしょうか。

  二木 多分、気血津液をうまく循環させるための調整だと思います。よく患者さんからも「刺さないんですか?」と聞かれるのですけど、「鍼という道具はあるいはお灸という道具は、全身を調整するための道具ですから特に刺さなくてもいいんですよ」という答え方をしています。

 

  15班 最初にいい脉の作り方として腰痛の患者さんへ膝枕を入れるということを話されていましたが、他に何か方法があったなら教えてください。それから数脉のままで患者さんを帰さないということを話されていましたけど、その数脉がどこから来ているのか熱病から来ているものなら数脉は取りきれないことがあるのか、お願いします。

  二木 例えば肩関節痛で自発痛を伴っているような場合、腕の下側へ枕を入れてやるようなことでもいい脉への変化は確認できます。痛みを緩和させた状態というのがやはり分かりやすく、自分の膝や足首などが痛む時に先にその脉状を確認しておいて痛みの止まる何らかの姿勢に変化をしてその脉状をまた診るというのがいいと思います。

 もう一つ数脉のことですけど、熱病でも納めて帰さねばならないだろうと思います。後で熱が上昇してくるようなケースは仕方ないとして、陽虚が進みすぎてかなり熱が乱高下しているような状況でも治療終了時には脉を落ち着けておくべきです。今は陽経からの治療を行うので井穴刺絡をほぼ行いませんけど、陽虚で熱が乱高下している時には井穴刺絡を行うと一発で数脉が落ち着きますから、そのように気を付けています。

 あるいは癌の末期だとすごい数脉になっているのですが、うまく落ち着けられた時には次に楽だったといわれるのですけど、どうしてもうまくいかず心の中でごめんなさいといいながら帰ってもらった時にはしんどさを訴えられますから、可能な限り全力を尽くして数脉のままでは終わらせないようにしています。

 

  12班 二木先生が作られるいい脉とは菽法が揃うといわれたのですけど、季節にかかわらず揃っていきますか、それとも変わっていきますか。

  二木 発表の中でも発言させてもらっているのですけど、例えば四時の脉だとか五臓正脉だとかどれかに着目してそれらを正確に出していく努力をすれば、他の脉も大抵は整っているものです。菽法に限っていえば3,6,9,12,15をまず整えるようにしています。そのようにすると冬だと微石の脉に、春だと微弦の脉に大体整っているので私はあちこちの指標を全く診ていないわけではありませんけど菽法に焦点を絞っているのが楽ですし、その方がその他の指標もうまく出せているだろうと臨床でやっています。

 

  9班 良い脉とは何かということで、昨日の会長講演の中で「病症改善に向かう時がよい脉」と話されていたのですけど、我々は患者さんの治療を実際にしながら仲間の鍼灸師と共通認識を得るのが難しい中で良い脉というのを自分一人で基本的には体得して行かねばならないといところで、とてもいい表現だと思いました。それはそうと作り出された脉、トイレの後の脉とか腰痛で膝を曲げた時の脉を良い脉として覚えてもいいのだろうかという意見が出ました。一時的に症状の取れた時の脉と病症が改善に向かう時の脉は違うと思うのですが、どうでしょうか。

  二木 良い脉の条件というのは、会長講演の中でもあったように幾種類かあると思います。私も、今幾種類か話をさせてもらいました。その要素として、基準線というものがなければ何も分からないと思うのです。昨日の実技の中で少し喋っていたのですけど、伝統鍼灸学会へ出かけて他の会の先生と脉の話をしていても共通で話が一致するのは遅数しかないでしょう、浮沈でさえある会ではまたはある先生は強く押さえるでしょうしある会はものすごく軽いでしょうし、そうなればおそらく浮沈の認識は共通していません。そんな中で、良い脉の一つの基準として診ていただければという提案なのです。

  9班 少し質問の仕方が悪かったというのか表現を間違えてしまったのですけど、例えられたものが胃の気のある脉と捉えていいのかどうかということなのですけど。

  二木 胃の気のある脉かどうかという点でいうと、トイレを我慢した後の脉は若干違うかも知れません。でも、ひどい腰痛の患者さんの膝を曲げた時には気血津液がそれで巡ってきますから、胃の気がかなり前面にでてきているという認識です。

 

