うーん、困った困った

非公式月例会でもう一つの話題というか課題は、新しいテキストの執筆がなされているのですけど手法についての立ち位置が変わること。「補法」はいいのですが、どうにも「補中の瀉」が言葉も含めて納得ができません。
最初は「補法以外はすべて補中の瀉なんだ」と言われても具体的なやり方がなければさらに混乱を広げていくだけだとあちこちから突っ込まれ、少し鍼を押し付けてゆっくり抜鍼するとなりましたから「それじゃ営気の手法へ戻ってきたんだ」ということにはなったのですけど、徐抜ということは瀉法そのものでは?ということで検証です。
結果としては気が抜かれているのであり、前半に補いの動作がある文だけぼやけた脈状にしかなりませんでした。これだったなら即刺徐抜の瀉法そのものをやったほうが受けている側もスッキリするということで、滋賀の結論としては却下です。というよりも、執筆しているメンバーで実技をして確認したのでしょうか?
そういう意味では補法の実技をしてきたときの軽擦のスピードで、中途半端なものは身体を動かしていないという教訓があったので再現させてみると本当に中途半端が一番だめでした。「一呼吸に六寸進む」とあるのですから、明確に六寸より早いカオソイ化をやらないとだめでした。遅いのであれば本当に遅く動かすと、これはこれで身体が動いたのです。漫才ではありませんけど、「中途半端やなぁ」はあかんで。
では、徐抜だと鍼口が必然的に閉じられないのであり、即抜でも鍼口を閉じなくていいと今のテキストにはあるのですけどどうなんだろうとやってみると、閉じなくても補いはある程度できるものの明らかに鍼口を閉じたほうが受けている側に温かみがあり脈状も安定しました。要するに押し手の重たい人が多く、そのついでに母指と示指の力も強すぎるので「鍼口は閉じなくてもいい」というようになってしまったのでしょう。押し手の重たさと、母子・自死後からの修練法を次は考えねばです。
そして最大の問題点は、このような検証結果をどうやって執筆しているメンバーに伝えていくかです。実技を通じての執筆をしてこなかったシステムそのものへダメだしすることになりますから、素直に聞き入れてもらえないでしょう。というより門前払い歌滋賀が喧嘩別れになるという最悪パターンも。うーん、困った困った。