  6班 治療をしていく上で、体質による脉に近づけていく胃の気を出すということの関係というか、割合を教えてください。

  二木 これも会長講演の中で色々と示された話と関連していくことなのですけど、まずどちらも大切だと思います。それで体質の脉なのですけど、これは同じ患者さんを何度も継続して診察していると「この人の体質の脉はこうなんだろう」ということが分からないと思います。かなりの常連さんになられたなら体質の脉というものはかなり意識して診ています。まだその段階に至らないとか急に病症が変わった、例えばさっき階段から落ちた・ぎっくり腰になったとか、何年かぶりに来院されたなら以前は肩関節痛だったが今回は腹痛だなどとなってくるともう分からないので、まず胃の気が多くなる脉だけを目指しています。これが臨床テクニックの一つかと、私は思っています。

 

  10班 伝統鍼灸学会で呪縛が解けたという話をされたのですけど、どういう呪縛が解けたのかもっと詳しくお願いします。

  二木 本論の中でも喋ったのですが、どうしても脉差診から始まりましたし不問診もある程度やっているので指に平均化された脉、これが呪縛だったのです。でも菽法ピッタリの脉、肺が3心が6脾が9肝が12腎が15に収まった脉というのを当たり前に作れるようになったというのが呪縛が解けてからのことです。もう少しだけ突っ込んで話すと、指に平均化された脉を作ろうとすると六十九難の母子関係で補うという方式が有利になってくると思います。それが菽法をある程度意識してくるようになると、例えば肝は陰経を使うのですが、母経の腎を助けてやるために剛柔で陽経の胃経を次には使うというようなやり方をやっていたこともあります。今は、本治法においては気血津液論で行う時でも一本しかやらないことが90%くらいでしょうか。でも、時々は母子関係で補ったり下合穴を使ったりもします。そのようにして、菽法に一致した脉状にしています。それまでは菽法にほぼ一致していたのに、わざわざ壊していたというのが呪縛でした。

 

  1班 一回で脉が完璧にならない時「最低限これだけは取る」と発言されていましたが、その時に先生がよく使う手法・鍼・経穴などがあれば教えてください。骨折の時や胃潰瘍の時など特徴的な脉について発言があったのですが、それについて先生の経験からこういう脉が多いということなのかもし古典に書いてあるのならその説明もお願いします。

  二木 まず不問診でできる特徴的な脉のことなのですけど、これは松田博公先生との対談の中でも話したことなのですが不問診をする人たちが過去にいたのですけど文献にでてこないのです。私がここで話をしていると「俺は脉さえ診ればなんでも分かるんだ」のように聞こえてしまいますけどそんなことはなく、不問診で診断のできる人もあるというくらいに捉えて欲しいのです。修行時代に自分には治療への責任がないので懸命にそれだけに取り組ませてもらえたので、ある程度今でもできるのです。その中から私の助手たちに「この脉はこのように診察できるだろ?」と尋ねるととても驚いた顔をされたので、明らかに判断のできる脉とはどのようなものだろうと観察するようになったなら今回の四つくらいは言葉に直せるようになったのです。今度は言葉で助手たちに伝えていくと、助手たちもこれくらいのものは不問診で診断できるようになっています。

 一番目の質問ですが、「これだけは」というものは実はありません。どさくさ紛れに患者さんを帰宅させてしまうということもなきにしもあらずで、でも本治法の一本目では数脉を押さえるようにしています。それこそ証がよく分からない病理がうまく理解できない時には、数脉が納まるという基準で経穴を探っています。本当のことを話せば「全くこの病理は分からないなぁ」ということもありますし、それから時間的にゆっくり対処できないということもよくあるので、感覚的に処理をしてしまってはいけないのでできるだけ対処はしているのですけど、どうしてもという時にはまず数脉の納まるところを探しています。

 それで本治法が終わってからなのですが、うちでは約半時間休んでもらうことにしています。これは古典に経絡は一日に五十周するとあるので計算すると一周は約半時間ということからであり、絡脈・細絡・孫絡までしっかり気血を巡らせるためには一周させた方がいいだろうという考えからです。その間に自然治癒力が向上してくれますし、自然治癒力が高まるということは治療家がすべきことが減りますし、リスクも少なくなりますし、患者さんはその間に大抵は眠っているのでそのようにしているのですけど、標治法の段階になって数脉になっていれば本治法をやり直しますしそれでもダメだったなら標治法に頼ってしまいます。特別な道具はありません。

 

 

個人質問

 

 

  本田 私がちょっと思ったところは、今回の副題である脉状診というところなのですけど、先生は「脉診だけではいけないよ」ということを話されていましたが私は脉診に一番に重きを置いています。先生は「脉診だけではいけないよ」というところにどうして至ったかについてお願いします。

  二木 私の『にき鍼灸院』のドメインは、“myakushin.info”なのです。私自身もとても脉診を重視していますし、脉が一番大事だと思っています。一番大事にしたいがために、その自分の考えが曲がらないためのストッパーが必要だとも、考えています。

 本論の中でも少し触れているのですが、脉差診の時代に脉を重視していて平均化された状態を作ろう作ろうとしていたなら気が突くと凸凹治療になっていました。十二経絡のうち七つや八つに鍼を入れるのは当たり前、ひどいと十や十一も入れていたかも知れません。ということは、私の脉診が曲がってしまっていたことに愕然としました。それでも難病とされるものでも治っていたのです。でも、それでは自分のやっていることが何なのかさっぱり分かりませんし、患者さんもとりあえず治ればいいといえばいいのですけどドーゼ過多を起こしていたことが多かったと思います。それで最善の道を究めるためには、常に何かのストッパーが必要だろうということから、脉診がより上達したいのなら他と必ずペアで勉強すべきだと思うようになったのです。

 

  隅田 伝統鍼灸学会で先生が衝撃を受けたという、難経の時代は片手ずつの脉診だったという研究ですけど、その方の研究ではどのような根拠で片手で脉を診ていたとされたのか、覚えておられますか。

  二木 これも本論の中で触れましたが、池田政一先生に『脉型』の講義をしていただいた時に池田先生も話されたのですが、『脉型』がでてきて初めて両手同時に脉診することを提案されているので、それ以前は片手ずつの脉診だったということです。素問や霊枢には両手同時に脉を診てという表現が一切なく、難経にもないということは片手ずつで脉を診ていたということになるでしょう。三部九候から人迎気口と、段々と脉を触る部分を集約してきてそこから片手ずつ脉を診ていたのだろうと発表されていたと記憶しています。

  隅田 成立年代を考えれば、『脉型』と『難経』を比較すればそうなると考えられたのですね。

  二木 そうだと思います。

 

 

【まとめ】

 

 

 本田先生から最後に話をしようと思っていたことを先に出してもらったのですけど、私も本当に脉というものを大事にしています。最初に学生時代に「脉を診てみろ」といわれた時、そこで司会者として座っている小林先生も横にいたのでありクラスメートがここまで腐れ縁で続いてきたのですけど、点字を使っていたので触覚訓練がありましたから脉の変化というものが分かり、それがものすごい衝撃でこの世界にのめり込んでしまったのです。それくらい脉は好きなのです。でも、脉が好きだったならその反対側というのか、脉の評価をするための勉強も同時に大切でしょうということを最後にまた強調させてもらいます。ありがとうございました。

 

【未回答の質問】

 

  2班:難経では、片手ずつ脉診をしていたとのことですが、どのような内容でしょうか。

  二木 両手同時に脉診をするという発想がまだなかったので、単純に片手ずつで脉診をしていたものと思われます。現在の我々が両手同時と片手ずつを交互に脉診しているのとは違って、最初から最後まで片手ずつでしか脉診をしていなかったと思われます。ですから伝統鍼灸学会から帰宅したなら、治療の途中まで両手同時に脉診することを数日間封印してみたところ、随分と印象の違った診察ができるようになりました。

 

  2班:不問診では両手の脉診でインスピレーションを働かすとのことですが、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

  二木 オカルトと混同されると困るということを最初に断っておきます。誰もが修得できる方法ではなさそうですし、具体的な説明がしづらいのはこちらとしても残念なのですが、患者さんの両手の脉に触れた瞬間に病状が頭の中で分かってしまうことがあります。それも文字のような感じではなく、イメージとして伝わってくるので一瞬でのことです。身体で分かるというのではなく頭の中で分かるので、付随している症状のことなどが類推でき次の会話がつながっていきます。でも、オカルトではなく本論でも述べたようにいくつかは典型的なパターンがあって言葉にも直していますし、あの程度のことは修行に入っているのですから助手が見抜けなかったならかなり強く叱ります。それから間違っても構わないので、インスピレーションが沸いた時には思い切ってこちらから症状を言い当ててくるようにとも指示しています。それが不問診を会得する、唯一の方法だと思います。

 助手時代にはそれこそ何も問診せず、脉を触っただけで症状を確認するだけということさえありました。私の師匠も自分が助手をしていた頃は、、痛みが左右どちらで上半身か下半身かくらいはほぼ判断できていたと話されていたのですが、それは最後の責任がないので脉診だけに集中できていたからだろうとも話されていました。開業をしてから治癒が優先なので確かに不問診の比率が下がったのですけど、この言葉を聞いていたので若かったこともあり不問診を手放さないようにとも心がけていました。それで今でもある程度はできるということです。

 

 3班:菽法が整えば脈状も整うものでしょうか。

  二木 整うと思います。菽法が整えられたのに、例えば弦や遅が明瞭に残っているというようなことはないでしょう。逆に言えば弦や遅が改善できたと自分では思っていても、その一点のみであるなら検脉の間違いじゃないでしょうか?脉は多層構造からの情報なので、一度に多くの影響が及ぶとも解釈しています。菽法であれば五臓それぞれの高さを確認することになるので、五つの箇所を確認すれば検脉の間違いはほとんど回避できると思います。

 

 3班:数脈が必ず取れるものではないとしたら、治療終了後の対応はどうされるのでしょうか。

  二木 力及ばず本治法で改善できなかった時には、標治法に頼るしかないです。毫鍼を用いていた頃には局所へ深く刺鍼したことも確かにありましたが、今はていしんなので邪を払うという手法で代用しています。お灸に頼ることも、もちろんあります。私は視覚障害者ですから自分一人でできる鍼での治療に基本を置いてしまいますけど、ドーゼ過多に常に気を配っていれば何らかの標治法はできるはずです。

 それから先輩諸氏より「脉は改善の方向へ向かえばそれでいい」という話を何度も聞いてきたのですけど、これも呪縛の時代には心のそこからは納得していませんでした。しかし、今は特に明らかな数だったものなら完全に平とはならなくても、近づいていればその後は必ず改善していると確信があります。また沈についても、ある程度浮かせられれば改善の確信があります。遅は強引に早くさせなくてもいいというのが経験です。

 

 4班:腰痛患者の話で、膝窩に枕をかませると脈や腹部は変化すると思います。それは良い状態とするなら、何を基準にして治療をされているのでしょうか?やはり「良い脈と仰らない方が良いのでは?」と考えますが、その点もお願いします。

  二木 逆の説明からになりますけど、患者さんが苦痛な状態のままで治療をしてもいい結果には結びつかないでしょう。経絡というものは大きく延ばして明瞭な状態にしてアプローチするほうが効果が上がりますし、身体が楽な状態にしてアプローチした方が効果がより大きくなります。膝枕を噛ませて腰痛が楽になったなら、その変化はいい変化であり、治療はその延長線上を考えれば間違いなしとなります。脉についてもいい変化がでていればその延長線上でさらにいい脉を作るということになるので、治療終了後のいい脉と近藤さえしなければ基準線があるのですからとても分かりやすく治療もしやすいと思いますけど。

 

 5班:数脈を取りましょうというのはどの観点から来ているのでしょうか。

  二木 選経・選穴がうまくいかないと、ほとんどは数になります。ですから、治療終了時に数いい結果がでてこないことにつながりますし、経験上もそうです。初心者の頃でしたが、腹部へ散鍼をしたのがまずい手技で数になってしまい、それだけで呼吸が浅く動悸がでてきて患者さんを苦しめてしまったことがあります。奔豚気の場合、数が残っているとその後にひどい動悸につながってしまいます。本論でも喋りましたが、癌末期では病理も脉状も分からないくらいになって必ず数ですから脉診できるものが遅数しかない状態で治療をした経験もあってのことです。

 

 7班:菽法の場所を大切にしているのですが、その中の脈状はどのように考えているのでしょうか。例えば、菽法の位置は良いが、弦脈などの病脈が残っている場合など。

  二木 菽法の高さを検脉では最重要視していますが、治療の取りかかりを決めるには病脉や五臓正脉の方が重要です。治療を進める中で菽法は五箇所検脉することになるので、これが全て整えられていたなら病脉は消失していると思われます。

 

 8班:良い脈にどうしてもならない時はどこまで治療するのか?決断はどこを基準にするのでしょうか。

  二木 何度か出てきているように、数が押さえられるようにだけはしています。ただし、単純に数を押さえ込んでいるだけの勘違いを防ぐため、肩上部と腹部の状態も同時に確認をしています。決断についてはそれぞれの患者さんで違いますから一概に表現できないのですけど、ドーゼ過多を起こさないように気を付けます。ドーゼ過多については、Z理(そうり)が開いてきたなら限界として判断しています。

 

 11班:この根底に触れている気持ちよさこそは…という根底とはどういうことか?骨に触れる程度の位置を言うのか。メンタル面な印象のことか。

  二木 メンタル面ではありません、菽法でいえば9から12くらいの高さになるでしょうか、脉差診でいう中脉と表現した方が分かりやすいかも知れませんけど、「胃の気」なのですから脾の高さを中心に触れてきて不思議はないはずです。一番よく触れている箇所がこの高さでまず気付きました。そして色々と探っていると全ての脉状で触れているので、根底に触れている気持ちよさと表現をしました。触っていて気持ちいい脉の全てが胃の気の充実した脉ではないかも知れませんけど、菽法の高さに全てが合致していて気持ちいいのですからこれは胃の気の充実した状態と捉えています。

 

 16班:基礎の一般で参加の先生で個人的質問だそうです。「胃の気脉」とは何でしょうか?杉山勲先生の著者では、マスターしやすい脉診法という感じでしたが、その方法についてはわかりやすく記載がありませんでした。この大会は「完全に健康の脉」というように感じました。実際の解釈はわからなく、詳しく教えてくださいませんか。

  二木 聴講クラスで指導をさせてもらう時には、「あぁこの脉が全身に巡っているならそれは気持ちいいことだろうし病気も治っていくだろうな」と思えるような脉状、それが胃の気の充実した状態であり胃の気脉がしっかりでている状態だとまずは素直に覚えてください、といいます。「胃の気脉」を肝血に表現するのは非常に難しく、それは「気」を肝血に表現できないことと同じで、奥が深く様々な側面を持っている漢方医学の真髄です。申し訳ありませんが、私がここで断定的な表現をすることはできかねますし、その前に難しすぎることです。

 でも、一つ言えることは本論の中でも触れていたように自分が触りやすい脉=いい脉ではないことです。私は点字を使っていたので触覚訓練ができていましたから一番最初に脉診をした時からその変化は触知できたものの、その意味するところはさっぱり何も分かりませんでした。「最初から分かってたまるか」と、先輩にもいわれたものです。ですから、その後はとにかく自分の脉を暇さえあれば一日に何度でも触って、体調のいい時と悪い時の脉を覚え込むことから始めました。それでも脉は奥深くて自分の体調だけでは判断しきれないのでクラスメートの脉も触り、外来患者さんの脉も触ってと脉には様々なものがあるということを次にはしました。ここから得られた答えが、自分が触りやすい脉は必ずしもいい脉ではないということであり、事実の方が先にあるので己の感覚を合わせていくことこそ大切で上達の近道だと思いました。

 

 16班:治療を終える時、数脈のまま終わらないと仰っていましたが、それ以外に(菽法の位置にする以外)で気をつけていらっしゃる事はありますか?

  二木 ドーゼ過多にさせないことです。先程の続きになりますが、運動会が終了してから「腰痛でどうにも動けない女子生徒がいるので治療を」と引っ張って行かれて、どんな治療をしたのか詳しくは覚えていませんけど学生ながら自分の持っている知識であれこれやったなら「うん素晴らしい脉じゃないか」と納得できるものが出来上がりました。数はなく、自分が触りやすい脉でもなくて女子生徒も動けるようになっています。ところが、結果は明くる日にもっと動けなくなって病院で点滴を受けていました。ドーゼ過多だったわけです。この経験は、脉診が上達したかったなら他の診察法も同時に行っていなければならないという教訓になりました。

 助手時代にも師匠が緊急の外出で留守番をしていた時、激しい肩上部の自発痛で苦しみ続けている緊急の来院があって治療をしたなら見事なくらい痛みが取れたのですけど、「もうちょっとだけ残るね」の言葉に手柄を焦って数本の鍼を追加したなら途端に痛みが元通りになって、明くる日に師匠にも診察してもらいましたが改善できなかったのもドーゼ過多でした。ドーゼ過多は脉ではなかなか捉えにくいので、やはり脉だけに夢中にならないことだろうと思います。でも、今でもその繰り返しではありますが。

 

 

【フロアで質問したが、残りのあった質問】

1班:脈診以外でストッパーとして診ているものについて。

  二木 肩上部と腹部の状態は、常に観察を続けます。三つの観察ポイントがあれば、一番の正解にはならなくても最低でも悪い方向へ向かっているのに全く気付かないということはないでしょう。私のケースですけど、漢方鍼医会が発足する前と後では大きく治療体系が変わりましたし、その後の20年間でも治療が少しずつ変化をしてきていて、一番大きな違いは本治法での鍼数がどんどん少なくなっていることですがその間もずっと患者さんは治癒してもらっていました。最後まで「これが正解」というものにはたどり着かないでしょうし、元々漢方医学にはそのようなものがないとも言えます。でも、なんでもやればよくなるかといえば明らかに方向の違うアプローチをしたのではダメで、方向を定めるには三つくらいの観察ポイントが必要だと思っています。

 また余談になりますけど、漢方鍼医会が発足した頃は治療を決めるのに「方向性はいい」という言葉を多用していました。手探り状態だったのでこれが悪いと表現しているのではありませんが、東西南北のどこを向けばいいかを探っていたくらいに当時から感じていました。しかし、せめて東南東とか北北西とかくらいまでは方向を絞らないととも感じており、そのためにも脉診以外のストッパーの必要性を主張してきました。

 

 6班:体質脈と胃の気の関係はどう考えますか。

  二木 フロアからの質問の時にも回答しましたが、対疾脉については初診時から分かるものではなく、かなり長くつきあわないと分からないものだと思います。その患者さんの対疾脉がよく理解できるようになれば、そちらの方を強く意識して治療をしていますが、それまでは胃の気脉の充実を最大限に重視しています。

 

 6班:胃の気が現れることは菽法が整うということでしょうか。脈のどの位置を見ているのでしょうか。脈の表面、中位、深位など。

  二木 菽法がしっかり整えられれば、それは胃の気が充実し胃の気脉が現れていると理解していいと思います。どこに現れているかといえば全体なのですが、特に感じられるのは九菽から十二菽くらいが実感です。

 

 12班:脈を言葉で表現することはとても難しいのですが、平均化された脈状というのは、やはり良い脈と言えるのではないかという意見がありました。どうお考えになりますか。

  二木 そうだと思います。ですから、トイレを我慢した後に観察できる脉のことを例に出しました。治療終了時のよい脉とは質が異なりますけど、よい脉のイメージをしっかり持っておくことは大切ですし、迷った時にいつでも再現してイメージがまた持てるような手段を一つは持っておくことが大切だと思って、例に出しました。

 

 14班:脈診を行う際の示指、中指、薬指の平均化した指の置き方の練習方法はありますか。

  二木 平均化した指の置き方という意味がよく分からないのですけど、特に大切なのは三菽の指の重さがいつでも再現できるかだと思います。一時限目の実技でやったことですが、橈骨上で揃えた示指・中指・薬指を脉の上へ滑らせてきて、いきなり押さえずにしばらく待てること、最初にこの練習をしておかないと三菽の高さにはなりません。次に十五菽まで沈めてから順番に指を操作してくるのですけど、三菽の高さに戻せたと思ったなら最初にやった三菽の取り方と比較をします。検算をするということですね。これで同じ重さが実現できていたなら、菽法の指の動かし方が正しかったという証明になります。

 検算することを今まであまり重視してこなかったように思われますが、それでは思い込みで脉診をしていただけと酷評されても仕方ありません。漢方鍼医会の脉診が他の研修会と一番違っている点は菽法を取り入れていることであり、遅数だけでなく浮沈の認識も完全に統一されるのでありその後の脉状についても統一性が非常に高くなります。検算までの実技、重視をお願いします。




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